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【将軍慶喜の政治実績】
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権力の東西分裂 上洛する慶喜
徳川慶喜は、政治の表舞台に立った時から、幕臣に嫌われる宿命がつきまといました。
勅使である大原は傲慢であり、幕臣はカチンと来ていた。
【文久の改革】は将軍となった徳川家茂と幕僚たちが知恵を出し合い進めることになります。
慶喜はよくわからない存在のうえ、実務をせず、面倒事を押し付けてくる朝廷や久光一派と見なされてもおかしくありません。慶喜と春嶽は幕政から浮いていました。
この二人が主導して改革を進めたように誘導されますが、そういうわけでもありません。
慶喜と春嶽は朝廷の御機嫌取りをするようなことはあれども、実質的な幕政や江戸周辺の変革にはさほど関わっていません。
明治以降、それを主導した幕臣が亡くなり、意見表明の場がなくなったため、慶喜に都合の良い話ばかり残ってしまったのです。
久光が主導した幕政改革の案は、江戸の街を寂れさせる要素もありました。
例えば参勤交代の廃止です。
確かに合理的な改革ではあるのですが、大名とその家臣や妻子が帰国するとなれば、屋敷に雇用されていた江戸の人々は失職する。
攘夷の実行もそうです。
外交のことなど何もわかっていない朝廷の権威が振りかざされたことで、幕府は窮地に追い込まれました。慶喜が、聡明な頭脳で切り抜けようとするけれど、限界はあります。
江戸や関東に暮らす民衆は、開国に対してさほどアレルギーはありませんでした。
小さな漁村に過ぎなかった横浜がみるみるうちに発展していく様は、当時を生きた人々の記録に残されています。
彼らははむしろ、穏やかに続いていた徳川様の御代が終わることを嘆くことになるのでした。
文久3年(1863年)――将軍家茂が上洛することとなりました。
徳川家光以来、およそ230年ぶりのことであり、この上洛に合わせて西へ向かった一部が、のちに新選組を結成しています。
これに先がけ、慶喜と春嶽をはじめとする一橋派も露払いをするように京都入りを果たしていました。
例外が会津藩主・松平容保です。
京都守護は直政以来、井伊家の役目でした。しかし井伊直弼の暗殺により混乱していて、とても同役を担える状況ではない。
そこで義理堅い容保が、春嶽から押し付けるようにして京都守護職となったのです。
京都は治安が悪化していました。
とりあえず京都へ行けば政治活動ができる。攘夷をアピールしたい。そんな無謀な志士たちが、事の理非など無く愛国心に欠けたと見なしただけで血祭りにあげ、晒し者にしていきます。
松平容保は、はじめこそ「言路洞開」(話し合いによる解決)を求めていましたが、血の雨が降る状況に考えを変え、新選組という対テロリスト特殊部隊に治安維持を任せることとしたのです。
問題は慶喜です。彼はいわば「爆弾」を伴っていました。
武田耕雲斎です。
一橋家の家臣団は、旗本から任命することとなっていましたが、慶喜は、自分の爪牙となる聞き分けのよい家臣が欲しかった。
そうなると父・斉昭の代からの子飼いと言える武田耕雲斎ら【天狗党】こそうってつけ。
血の気が多い連中ですから、慶喜を守るためなら、たとえ火の中水の中……と期待されたとしてもおかしくはありません。
慶喜がこうしてイエスマンを求めたことを把握しておくと、渋沢栄一と成一郎が一橋家に拾われた理由も見えてきます。
そもそもは攘夷思想にかぶれ、討幕派だったこの二人。いざ自分たちが追われる身となったとき、一橋家に誘われて転がり込んでいます。
弱みのある者のほうが忠誠を誓うであろう――そんな見通しがあってもおかしくはありません。
実際、この奇妙な関係を、後に小栗忠順は渋沢栄一本人に向かって皮肉を言っています。
「幕府を倒すだのなんだの言っておいて、どういう風のふきまわしで一橋家に仕えたのか?」
徹頭徹尾自分の有利不利で動くのではないかと突っ込まれても仕方のない状況でした。
奮闘する家茂
徳川家茂が上洛し、義兄である孝明天皇と面会を果たします。
しかし幕府としては【生麦事件】も発生しており、とにかく将軍が江戸に戻ることを願っていた。事件に伴いイギリスから賠償金の支払いを迫られていたのです。
かつて、幕僚でも優秀な岩瀬忠震らは、それなりにフェアな条件で条約締結に漕ぎ着けていました。
それが【生麦事件】のような外国人殺傷が連発してしまうと、賠償金も膨らみ、幕府の命運も傾いてゆきます。
幕府というより国としての借金であり、京都を震源地のひとつとする攘夷が国力を大きく損なっていたのです。
4月11日、孝明天皇は石清水八幡宮行幸・攘夷祈願することになっていました。
このとき家茂が供奉する予定でしたが、前日夕方に風邪で熱を出し、取りやめとなっています。
攘夷の詔を出されることをおそれ、風邪を名目に断ったのではないかという説が後年出されています。慶喜も政治的配慮による中止と後年振り返っています。
しかし、実際に発熱していたという証言もあり、はっきりしません。
この後、家茂は蒸気船・順動丸に乗り、大坂へ向かいました。
まだ船の安全性が確保されていないにも関わらず、堂々乗り込んだ家茂のことを勝海舟は讃えています。
勝が家茂を回想する時、敬愛が込められるものでした。家茂の人格がそれだけ優れていたのでしょう。
なお、このときの上洛について、慶喜が主役で、家茂が添え物のような記述も多く見られますが、実際はそうではありません。
孤独と異例づくしのことに耐えながら、幕府のために奔走していたのはあくまで家茂でした。
文久3年というターニングポイント
文久年間ともなると、大河ドラマはじめ幕末作品では、まず京都での政治闘争が注目されます。
文久3年(1863年)――【参預会議】という政治体制が成立。
諸侯による合議制であり、民主主義の前のステップといったところです。
将軍と幕僚によるトップダウン政治を否定した、一橋派の政治ビジョンが実現したといえる体制であり、メンバーは以下の通り。
・徳川慶喜(一橋徳川家当主、将軍後見職)
・松平春嶽(越前藩前藩主、前政事総裁職)
・山内容堂(豊信、土佐藩前藩主)
・伊達宗城(宇和島藩前藩主)
・松平容保(会津藩主、京都守護職)
・島津久光(薩摩藩主・島津忠義の父)
・長岡護美(追任、熊本藩執政。藩主斉護の子)
・黒田慶賛(追任、福岡藩世子)
果たして“会議”という政治体制はどこまで本気だったのか。生真面目な松平春嶽、松平容保はやる気はあったと思いたいところですが……。
このとき幕府を悩ませていた問題が【横浜鎖港】でした。
小さな漁村から、国際的な港へ向かいつつある横浜。
一方で孝明天皇は頑固な攘夷論者ですから、天皇の好感度を稼ぐために横浜鎖港は使えるカードでした。御宸翰(天皇自ら書いた文書)まで下されていたのです。
とりあえず問題を先送りにせざるを得ない幕府と、得点を稼ぎたい慶喜の思いが、ここで一致。
【参預会議】の崩壊へと繋がります。
舞台は中川宮邸(久邇宮朝彦親王)。
横浜鎖港問題が議題にあがります。
攘夷を願う孝明天皇の意に沿うため議題にのぼったもので、参預諸侯は、そんなことは不可能だとして開港継続を支持していました。
しかし、慶喜は孝明天皇へのサービスとして閉鎖を支持します。
そして同年2月16日――中川宮の前もとで酒席が開かれ、参預会議の面々が呼ばれると、泥酔した慶喜がこう怒鳴り散らしたのです。
「この三人は天下の大馬鹿者、天下の大悪人ですぞ。将軍後見職である私と一緒にしないでいただきたい。なにゆえ宮は信じますか!」
話には裏があります。
慶喜だって、横浜鎖港が無理だということくらい、わかっちゃいます。それでも朝廷相手の得点稼ぎのため、ポーズとしてできるように振る舞っておきたい。
それなのに、この三馬鹿はそこを理解せず「鎖港はできかねる」と正直に腹芸をせずにいうから、ともかく嫌だったと慶喜。
久光が慶喜のそんな腹も知らず「朝廷で決めたこと(横浜鎖港)はなかったことにすると中川宮がおっしゃった」と慶喜に耳打ちしたものだから、中川宮のもとへ押しかけ泥酔し、一芝居打ったのです。
『青天を衝け』にも出てきた原市之進は、痛快だったと振り返っています。
あのドラマでは劇中で斉昭や慶喜の決め台詞とされていた「快なり!」を叫ぶ慶喜が映されていました。
実際のところ、この泥酔罵倒作戦が当たったと慶喜は思っていたそうです。爽快だったと。
そして歴史の結果からすればあまりに盛大なオウンゴールであるため、かえって擁護する意見もあります。
慶喜もストレスが溜まって疲れていたとか、泥酔のせいだとか。計算づくであんな大失点はしないだろうと庇いたくなるものです。
しかし、これは大失敗でした。
慶喜が、得点稼ぎのためだけに先延ばしにしようとしたことを【参預会議】の面々だって見抜けないわけでもない。
中川宮と面々はなんとか鎖港に向けて調整するも、相互に不信感が蔓延し、崩壊へ向かってゆきます。
哀れなのは池田長発です。
横浜鎖港交渉のため、エジプト経由ではるばるフランスへ使節団として派遣されますが、そもそも幕府は結果を残せるなんて考えちゃいない。
まだ若い池田なら失敗しても仕方ないと見越しての派遣、いわばアリバイです。
フランス相手に本気の交渉をするなら優秀な幕臣は他にいます。
例えば小栗忠順や栗本鋤雲などがそうで、栗本はフランスの僧侶メルメ・カションと懇意であり、この二人がいてこそ幕府とフランスの関係は成立しています。
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そういう重要な人材をあえて外し、失敗しても仕方ない人材を派遣するあたりが実に姑息。これは慶喜の欠点もあるのでしょう。
慶喜はイエスマンを求めます。諫言をしてくるような者は重用しません。聡明さと頑固さを併せ持つ小栗や栗本のような人材が埋もれることは、致し方ないのかもしれません。
もう一点、上司としての慶喜には大きな欠点があります。
二枚舌、狡猾さは反発を買い、暗殺計画もしばしば起きる。
そんなとき、主君に代わって犠牲になったのが平岡円四郎はじめ側近たちでした。
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文久3年(1863年)は、政変の年です。
過激派の暗躍に危機感を抱いていた孝明天皇とその側近が薩摩藩・会津藩に呼びかけ、長州藩および過激派公卿が京都から追い払われました(【八月十八日の政変】)。
ただし、この孝明天皇が頼ったのが薩摩と会津というところに、慶喜の不満はあります。慶喜には手持ちの軍隊がいないのです。
【参預会議】が解体された元治元年(1864年)3月25日、慶喜は将軍後見職を辞任。
かわって禁裏御守衛総督に就任します。
幕府よりも朝廷寄りであり、西日本において力を持つこの役職の就任に、江戸幕府は不信感を募らせました。
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