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【武力倒幕】
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武力倒幕の戊辰戦争 その悲劇は続く
江戸で上野戦争がありながら、まだまだ流血不足――そう考えた者がいたのでしょうか。
反対派の多かった武力倒幕は、さらに加熱して参ります。
今までの流れですと、『西郷どん』では会津藩や庄内藩が武装を固めて頑固だったからということにされそうですが、そんな話ではありません。
なぜ、西郷らは武力倒幕を目指したのか?
その理由は推測できます。
・西郷の性格は好戦的である
・倒幕反対派は、明治政府でさしたる活躍をしていない(戊辰戦争での武功あってこそ、出世につながるという武士的な価値観があった)
・佐幕派である会津藩と庄内藩を叩き潰せば、他の佐幕派が沈黙する(会津と庄内をスケープゴートにすることにした)
会津藩は、薩長が敵視していた
【一会桑政権】(徳川慶喜・会津藩・桑名藩)
の一部です。
京都守護職であった会津藩は、攘夷活動に勤しんだ者を処罰したため、恨みを買っておりました。
そして会津藩が自業自得だという見方は、明治以降続いておりました。
孝明天皇から信任の厚かった会津藩に対する嫉妬、そんな理由はひた隠しにされて来たのです。
もう一つの庄内藩は、江戸の警護を担当しておりました。
薩摩藩邸を焼き討ちした相手でもあります。
この奥羽の二藩を潰してこそ!
日本全国に潜む佐幕派を黙らせることができると確信したわけです。
西軍の狙いは、会津藩と庄内藩に絞られました。
しかし、こうした情勢に納得できない東日本の諸藩は【奥羽越列藩同盟】を結成することになります。
戦場は、東日本の中でどんどん拡大。
かくして、戊辰戦争が行われました。
弟・吉二郎が戦死
人命の損傷、土地の荒廃。
戦地となった奥羽の損傷はいうまでもありません。
明治維新のもとで新時代が到来するものの、日本の発展は西高東低の傾向が残りました。
実は倒幕を指導した側にも、失ってしまったものがあります。
戊辰戦争で敵対した側には、強い藩もありました。
富裕な財力で最新鋭の武装をしていた庄内藩。佐幕側も、金さえあれば武器を調達できました。西の肥前佐賀藩と並び、東の最強装備でした。
彼らは、会津藩では山本八重くらいしか装備できなかった連発ライフルスペンサー銃を備えていたのです。
名将・酒井玄蕃了恒に率いられた庄内藩は実に強く、その旗を見た敵があわてふためいたほど。
庄内藩から攻め込まれた秋田藩主・佐竹義堯は死すら覚悟するほど、追い詰められました。
庄内藩を攻めた薩摩藩の大山格之助は、武功をあげるどころか、かえって大苦戦。
しかし同藩は、戊辰戦争の戦後処理が穏健であったため、西郷を慕ったほどです。
西郷の人徳だけではなく、戦果に配慮されたのかもしれません。
長岡藩も、手強い勢力でした。
家老・河井継之助が装備したガトリング砲は、猛威をふるい、攻め込んだ山県有朋が褌一丁で逃げ惑うほどでした。
この長岡方面軍には、西郷の実弟・西郷吉二郎がおりました。
兄弟が幕末の動乱で活動する中、じっと薩摩の家を守っていた吉二郎。
兄の西郷としては、戊辰戦争で武功を立てさせて出世させたかったのかもしれません。
が、それは叶いません。吉二郎は戦傷死してしまったのです。享年36。
妹・琴子の子である甥・市来嘉納次も、戊辰戦争で戦死しました。
武力倒幕を、強引に押し進めてきた西郷は、その結果に痛みが伴うことを痛感したでしょう。
明治維新のあと、西郷は精神がすぐれないようになりました。
明治政府への怒りをぶつけてくる久光と衝突したことも、ますます精神を悪化させました。
戊辰の傷跡
そうはいっても、東日本の人々からすれば、西郷の傷など何ほどのものかと言いたいところかも知れません。
西郷は、明治時代、愛犬に鰻を与える姿を目撃されております。
その一方、戊辰戦争戦地となった東日本の人々、佐幕藩臣、幕臣の間には、食べるものすらろくになく、餓死者も出ていたのです。
それが、幕末から明治にかけての格差でした。
さらに目を北に向けると、戊辰戦争のデメリットが見えて来ます。
戊辰戦争という内戦は、国防力低下を招いてしまいました。
当時、蝦夷地と呼ばれていた現在の北海道は、地理的に近い奥羽諸藩が防備。ところが戊辰戦争により防備が不可能となり、がら空きとなったのです。
明治以降、どうにか北海道は防備できました。
しかし、江戸時代までゆるやかな幕府の支配下であった樺太は、イギリスの強引な介入もあり、ロシア領とされてしまうのです。
会津藩と庄内藩は、戊辰戦争の支援を求めてプロイセンに蝦夷地売却を持ちかけております。
後世批判される行為ではあります。
しかし、そうした意見は、そもそもどこの誰が戦争を仕掛けたとか?という話が抜けているのです。
戊辰戦争さえなければ、売却話すらそもそもありませんでした。
『西郷どん』での西郷は、平和主義者に思えます。戦争を引き起こすのは幕府や会津が悪いと言いたげです。
それならばなぜ、西郷隆盛主役のドラマを作ったのか?
西郷が好戦的な性格であることは史実からすれば明白。
にもかかわらず『西郷どん』では、ライオンが主役なのに「殺しはよくないんだ!」と草や果物しか食べない話にしたようなものでした。
史実での西郷は、強引な手腕でもって、武功をあげるために戊辰戦争を起こした人物です。
しかし、郷中教育を受けてきた薩摩隼人にとって、頼りがいがあり勇敢だと映ったことも、確かなのです。
勝海舟や庄内藩はじめ、敵対勢力側でも彼を高評価したこともまたその通り。
良くも悪くも振り切っているからこその魅力を見たかったのではないでしょうか。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
家近良樹編『もうひとつの明治維新―幕末史の再検討』(→amazon)
桐野作人『さつま人国誌 幕末・明治編 3』(→amazon)
家近良樹『西郷隆盛:人を相手にせず、天を相手にせよ (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon)
一坂太郎『明治維新とは何だったのか――世界史から考える』(→amazon)
半藤一利『幕末史 (新潮文庫)』(→amazon)
『国史大辞典』