享保の改革

徳川吉宗/wikipediaより引用

江戸時代

享保の改革は失敗か成功か?目安箱や米政策をはじめとした吉宗の手腕

徳川家康の時代から、万全な体制を敷こう――と、代々頑張ってきた江戸幕府。

結果、約260年もの政権運営が続いたワケですが、その途中は決してラクなものではありませんでした。

世論や経済システムが変われば、必然的に社会体制も変わる。

特にこの時代は災害や天災でのダメージ蓄積が重なったこともあり、こうなったら大鉈を振るうしかない!

そんな場面で行われたのが江戸の三大改革です。

本稿では、徳川吉宗の【享保の改革】に注目してみましょう。

 


六代~七代の相次ぐ早世トラブルで吉宗

そもそも吉宗が将軍につくまでの間、江戸幕府ではどでかいトラブルがありました。

六代・徳川家宣と七代・徳川家継が早世してしまったのです。

そもそも吉宗が将軍になった経緯も、妄想力を働かせると実にミステリアス。

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いずれにせよこの頃は、誰が将軍になっても幕府の地盤を固め直さなければならない状況でした。

幸い吉宗は、身体が頑健な人だったため、幕閣たちも安心していたでしょう。

まず享保の改革の概要を見ますと……政治のほぼ全般に関わる大規模な改革です。

一つ一つを細かく見ていくとかなり膨大になってしまいますので、有名どころを絞り込んでみたいと思います。

 


江戸町火消……それまで無かったのが怖い

もともと江戸は大火事の絶えない場所です。

五代将軍・徳川綱吉の時代には三度も大火が起きて、政権運営にダメージあるほどだった、と【元禄の大火】記事で申し上げました。

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木造家屋の多い江戸だけに被害が拡大するのも致し方ない。

と、思うのも実は早計で「幕府主導の大きな消火組織がない」ことも大火の原因の一つでした。

「消防署がない」というのは現代ではチョット信じられない話ですよね。

そこで吉宗が江戸町火消を結成。「いろは四十八組」に分かれて担当させたのです。

歌川広重「明治維新後の火消出初式」/wikipediaより引用

確かに以前から、大名火消など「団結して火を消す」という概念はありました。

しかし「担当区域を超えた消火をしてはならない」といった決まりもあり、迅速な消火作業の障害になっていたのです。

火事場泥棒の予防などを兼ねていたのかもしれません。

吉宗は合理主義の見本みたいな人ですから、町の再建費用と防犯を天秤にかけたのでしょう。

そして前者を取り、

「大名火消も町人地の消火をせよ」

というように、担当区域をまたいでの消火活動を命じ、実際は、大岡越前で知られる大岡忠相に主導させました。

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目安箱……シンプルに「箱」と呼ばれた

吉宗といえば、真っ先にこれを思い浮かべる方も多いでしょう。

目安箱にあたるものはもっと昔からあったようですが、大々的に活用したのはやはり吉宗から。

投書の際は住所・氏名が必須で、匿名のものはその時点で捨てられていたと言います。

「将軍だけが箱の鍵を持っている」

ということも公表されていたため、老中や幕臣の苦情等もよく投書されていたそうです。

今で言えば、首相官邸のホームページにあるメールフォームみたいなものでしょうかね。

また、幕府内ではどシンプルに「箱」と呼ばれていたとか。

それはそれでなんかこう、ただならぬ感じがしますが、より詳しいことは以下の記事をご参照ください。

目安箱
吉宗考案の目安箱はちゃんと機能した?享保の改革に対する批判は?

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・上米(あげまい)の制……幕府へ米を納め江戸滞在を半減

全国の諸大名は、基本的に幕府へ納税などしていません。

吉宗はそこに目をつけ、所領1万石ごとに100石を上納させることにします。

デカい順でいくと、加賀藩が1万石くらい、薩摩藩だと9,000石、仙台藩で6,000石、熊本藩で5,200石……という感じです。

1石=当時の大人一人が一年間に食べる米の量(だいたい150kg)なので、加賀藩は一万人×一年分の米を幕府に収めることになるわけですね。

なかなか大きな負担です。

しかし、米と引き換えに

「大名が参勤交代で江戸に滞在する期間を半年に縮める」

というメリットがついていました。

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江戸での生活は何かとお金がかかります。この滞在費用が、大名たちにとってバカにならない。

参勤交代には「あえて大名に負担を掛けることによって、反乱を防ぐ」という意味もありましただが、この頃になると度々起きる飢饉や天災で、どこの藩も家計は火の車。

ぶっちゃけ、反乱を起こすどころではなく、運営するだけで手一杯です。

結果「反乱の危険を弱めるために金を使わせる」という必要が薄れ、幕府の財政再建というメリットと合致し、【上米の制】が用いられた……というわけです。

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