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【万延元年遣米使節】
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ハワイでカメハメハ4世と謁見してからシスコへ
ポーハタン号は1月に品川を出港し、横浜に一度停泊した後、ハワイを経由してサンフランシスコへ向かいました。
当時はまだハワイ王国が存在していたので、使節団はときの国王・カメハメハ4世へも謁見しています。
2週間ほどハワイで補給などを行い、再び太平洋へ出た一行がサンフランシスコに着いたのは、3月のことでした。
咸臨丸の護衛任務はサンフランシスコまでだったのですが、途中嵐に遭ったためすぐ日本には帰れず、修理のためにしばらく停留。
福沢らが【英語→中国語】の辞典を買っていたりします。
いずれ英和辞典を作るための資料用だったようです。
何のついでか、写真館に出かけてアメリカ人の少女(15歳)とも写真を撮ってもらっているのですが……。

米国少女アリスと映る福沢諭吉/wikipediaより引用
まあそれはいいとして、使節団はサンフランシスコからパナマへ向かい、そこからさらに船に乗ってワシントンを目指しました。
当時はパナマ運河がなかったので、延々とアメリカ領土を横断するより、多少は遠回りになっても海路を有効活用することになったようです。
途中で鉄道も使っているのですが、もちろん誰も乗ったことがないので、随分と面食らったようで。
速さよりも、蒸気と車輪の騒音に面食らったかのような記述です。
小栗はアメリカで高く評価されるも日本で斬首刑
そんなこんなで一行は、3月末に無事ワシントンへ到着、批准書を交換することができました。
1ヶ月ほど滞在し、国会議事堂や海軍の造船所、スミソニアン博物館や天文台などを見学していたそうです。
小栗は後に栗本鋤雲やフランス人ロッシュらと共に海軍造船所の設立を提言しますが、このときの現地視察がキッカケでもありました。
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幕臣(小栗や栗本)の提言から始まった横須賀海軍工廠~呉や舞鶴は?
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どこも一つの建物ではなく、複数の施設の総称なので、1ヶ月でも相当の過密スケジュールだったでしょう。
有名どころだと、スミソニアン博物館の自然史博物館は「呪いのダイヤ」ことホープ・ダイヤモンドを展示。
他にも恐竜の化石や宝石が多数あるところです。
個人的に、死ぬまでに一度は行きたい博物館の一つを仕事で行けたなんてうらやましい……!
そんなわけで本来の目的は達成し、いろいろ見せてもらうこともできたわけですが、最後の目的である通貨の交換比率是正については、案の定うまく行きませんでした。
ただし、日本側の担当者であった小栗の能力粘り強い態度はアメリカ側に大きく評価され、日本人全体の印象が良くなったとか。
小栗は最終的に斬首刑になってしまうのですが、なぜそんな結末になってしまったのか?というと、新政府軍が混乱したまま強引に斬ってしまったのです。
西郷隆盛や大村益次郎が高く評価した人物だけに、日本としては本当に大きな損失でした。
帰路は、ニューヨークを出港して、大西洋及びアフリカ最南端・喜望峰を越え、インド洋を渡ってインドネシア→香港を経由し、品川へ戻ってきました。
1月に出発して9月に帰国ですから、当時の船旅かつ距離や途中の滞在期間を考えると、かなり順調な旅路だったと思われます。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
安岡昭男 『幕末維新大人名事典』(→amazon)
万延元年遣米使節/Wikipedia
日米修好通商条約/Wikipedia