慶応4年(1868年)4月11日は江戸城無血開城が実行された日です。
この一件に関し、皆さんはどんなイメージを抱かれますか?
幕府と薩摩の話し合いにより、一滴の血も流さず本拠地を明け渡した。実に日本人らしい平和的解決である――。
そんな印象になりそうですが、実情は全く異なります。
確かに江戸で大きな戦火は広がりませんでしたし、当時の責任者だった徳川慶喜も落命することなく江戸から水戸、駿府へと移り、その後も生を長らえることができました。
しかし。
慶喜が助かった一方、実際は犠牲者も多く出て、夥しい流血の戦争は続きました。
犠牲になったのは、慶喜に忠義を誓った幕臣だったり、東北の佐幕派諸藩だったり。
その辺りの悲惨な歴史を描いてもおかしくない大河ドラマ『青天を衝け』では、ほぼスルーされ、江戸城無血開城で最大の功労者である勝海舟すら登場していません。
それゆえ最近ドラマで知った方は、
・江戸城無血開城がどんな展開で進められたのか
・責任者であるはずの慶喜が助けられたのはなぜなのか
といった重要な認識が不明かもしれません。
本稿では、大河で描かれなかった【江戸城無血開城の真実】について考察してみたいと思います。

弘化年間(1844~1848年)の江戸/wikipediaより引用
勝海舟、突如呼び出される
慶応4年(1868年)正月。
勝海舟は氷川の自宅でのんびりと昼寝しておりました。
阿部正弘に登用されて以来、才智を十分に発揮してきたようで、ことはそう単純でもない。
彼が目をかけていた坂本龍馬らの動きを幕閣に咎められ、管理不行き届きだとして左遷させられたのです。

坂本龍馬/wikipediaより引用
慶喜は、そんな勝に泥沼となった第二次【長州征討】の戦後処理を押し付けました。
そのうえで和睦条件が気に入らないと一方的に免職処分にします。
ズケズケと諫言をする家臣を慶喜は嫌いました。有能なイエスマン、自分の手足として働く人物しか近づけない。
耳に痛いことばかりを言う勝とは相性が悪かったんですね。
それが突如、慶喜が勝を呼び出した。
「こりゃ何事か?」と、浜離宮へ馬で向かう勝。

勝海舟/wikipediaより引用
開陽丸が到着すると、そこにいたのは、顔面蒼白、うつむいて誰も話すこともない一団です。
縮こまった将軍その人でした。
謡曲で鍛えた喉からほとばしる朗々たる声。明快な弁舌。勝すら言い負かせない聡明な姿はそこにはありません。
怯え、カリスマ性が消え去った敗残の将でした。
しかし、逃亡の顛末を聞いた勝は激しく怒ります。
「なんで大坂城に籠らず、こんなみっともねえ姿で戻ったんですか! あの城に籠ったら、十万に攻められようともったものを……かえすがえすも残念でなりませんな!」
慶喜はしばらく言葉を失い、ようやく一言呟きました。
「勝、頼れるのはもう、あなた一人しかいないのだ。よろしく頼む」
ちくしょう、なんでぇ!
江戸っ子・勝海舟の胸に複雑な気持ちが湧いてきます。
いけすかねえとはいえ、主君は主君だ。それにこうも小さくなられては、放ってもおけねえ!
勝の中で何かが芽生えた瞬間でした。
勝海舟が頼られた一方、捨てられた人物もいます。
例えば、勘定奉行・陸軍奉行の小栗忠順。

小栗忠順/wikipediaより引用
2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主役となる小栗は、シャープな知性と深慮遠謀を持ちあわせ、慶喜の袖を掴んでまで抗戦論を主張しました。
有能なだけに、小栗ならできるかもしれない――しかし、慶喜からすればそれが怖かったのでしょう。
小栗もまた罷免したのです。
このあと小栗は、罪状もないまま処刑される悲運を味わいます。
結局、今まで冷や飯を食わせてきた勝海舟を海軍奉行並に抜擢したのです。
江戸城総攻撃は3月15日――そう決められていました。
さぁ、それまでにどうすべきか?
“腰抜け”将軍を歓迎しない江戸城
和歌山城下に旗本の竹内重太郎がいました。
遊撃隊士として逃げる最中だった竹内は宿の主人にボヤきます。
「そもそも将軍様が健在であれば、俺らはこんな苦労してないと思うんだよな……」
すると宿の主人は、ひそひそとこう言ってきたのです。
「ご心配なく。その上様ならお忍びでこの宿に……」
「えっ!?」
竹内は唖然としました。
確かに何やらそんな気配は察知できました。
こうした慶喜お忍び伝説は複数残されていて、それほどまでの電撃逃亡劇が展開されていたのです。
大坂城から江戸城まで、逃亡の四日間――慶喜は毛布にくるまり、缶入りビスケットで飢えを凌いでいました。

徳川慶喜/wikipediaより引用
浜離宮で勝が目にしたのは、こうして縮こまり、眠れず、飢えていた将軍の姿でした。
もしかすると慶喜は「江戸城なら、もっとあたたかい歓迎をされるかも」と甘い願望を抱いていたかもしれません。聡明でありながら見通しが甘くなる悪癖が彼にはありました。
しかし実際のところ、幕臣にとっても、江戸っ子にとっても、愛すべき上様とは夭折した家茂でした。
慶喜は家茂が若くして没したために、京都で将軍となり、京都で政権を投げ出して勝手に帰ってきました。迷惑な親戚といったところでしょうか。
慶喜が目にした江戸城内は?
無茶苦茶でした。
普段ならば人がいて話声がする広間に誰もいない。そうかと思えば、あぐらをかいて座り込んでいる奴もいる。怒鳴り出す奴もいる。ブランデーの小瓶を出してクイっとやけ酒をあおっているまでいる。
殿中自殺を遂げる者も出てきました。
そんな城に【鳥羽・伏見の戦い】で負傷した会津藩兵が運ばれてきます。

鳥羽・伏見の戦い(上:富ノ森の遭遇戦と下:高瀬川堤での戦闘)/wikipediaより引用
慶喜は自ら見舞いに向かうと、その中にいた島津忠三郎がいきなり慶喜に言いました。
「上様は正真正銘の腰抜けですな! しょせんあてにならない方だ。さっさと国の水戸にでもおかえりなさい。五千の兵でも集めて四境を固めればよいでしょうよ!」
さしもの慶喜も言い返せず、黙り込むしかありません。
無礼だと嗜めるものすらいない。将軍に対する経緯どころか、冷たく無関心な眼差しだけがありました。
まさに「針の筵」となった江戸城。前橋藩家老の山田太郎左衛門らが、こんな提案をするほどです。
「いっそ将軍を禁錮し、朝廷に差し出し、徳川家存亡をはかってはいかがか」
それは“あり”だと思われますか?
さすがに現実味はありませんでしたが、こんなことまで提案されるほど、江戸城は無茶苦茶な状態だったのです。
そんな中で慶喜は、勝海舟だけでなくもう一人の“舟”も待ち受けていました。
人格高潔で槍の達人として知られる高橋泥舟です。呼べども、呼べども彼は来ない。十日ほど待たされてやっと会えると、慶喜は「なぜこうも遅れたのか!」と尋ねます。
すると泥舟は首を捻りました。彼は急報を知るや、真っ先に江戸城に来ていたのに、面会を阻まれていたのです。
ともあれ、泥舟と再会し、やっと慶喜は生きた心地がしたのです。高橋泥舟は熱心な尊皇派でした。彼ならば慶喜が「錦の御旗」を見て逃げ帰ったと耳にしても、罵るどころか理解することでしょう。
和宮にすがる慶喜
大奥へ通じる御鈴廊下を将軍が歩き、女たちが伏せる――時代劇の定番場面ですね。

橋本(楊洲)周延画『大奥』/Wikipediaより引用
しかし、戦場からおめおめと逃げ帰った上様に対し、大奥がそんな殊勝な態度を取ることはありません。
なにせ、大奥は慶喜の父である徳川斉昭のころから彼らを憎んでいます。
大奥女中を無理矢理暴行のうえ妊娠させ、予算削減しろといちいちねじ込んできた斉昭。その子の慶喜なぞ、顔を見ることすらおぞましい。
そもそも京都にいて大奥に足を踏み入れてもいない。
そのくせ、予算削減だけはしつこかった!
大奥は仕返しをします。布団を欲しいと言った慶喜にこう言ったのです。
「予算削減で余った夜具なぞありません、毛布で寝てください」
歴代徳川将軍の中でも、毛布に包まって眠る羽目になったのは、それこそ慶喜だけでしょう。
大奥の頂点に立つ天璋院篤姫も当然激怒しています。

篤姫/wikipediaより引用
弱腰の慶喜なぞ無視し、彼女は奥羽越列藩同盟に激励の書状を送り、かつ後に徳川家達となる田安亀之助に未来を託していました。
そしてもう一人、大奥から敬愛されていた人物といえば、家茂の未亡人・和宮がいます。
夫の死後、京都に戻ることもできず、この大異変につきあたったのです。
剃髪して二の丸で暮らし、静寛院宮と称されていた和宮。そんな彼女に慶喜は泣きつきます。
「朝廷に逆らうつもりはなく行き違いだった、やむを得ないことだった」
そう弁明した上で、徳川家の存続を朝廷に頼むよう訴えたのです。
和宮『静寛院宮日記』には、嫁いだからには徳川家を滅ぼしたくないと書かれており、美談として引用されます。
その一方、和宮が当時残した書状には本音が書かれていました。
夫であった家茂のために苦労をするならばわかる。しかし、よりにもよって朝敵・慶喜ごときのために身命を捨てるなぞ、父である帝を穢すことになる。残念でなりません――。
ここまで慶喜に冷えきった心だったとはいえ、和宮は己の役割を果たしました。朝廷との交渉を引き受けているのです。
よほど堪えたのでしょう。慶喜は、天璋院と和宮の慰霊は欠かさなかったとされます。
このことを聞いた大久保利通は、こう書きました。
あほらしさの限りの御座候。
朝敵として討伐されながら、隠退くらいで謝罪になるって? 舐めてんのか? そんな苦々しい思いが記録されています。

大久保利通/wikipediaより引用
刀を抜いたらただでは収めない薩摩隼人とすれば、その情けない姿に闘争心を掻き立てられたことでしょう。
薩摩藩の面々は、会津藩のようにきっちりと筋目を通した相手は武士として敬愛を示します。敵ながら天晴れ!ということですね。
しかし慶喜についてはハッキリと軽蔑しています。
煮え切らない慶喜の態度は、かえって西軍を硬化させたのです。
聡明であるはずの慶喜は、周囲の感情も、情勢も、何もかも読めていませんでした。
【江戸城無血開城】に向けて、さしたる役目もありません。
かつて慶喜に翻弄された山内容堂、松平春嶽らは朝廷工作に動いていた証拠があります。和宮もそう。
しかし、松平春嶽がいつでも優柔不断であると評した慶喜は、己の命を守るべく右往左往するばかりでした。
捨てるフランスあらば、拾うイギリスあり
慶喜は一縷の望みをかけ、フランス公使レオン・ロッシュに面会しました。

レオン・ロッシュ/wikipediaより引用
これまで慶喜を熱心に支えてきたロッシュとしても幕府を助けるべく提案します。
「全国の大名に向けた新たな政治体制布告を出しましょう。京都の朝廷とは、薩長の干渉がなければ交渉しないと追い返すのです。フランスから兵も送りますから、フランス人士官に指揮を任せてください」
実に具体性のある案でした。しかし……。
「ただ……それなりの資金をいただかねばできませんな。シャスポー銃の代金はいつお支払いいただけますか?」
ロッシュは金勘定をしていたのか? それだけでもなく、彼にも任務があります。
ロッシュは情熱的な性格で、慶喜のことは愛弟子のように強い情愛すら見せておりました。
しかし、フランス本国でその姿勢が問題視されます。慈善事業じゃあるまいし、やるなら結果を出しなさい。個人的感情に流されているのでは? そう疑念を抱かれているのです。これ以上甘い顔はできません。
結果、慶喜はフランスに頼ることを放棄。
本人曰く「朝廷に弓を引けない」とのことですが、ならば、はなから頼らなければよく、つまりは言い訳でしょう。
幕臣たちはこれ以前から、薄々勘づいていることはありました。
フランス人は友愛だけでもなく、金儲けのために力を貸しているのだと。フランスに頼ることを決めた栗本鋤雲にせよ、小栗忠順にせよ、自分たちとて消去法でフランスを選んだことを理解してもいました。
むろん、このあとも幕府側で転戦するブリュネのような人物はいましたが、政治とは綺麗事でもありません。
こうして冷淡になったフランスに対し、意外な人物が慶喜助命に動きました。
イギリス公使のハリー・パークスです。

ハリー・パークス/Wikipediaより引用
イギリスは抜け目なく薩摩と歩調を合わせ、朝廷とも接触を図っていました。
攘夷に固執した孝明天皇の崩御後であればそれも可能。
東を目指す西軍が、江戸での決戦の際に出る負傷者の治療に協力して欲しいと申し込みに向かったところ、パークスは突如激怒します。
「西洋では、負けた国の君主の首を求めるような残虐なことは許さない、慶喜公は助命なさい! 死罪にするならば国際公法違反だ。日本がこれから先、国際社会にデビューするならそこのところを考えなさい!」
てっきり快諾してくれると思っていた西軍側は困惑するばかり。
「慶喜公は恭順しているのに、戦争を仕掛けるとはどういうことだ! 無政府国家と思われてもよいのか!」
なぜパークスが急にそんな態度を示したのか?
確かに慶喜に抱いていた親愛の情もあるのでしょう。のみならずイギリス人ということも関係しているかもしれません。
遡ることおよそ一世紀前、フランス革命を目にしたイギリス人はこう言いました。
「フランス人は野蛮だ! 国王に王妃をギロチンにかけ、平然としているとは!」
イギリスでは、国王斬首抜きで革命を成し遂げたという誇りもあります。
この時代のイギリスでは、あの名君であるエリザベス1世が嫌われてすらいます。スコットランド女王メアリ・スチュアート斬首があまりに酷いとされました。
ただし、イギリス人からすれば惜しむべき流血とは、所詮王侯貴族の“青い血”だけ。明治になってからイギリス人旅行家は【戊辰戦争】で荒廃した土地を観光し、偏見に満ちた記録を残しているのでした。
幕末明治のイギリス人による日本滞在記はなかなか辛辣であり、かつては閲覧がなかなかできませんでした。不都合な史実なのでしょうね。
“三舟”が集い、江戸を火の海から救う
その頃、根っこが江戸っ子の勝は、おそろしいほどの博打作戦を思案していました。
江戸の焦土作戦です。
火事と喧嘩は江戸の華!
そうされるほど火災が頻発した江戸ですが、戦火で焼けたことはありません。
それがあやうくなったのが幕末です。
吉田松陰は【安政の大地震】の報告を聞き、長州から攻め上れば勝てるのではないかと妄想していました。
【生麦事件】の際には、イギリスの報復をおそれたこともあり、関東では治安が悪化しています。
その悪夢を実現し、敵を破る――そんな奇策をナポレオンを撃退した【1812年ロシア戦役】から思いついたのです。
とはいえ、生まれ育った江戸を焼くとなると、当然のことながら気は重い。
火消しの新門辰五郎らに話をつけつつ、同時に船頭にも交渉します。

新門辰五郎/wikipediaより引用
もしも江戸が焼け野原になったら、なるべく多くの人を逃してやって欲しい。
そして、自腹を切ってまで作戦を立てたものですから、勝の家計は火の車になったとか。
この焦土作戦は無駄だったのでしょうか?
そうとも言い切れない。そう主張したいようで、素直に信じない方がよいかもしれません。勝はどうにも話を“盛る”傾向があります。
小栗忠順による幻の西軍迎撃作戦も気になるところです。これを見た西軍側は顔色が変わり、実現されていたら勝ち目がなかったとつぶいやいたとか。勝の作戦よりも具体的かつ優れていたものであっても不思議はありません。
ともあれ、愛する街を焼け野原にしないためにも、勝は全力で交渉に当たるしかない。
これもそう言いたいようで、実は別の“舟”が出てきます。迫る西郷隆盛との対談に臨むには誰が適任か? それは高橋泥舟である――そうなりかけました。
「それはならぬ!」
ここで止めに入ったのが、これまで見守るばかりであった慶喜その人です。護衛である泥舟を心の底から頼りにしていた慶喜は、会談のために泥舟が彼のそばを離れては困ると言い出したのです。
そこで泥舟は、義弟・山岡鉄舟を推挙します。

山岡鉄舟/wikipediaより引用
鉄舟はかつて泥舟の兄・静山から槍を習っておりました。静山が若くして突如亡くなると、泥舟は高橋家に養子入りした自分にかわり、鉄舟に婿として山岡家を相続するよう持ちかけました。
山岡家当主としても、妹・英子の夫としても、彼ならば任せられると信頼していたのです。英子を挟み、この義兄弟は常に互いを信頼しあってきました。
義弟の頼みを受け、山岡鉄舟がやってきます。この時代に190センチ近かったという鉄舟は、おそるべき大男でした。
義弟と同じく尊皇派である山岡鉄舟は、慶喜の意を汲み、裂帛の気合いで西郷隆盛との会談に臨みます。
山岡は西郷の好みにあう、武士の中の武士でした。腹芸抜きに語り合ううちに、さしもの西郷も無血開城を受け入れます。
「幕末三舟」はあらんかぎりの智勇でもって、己の役割を果たすべく動いておりました。
そして総攻撃と予告された3月15日から遡ること2日前の3月13日、薩摩藩蔵屋敷で勝と西郷の会談が持たれます。
有名な絵もあり、この日にすべてが決したように思えますが、繰り返しますが勝海舟だけでなく、二舟も尽力しております。この一日だけのことでもなく、むしろこの会談は最終確認です。
むしろ積み上げた勝の策を西郷が受け止めた、最終局面といえました。
決まったのは総攻撃中止です。
さてここまできて疑問を覚えませんか?
多くの人が関わった【無血開城】でありながら、西郷と勝だけで決めたように誤解されるのか? 中でも他の二舟は消えてしまったのか?
高橋泥舟はこの場に不在ですが、山岡鉄舟はおりました。
その大きな一因が、聖徳記念絵画館所蔵、結城素明画『江戸開城談判』でしょう。

江戸城無血開城のため西郷と勝が開いた会談を描いた『江戸開城談判』作:結城素明/wikipediaより引用
和室で西郷隆盛と勝海舟が向き合っている絵で、【無血開城】といえばこの絵です。
この絵が寄進された際に出資したのが勝家と西郷家の子孫でした。山岡家は出資しなかったのです。
いわばスポンサーの意向で最大の功労者ともいえる山岡鉄舟が消えてしまったといえる。絵は絵、史実は史実として考えましょう。
教師イギリス先生の生徒であった明治日本
さて、慶喜から全幅の信頼を寄せられていた高橋泥舟ですが、彼でもどうにもできないことはありました。
上野には、慶喜を守るという名目で彰義隊が集結しています。ではその慶喜の首が繋がったからには解散するかというと、そうはなりません。「義を彰(あきら)かにする」ために戦うしかありません。
江戸城には、無傷の海軍を率いる榎本武揚も入っておりました。オランダ留学で秀逸な成績を収め、当時の日本では最強の海将といえます。
泥舟は彼に対し、もはや勝敗は決したと説きました。相手も素直に聞いております。
しかし翌朝、泥舟が受け取ったのは艦隊を率いて榎本が立ち去ったという知らせでした。
肩を落としつつも、武士ならば致し方あるまいと思うほかありません。榎本艦隊は西軍艦隊を蹴散らしつつ、【箱館戦争】まで戦い抜くこととなります。
かくして奥羽越列藩同盟、そして幕臣たちが江戸から函館まで戦う中、慶喜はひっそりと水戸へと送られました。
ここに裏話があります。
無血開城後の3月27日、勝は横浜のイギリス領事館に乗り込み、あのパークスと話し合いをしていました。
そこはパークスですから、傲慢極まりないのですが、勝の聡明さを気に入ったのか、態度を軟化。
夕食をとりながらこんなやりとりしたのです。
「幕府サイドは慶喜公をどうするおつもりで?」
「これがなんとも困ってまして。まァ水戸に送りたいのですが、上野の寛永寺に預けてます。死罪や切腹だけは勘弁したいのだが、どうにかならんもんですかね」
「なるほど、ならば我が国の軍艦を貸しましょう。いっそ我が国に亡命したらいかがでしょう? 歓迎しますよ」
「ありがたいことです。じゃあ、その軍艦を一月ほど停泊させておいてもらえますか?」
「いいでしょう」
こうして保険をかけていたのです。
パークスは西郷を横浜まで呼びつけ、慶喜助命を念押し――美談のようでもあり、重要な要素もあります。
無血開城で早々に降伏したことで、日本は海外の干渉を防いだ。
そんなことが言われますが、実際はどうでしょう?
政局は、パークスの判断で動いています。程なくして訪れる明治時代において、政府がイギリスの意向を受ける予兆に思えます。
実際にパークスの強い干渉を受け、樺太千島交換条約が成立。
日露戦争のころ、イギリス人とアメリカ人が日本人をけしかけ、ロシア人と戦うように迫る風刺画がで回りました。教科書でご覧になった方も多いことでしょう。
伊藤博文はのちにパークスのことを「彼の我々に対する態度はまるで、教師が生徒にするようなものだった」と振り返っています。

伊藤博文/wikipediaより引用
何かにつけ「文明国とは何か!」と振りかざされ、明治の政治家たちはパークスに戦々恐々としていおました。
そしてそんな傲岸な態度が、慶喜の助命に繋がったのですから不思議なものです。
4月11日、開城した江戸から慶喜が出て、水戸へ。
江戸城に乗り込んだ西軍は、そこで堂々とこれまで亡くなった者たちの霊を弔いました。
大久保利通は、慶喜への処置が寛大すぎるのではないかと懸念を示しています。
水戸に戻り、現地で兵士でも集めたら危険です。
実際、江戸から明治に変わる頃、水戸では諸生党への復讐に燃えた天狗党が暴れ回り、血で血を洗う惨劇が発生していました。
しかし、これが慶喜にとっては好材料となります。
水戸はこのことによって人材が枯渇し、無力化されたのです。
幕末一猛悪とされた水戸藩は同士討ちによって壊滅し、明治以降の人材が尽きたとすら言われました。
冷静に振り返ってみますと、【無血開城】とは果たして無血だったのでしょうか。
幕臣として慶喜たちに忠誠を尽くしてきた川路聖謨は、江戸城総攻撃が迫る中、ピストルで己の命を絶っています。

川路聖謨/wikipediaより引用
川路にとっては勝の交渉も遅すぎました。
さらに小栗忠順も、抗戦を諦めていたにもかかわらず、新政府軍に捕まり、冤罪で斬首刑とされました。
他にも、幕臣たち、彰義隊、新選組、諸生党、奥羽越列藩同盟……と、多くの血が流れ続けます。
結局のところ、無血とは将軍慶喜の助命だけでは?と思えるのです。
慶喜の再起と弁明
旧幕臣たちは政治から遠ざけられ、慶喜は駿府へ向かいました。
幕臣たちが困窮する中、慶喜は趣味に生き、女中との間に多くの子供を作る日々。
日本全体に目を向けると、不平士族の反乱が続発するなど、明治時代は、混乱だらけのスタートを切っています。
それでも慶喜は「政治は我がことにあらず」とシラを切り通し、我関せずとばかりに生き続けました。

隠居生活で狩猟を楽しんでいた慶喜/wikipediaより引用
下手に政治力を見せたら危険である。そんな判断があったのでしょう。
そして時は流れ、政治的な圧力が弱まった中、慶喜は元幕臣の願いに応じます。
その人物とは、渋沢栄一です。
幕政時代はそれほど頼りにしていなかったものの、明治以降は長州閥に連なる政商として、明治財界を取り仕切る渋沢栄一。

渋沢栄一/wikipediaより引用
彼が慶喜の顕彰をするとなれば、願ったり叶ったりです。
かくして意気投合した君臣は、邪魔者があらかた去った世で、自己弁護の語り残し、執筆、そして出版を始めるのでした。
一方で、慶喜から顧みられなかった幕臣たちもいます。山岡鉄舟は「そなたこそ一番槍である」という言葉と共に来国俊の名刀を贈られました。彼はよほど印象深かったのでしょう。
しかし、そうでない者もおります。
函館戦争まで戦い抜いた永井尚志は、駿府での面会すら断られました。

永井尚志/wikipediaより引用
勝海舟は、彼が最晩年になって歩けなくなってから、ようやく慶喜が見舞いに訪れています。
忠義を尽くしたところで、恩を感じる主君でなければ、報われないものです。
【無血開城】とは何だったのか?
歴史用語には、イデオロギーが反映されていて、なかなか取扱が難しいものがあります。
例えば本項では「官軍」ではなく「西軍」としています。
「官軍」の対比は「賊軍」であり、それをそのまま使うことはふさわしくないと考えた上でそうしています。
実はこの【無血開城】も疑念を感じます。
確かに慶喜の血は一滴も流れていません。その意味では正しい。
しかし、くどくど申しましたように、これでは彰義隊や川路聖謨の酷い死がまるでなかったようにも思えてきます。
そんな中でも屈指の理不尽さであるのが、小栗忠順の斬首でしょう。
彼は江戸や関東近郊の近代化を進めた英傑です。隠棲し抵抗することすらない彼が、ろくに取り調べもないまま殺される様はあまりに陰惨であるためか、知る人ぞ知る歴史の暗部といったところです。
2027年、それが『逆賊の幕臣』として一年かけて大河ドラマとなります。このことが広く知られることが日本人の意識をどう変えてゆくのか。気になるところです。
その後の【戊辰戦争】の流血を過小評価する誤解もそうでしょう。
伊藤博文がアメリカで「明治維新は無血革命のようなものだ」と演説したことをはじめ、誤認としていまだに顔を出し、そのたびに論争になっています。
海外の干渉を防いだというのも、パークスが新政府側に圧力をかけているからには、肯定しきれません。
むしろイギリスの同盟国となる地ならしと言えます。
そもそも博打をしていたのは勝海舟だけでもありません。
幕府海軍が軍艦をそのまま奪い逃げたからには、西郷隆盛だって慎重にならねばならなかった。

西郷隆盛byキヨッソーネ/wikipediaより引用
そんな薄氷を踏むような偶然がいくつも重なる中で、運命のサイコロが慶喜の首を求めない目になっただけでしょう。
そしてこのことにつきましては、慶喜自身はさしたる役目を果たしたとは到底言えません。
【無血開城】とは、評価が変わるものでもあります。
明治維新のみが日本の近代化における最適解であり、正しいことであったとみなす限り、その過程におけるワンシーンとして評価されます。
しかし、明治維新は本当に成功なのか?
手放しで評価できるのか?
無責任で優柔不断、かつ逃げ惑うばかり。臣下の功績は自分のもので、臣下のあやまちは臣下のものと言い張る傾向。
そんなリーダーを是とすることが、日本の歴史に悪影響を及ぼした可能性はありませんか?
福沢諭吉ら幕臣が、そう舌打ちした思いは、リーダーシップに疑念を抱いた人から定期的に蘇ります。
偉い人ほどすぐ逃げる。それって歴史を辿れば徳川慶喜がそうだ。
だいたい、そんな尻切れトンボじみた終わり方だったからこそ、その後もグズグズと政変や内戦が続いたのではないか……そこに気づくと【無血開城】も素直に肯定できなくなるのではないでしょうか。
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【参考文献】
野口武彦『慶喜のカリスマ』(→amazon)
野口武彦『江戸は燃えているか』(→amazon)
一坂太郎『明治維新とは何だったのか』(→amazon)
半藤一利『幕末史』(→amazon)
半藤一利『もうひとつの幕末史』(→amazon)
安藤優一郎『幕末維新 消された歴史』(→amazon)
鳴岩宗三『レオン・ロッシュの選択 幕末日本とフランス外交』(→amazon)
岩下哲典『山岡鉄舟・高橋泥舟』(→amazon)
他





