幕末・維新

最強の女スナイパー新島八重を知れば幕末&会津がわかる!86年の生涯

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新島八重
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会津、悲愴な決意

会津藩も無策ではいられません。

プロイセン人のシュネル兄弟から武器を買い付け、年齢別の部隊を組織します。

白虎隊:16〜17歳
朱雀隊:18〜35歳
青龍隊:36〜49歳
玄武隊:50〜56歳

八重の父・権八は、玄武隊に所属しました。

会津藩士とその家族には、悲壮感が充満しています。6年間、京都守護職をつとめ、都を守ってきたのに、それが報われるどころか、仇となってしまったのです。

山本家には、三郎の遺髪と形見の軍服が届けられました。

「なじょして、三郎は死んじまっただ……」

八重は悲嘆に暮れます。

さらに、兄・覚馬が京都で捕縛され、処刑されたという悲報まで届くのです。

「まだ決まったわけでねえ。覚馬の死に顔を見るまでは、信じねえ」

佐久はそう慰めますが、八重の胸には怒りが充満してきます。

「ゆるせねえ……あんつぁまと三郎の無念、そして会津のために、殿のために、わだすは戦う!」

こう強く決意を固めたのは、八重だけではありません。従軍できない老人、少年、婦人に至るまで、戦うと決意を固めた人々が会津には大勢おりました。

西軍の回想でも、武装して立ち向かった女性を殺害した苦しみを語るものがみられます。

彼らがここまで追い詰められていたのは、西軍の態度があまりに理不尽かつ傲慢であったことも一因でした。

都の治安を守るため。

孝明天皇のため。

苦難を続けてきたのに、かえってそれが朝敵とされて襲われようとしている。

こうなれば、死を覚悟してでも戦わねばならないという、絶望感も根底にあったのです。

※会津若松市の「戊辰150周年」映像。そこには明治維新を祝う雰囲気はありません

会津藩の戦術は、失敗が続きました。猪苗代方面の防衛に失敗し、十六橋の爆破が遅れ、敵軍の通過を許してしまったのです。

慶応4年8月23日(1868年10月8日)。

急を知らせる鐘が鳴る中、会津藩士の対応は、家ごとに異なります。

女子供が、足手まといになることを恐れ、自害した家は多くありました。

こうした犠牲者の人数は233名におよびます。

家老・西郷頼母の一族は、21名が自刃。

土佐藩士・中島信行(※別人説あり)が西郷屋敷に足を踏み入れると、女たちの屍が重なりあっています。

まだ17歳くらいの少女が、死にきれずにこう尋ねます。

「敵か、味方か……」
「安心しなさい、味方だ」

中島はそう言うと、少女の命を絶ちました。

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あまりの惨さに、中島は涙を落とします。

この少女は、西郷家長女の細布子とされております。西郷屋敷は「会津武家屋敷」として現在内部を見学できます。

 

三郎の軍服、腕にはスペンサー銃

三郎の形見である軍服を身につけた八重は、籠城へ向かいました。

このとき、八重はスペンサー銃とありったけの弾丸、大小の刀を身につけております。

八重だけではなく、長刀で武装し、白無垢を血塗れにした女性たちもおりました。戦い、傷ついた家族を介錯し、ここまでたどりついた女性たちです。

城内は、予備兵力である白虎隊や玄武隊、そして女性や子供ばかりです。

八重はスペンサー銃を装備し、狙撃の腕を発揮しました。

会津藩士の装備は、旧式のゲベール銃や火縄銃です。

スペンサー銃は最新式。

八重の守備位置を目指した西軍は、次から次へと指揮官が銃撃されます。

大山弥助(のちの巌)の右大腿部を狙撃した者は、八重とされております。狙撃距離や精度を考慮すると、ありえることです。

2013年の大河ドラマ『八重の桜』の冒頭は、この場面から始まりました。

八重は紛れもなく、会津藩屈指の狙撃手でした。狙撃ポイントを作るために塀を蹴り落とす等しながら、果敢に戦ったのです。

8月28日、新たに女性の一団が城に入り込んで来ました。

「あなたが味方にならないことを、卑怯だと思っておりました。しかし見ているとわかります。長刀では、鉄砲には叶わない。竹子に教えてやってくれませんか」

そう語る彼女は、中野孝子です。

娘である竹子、優子らとともに「娘子隊」(女性部隊)として出陣。萱野権兵衛に従軍を願い出て、長刀を抱えて戦場に立ったのです。

彼女らの目的は、容保の義姉・照姫の警護でした。

が、涙橋での乱戦で、竹子は胸に銃弾を受け、戦死を遂げます。

中野竹子/wikipediaより引用

彼らは萱野に促され、入城してきました。

※県立葵高校による娘子隊慰霊の舞踏。竹子と優子姉妹を表しており、倒れた姉を妹が支える振付をします

城の周囲を、彼女らと女中が取り囲み、警護と負傷者治療にあたりました。

ある夜、八重は夜襲出撃を聞きます。

彼女は親友の時尾(高木盛之輔の姉、斎藤一の妻)に頼みこみます。

新選組斎藤一のお墓/photo by Rikita wikipediaより引用

「時尾さん、髪を切ってくんつぇ」

断髪した八重は、スペンサー銃で敵を襲撃。かなりの手応えを感じました。

翌晩も出撃しようとしたところ、12歳くらいの少年10人ばかりが出撃したいとついてきます。感動した八重は、容保に許可を取りに向かいました。

しかし容保は、女子供が出撃しては恥であると止めたのです。

八重はそのあと、籠城する600人もの女性たちを指揮することになりました。

会津戦争後に撮影された若松城/wikipediaより引用

 

籠城する女たち

籠城する女性や子供たちにも、出来ることはあります。

・炊きたての飯を、火傷しそうなほどの熱さをこらえつつ握る

・敵の目をかいくぐりながら、食料調達に向かう

・子供たちが不屈の意志を示すため、会津名物・唐人凧を揚げる

・銃弾や金属片を溶かして、新たな銃弾を作る

あるとき、八重は二人組になって握り飯を運んでいました。

そこに砲弾が落ちて、煙がもうもうとあがります。

八重はやっと立ち上がって、相手の顔を見て大笑いしました。

「おめえ、顔が煤で真っ黒だべした!」

命のやりとりの中でも、八重はそういう豪胆さがあったのです。

雨あられと銃弾が降り注ぐ中、八重の恐怖は、トイレタイムでした。

みっともない姿のまま死んでしまってはみっともないと考えていたのです。

あるとき廊下を通ると、大勢の人が寝ているように見えたことも……目を凝らすと、それは戦死者でした。

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そんな彼女らにとって一番危険な任務は、不発弾処理です。落ちてきた不発弾を濡らした布で覆い、爆発を防ぐのです。

山川家の幼い娘・咲も、この任務を行い負傷しました。のちに名を山川捨松と変え、大山巌と結婚した彼女。

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彼女は夫婦喧嘩のとき、このとき出来た傷を見せて「あのとき、私を殺していればよかったでしょう!」と怒ることもあったとか。

砲弾を撃ち込んだ夫と、それを消し止めようとした妻。

彼女の義姉である兄・浩の妻である登勢は、この籠城戦の最中に爆死しています。

八重は、銃弾の構造を熟知していました。

容保の前で、銃弾を分解してその構造をペラペラと語ったこともあるそうです。

冷静で流暢な口調の八重に、その場にいた誰もが驚きを隠せませんでした。

度胸があり、強く、勇敢で、機転が利いていて、ユーモアのセンスもあり、かつ賢い。

そんな女戦士だったのです。

 

なれし御城に残す月かげ

そんな会津の女たちの戦も、終わりが近づいて来ます。

米沢藩支援の望みが絶たれ、食料が付き、死者が溢れてきます。

城の外には、錦旗が翻りました。

女たちにとって最後の仕事は、城内の白布を集めて、降伏の白旗を縫い合わせることでした。

父・権八は、激闘の最中に戦死。八重は、降伏の夜にこう城の塀に和歌を刻みこんだのです。

あすの夜は何国の誰かながむらむ なれし御城に残す月かげ

【訳】明日の夜になったら、どこからか来た誰かが、この慣れ親しんだ城の月影を見るのだろう

そう感慨を込めた一首です。

翌日、降伏。

60歳以上の高齢者と女性はお構いなし――にもかかわらず八重は「山本三郎だ」と名乗り、男であることを主張。謹慎地の猪苗代に送られます。

「お、女郎(めろう)だ!」

そう警備兵に言われることにうんざりしながらも、八重は夫・尚之助とともに猪苗代にたどり着きます。

猪苗代湖

死をも辞さない覚悟であったはずの八重。

しかし、男性ばかりの謹慎所では居場所もなく、ほどなくして解放されます。

八重は家族と共に、山本家と縁のあった米沢藩士・新一郎のもとに身を寄せたのでした。

夫・尚之助とは離ればなれになりました。彼は謹慎ののち、斗南藩に向かうこととなります。

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この地で尚之助は、訴訟沙汰に巻き込まれ、不遇の死を遂げています。

最期まで会津のために尽くした、誇り高い人物でした。

 

生きていた兄・覚馬

山本家は、苦難の最中、朗報をたまたま耳にしていました。

「山本様、覚馬様は生きてんだど!」

出入りする農民が、そう告げて来たのです。彼は、薩摩藩が宿とした場所に出入りして、その吉報を耳にしたのです。

覚馬の優れた見識は、新政府関係者を魅了したほど。

明治2年(1869年)、岩倉具視は『管見(謙遜しながらの素晴らしい見識)』に心を動かされ、面会しています。

こののち、覚馬は釈放されました。

この覚馬ですが『八重の桜』放映中に「兄つぁまを鴨川に投げ込め」というコールが沸き起こりました。

それというのも、不自由な彼を世話する小田時栄の存在ゆえです。

親子ほど歳が違うこの女性は、兄が会津藩の洋学所に出入りしていた関係で、覚馬の世話を焼くようになったようです。

そうこうするうちに、二人の間には娘まで産まれたのでした。

このことは、会津で娘を育て、留守を守っていた妻・うらにとっては、辛いもの。

明治4年(1871年)、覚馬が家族を京都へ呼び寄せたとき、うらは離婚を選んだのです。

「兄つぁまを鴨川に投げ込め」コールは、このうらに同情した人たちによる憤怒の叫びでした。

覚馬と小田時栄は結婚したものの、その心中はいかばかりか。

会津から姑・佐久、小姑(窪田家に嫁いだ八重の姉)、八重、うらの娘である峰がやって来たのです。

相当に気まずいものがあったと推測できます。

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