2006年の映画『硫黄島からの手紙』。
この作品で、伊原剛志さん演じる将校が、颯爽と馬で移動しております。
彼は捕虜に英語で語りかけ、敵兵でありながらも乏しい医薬品で治療しようとしました。
明るく天真爛漫な人柄、人馬一体となったケンタウルスのような馬術。
その名は西竹一(にしたけいち・バロン西)――。
馬を愛し、馬に愛された金メダリストでした。
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庶子から男爵家後継者に
男爵の西家――。
そのルーツをたどると、薩摩藩に至ります。
弘化4年(1847年)、西徳二郎は薩摩藩の下級藩士として生まれました。
明治維新後、薩摩出身の若者は多数留学することとなります。
徳二郎も、明治3年(1870年)、日本を離れました。
留学先で遊び惚けてしまい、帰国をする羽目になる若者も多い中、徳二郎は違いました。彼はロシア・ペテルブルク大学で真面目に学んだのです。
勉学だけではなく、ピアノや洋画も身につけた才人でした。
薩摩閥の外交官として、ロシア対策が重視される中、徳二郎は順調に出世を遂げ、男爵位も授けられます。外交官として立ち回りも巧みであり、巨万の富を蓄えることにも成功しています。
順調な生涯を送っていた徳二郎ですが、望んでも手に入らないものがありました。
それは、男爵の位を継ぐことになる嫡男です。
一人目の妻・恵多は長男・佐一を産むものの、夭折。
そのあと妊娠したものの、流産し妻までも亡くしてしまいました。
二人目の妻・峰が産んだ二男・幸熊は、14歳で他界。
峰との間には女児しかおりませんでした。
西家に仕えていた女中で、実家に戻された者がおりました。
彼女はそのとき、徳二郎との間の子を妊娠していたのです。
明治35年(1902年)、出産を控えた彼女は、男児を一人で育てる決意を固めておりました。
しかし、このことを聞きつけた徳二郎はそうはさせません。母子ごと引き取ったのでした。出産後、母だけが実家に戻されたのです。
このとき徳二郎は56歳。
再度男児を得る可能性は低いと悟っていたのでしょう。
徳二郎は、峰との間に生まれた三男として、この男児を扱うことにしたのです。
竹のようにすくすく真っ直ぐに育って欲しいという願いと、長男として扱う思いを込め、男児は「竹一」と名付けられました。
このとき、峰は身籠もっていました。
もしその子が男児であれば、庶子である竹一を逆転できるはずでした。
しかし生まれてきたのは、女児であったのです。
こうした複雑な事情の中、庶子である男児が男爵家の後継者となったのでした。
竹一が満十歳の時、父が死去。
幼い身ながら、伯爵家を背負って立つ身となったのです。
長者番付にもランクインするほどの財産、広々とした屋敷、別荘。そんなものが少年のものとなったのです。
西は金銭感覚が常人離れしたところがあり、パーッと惜しみなく使う性質でした。
硫黄島にまで大金を持ち込み、一体それをどうするつもりかと問われると、俺にもわからないと答えたそうです。大金を持ち歩く習慣が身についていたのでしょう。
男爵となった西は、重圧もものともしない、やんちゃ坊主でした。
その一方で、義母の冷たい目線もあったせいか、明るいようでどこか孤独で、一人で遊ぶことに熱中する性質も持ち合わせていたのです。
15歳のとき、異母姉が結婚し、義母も亡くなります。
男爵家に一人だけ、西は残されたのです。家庭というものがどんなものかすらわからない、そんな少年でした。
生んだきり我が子と会うことのなかった彼の実母は、我が子に手紙を書き続けました。
27歳のとき、西は、実母と再会を果たします。
しかし、西は涙すら流れて来ません。
どうにも目の前の人が実の母だという気持ちがわかず、再会は一度きりのものとなりました。
馬との出会い
外交官の父のもと誕生した西は、父と同じ道に進むものと思われておりました。
学習院幼稚園、学習院初等科へと進学。
大正4年(1915年)には、父と同じ道を歩むべく、現・日比谷高校に入学したのです。
それが大正6年(1917年)、広島陸軍地方幼年学校へと進むことになるのです。
西の脳裏には、学習院院長であった乃木希典の教えがありました。
乃木は、華族の子弟は軍人になるべきだと教え諭していたのです。周囲から止められても、西は乃木先生の言葉だから軍人になると、聞き入れなかったのです。
かくして西は、同郷の陸軍元帥・上原勇作の推薦した広島陸軍地方幼年学校に入学しました。
西は天才肌で勉強しなくとも成績優秀。外交官の父ゆずりの社交性もありました。
しかしどこか孤独で、それでいてそのことを口には出来ないのです。
感情がたかぶると、まず手が出てしまう。そんな少年でした。
カメラ、空気銃、オートバイ。
一人で楽しむ趣味に、西は没頭しました。
カメラは自宅に暗室まで作ったほどであるとか。外交官の子らしい社交性だけではなく、孤独を好む本質が彼にはあったのです。
そんな彼は、乗馬と運命的な出会いを果たします。
幼年士官学校三年生の時、馬の写真を撮影しているうちに、どうしても乗ってみたくなったのです。
竹下範国陸軍少佐の元にいる馬に乗せて欲しいと、頼みこんだのでした。
しかし、馬というものは難しいもの。
乗り手が下手だとわかると、振り落としてしまいます。
それでも西は、ある日どうにかして乗ってしまったのです。
馬は駆け出し、彼は落馬してしまいます。しかも、陸軍士官学校から支給されていた短剣までねじ曲がってしまったのです。
これはもう、学校に届け出る他ありませんでした。
しかし、処罰はされません。
むしろ軍人として乗馬を学ぶことは結構なことだと、乗馬訓練の許可を得たのです。
人馬一体への道は、こうして始まりました。
やんちゃな士官学校時代
大正10年(1921年)、陸軍予科士官学校第36期生に入学します。
西は学問に励むだけではなく、遊ぶことも多い青年でした。
週末は新橋で大酒を飲み歩く、そんな姿がよく見られました。寄った勢いでヤクザ者と喧嘩になることもあったのだとか。
その年の夏、西は鎌倉の別荘でとある女性を見かけます。
川村伯爵家の令嬢である三姉妹のひとり、武子に恋心を抱いたのです。
とはいえ、相手もご令嬢です。
好意があろうと、先へは進むことがなかなか出来ません。
そうした恋が叶わぬ反動か、西はアメリカ製自動車「リバティー」を手に入れて走らせておりました。
あまりのスピード走行に警察も手を焼いて目を光らせます。
そこで西は、対策を練りました。麻生警察署の宿舎を警察にポンと寄付してしまったのです。
これ以降、六本木に逃げ込むと警察に追われなくなってしまったのでした。
西は予科士官学校卒業時、兵科を選択することとなります。
西は騎兵を選びます。
旧陸軍では「歩工砲騎」と言われていて、序列として騎兵が最下等という暗黙の了解がありました。
それでも西は、騎兵を選んだのです。騎兵第一連隊付生徒となった西は、思う存分乗馬が出来るようになりました。
西は、昼食の時以外は常に馬に乗っているかのような、熱中ぶりを見せたのです。
士官候補生扱いのため学校には閉じこもりきりで、たまに彼が見せる外界への関心といえば、川村武子への恋心くらいでした。自慢の「リバティー」に三姉妹を乗せ、ドライブすることもあったとか。
士官学校を出たら、川村武子と結婚するのだと西は決意を固めました。
周囲も、大酒飲みでやんちゃな西の素行をおさえるためにも、それがよいと判断したのです。
いくつかの障害はあったものの、大正13年(1924年)の卒業後、彼は婚約したのです。
卒業後、騎兵第一連隊に入った西は、結婚準備に奔走します。同年22歳で少尉となった西は、19歳の武子と結婚を果たしたのでした。
この新婚初日、西はこう言い新妻を唖然とさせております。
「さあ、晩飯だ。新橋に食べに行こう」
家庭がどんなものか知らぬ西は、家庭内で食事をすることがわかっていなかったのです。
自宅に芸者を呼んで武子とともにかくれんぼ遊びをすることもある、そんなどこか子供のような無邪気さがある青年でした。
西の私生活は華やかでした。
英会話が得意である西は、社交界でも外国人とスマートにつきあうことができました。
結婚して落ち着くどころか、新妻を残し、華やかなパーティに向かってしまう。
新橋から美人芸者を10人ほど呼んで大騒ぎをして、しかもそこへ妻にも顔を出させたこともあったほど。
どこかさっぱりとしていて、裏表がなく、派手な遊び方をする性格であったのです。
そんな夫です。妻は夫の金遣いの荒さに困ったこともあったとか。
残された西の妻宛の手紙には、モテ自慢をしているものも見られます。武子もこれには、苦笑したことでしょう。
この二人の夫婦仲は、悪かったわけではありません。
昭和2年(1927年)、西夫妻には長男・泰徳が誕生しています。
夫妻はこのほかに二女がおります。一男二女に恵まれたのです。
西はかんしゃくがあったのか、武子に対して怒鳴ることもありましたが、さっぱりとしていてあとには引きずりません。
心の通じ合う夫婦でした。
子供たちも父によくなつき、慕っていたようです。
人馬一体の男爵
騎兵隊に入った西は、乗馬技術を発揮することとなります。
「春海」と「福東」という二頭の馬を支給され、西は障害を習うことにしたのです。
代々木練兵場に向かい、石垣を馬で飛び越えてゆく西は、その無謀な勇気で噂となりました。
あるとき西は、「リバティ」から買い換えた愛車「クライスラー」を福東号で飛び越え、周囲を唖然とさせました。

車を飛び越える西/wikipediaより引用
失敗すれば、人馬ともに怪我は免れません。
福東は陸軍から支給されているのですから、骨折させて殺処分にでもなったら大問題になります。
それでも西は、やってのけたのです。
騎兵は目立ちたがり屋が多いとされておりましたが、その中でも西は際だっています。
馬具とブーツは特注のエルメス製、身につける軍服はオーダーメイドで、その美貌を際立たせるための工夫が凝らされていました。
落馬をものともせず挑む西の乗馬技術は、驚くべきものでした。
その強気な態度が生意気と思われることもありましたが、西は意に介することはありません。
馬に対しては厳しく、容赦なく鞭を入れました。
それでも負傷した際はつきそい、回復するまで見守ることもあったのです。
馬にもそうしたあたたかい心根が伝わったのか、西によくなついていたのだとか。
西は、人にも馬にも情愛深い性格であったのでしょう。兵士たちも、そんな西を慕ったのです。
陸軍騎兵学校の乗馬大会では、いきなり二位入賞を果たします。
その華麗な乗馬技術は、周囲からもう、
「他の作業はいいから、西は馬にだけ乗っていればよい」
と太鼓判を押されるほどのものになりました。
当時、馬術には三種類ありました。
人為馬術(ドイツ式)
自然馬術(イタリア式)
中庸馬術(フランス式)
しかし、西はこうした乗り方を習う以前に自己流をマスターしていたのです。
膝ではなく、たくましい大腿部(騎座)で馬を締め付ける。そんなやり方でした。
騎兵としては異端ではありますが、理にかなった手段です。現在は多くの障害騎手が、これと同じ乗り方をしているそうです。
西は175センチ、70キロ、脚が長く胴は短いという、日本人離れした体型でした。
薩摩出身者は、豚肉を食べていたせいか、幕末のころから長身の者が多い傾向がありました。西も父から、そんな血を受け継いだのかもしれません。
西は腰の幅が広く、脚がともかく長い。
しかも柔剣道有段という、高い運動能力の持ち主です。
全身がしなやかな筋肉質である西は、乗馬にはぴったりです。特別にあつらえた騎兵服で馬を乗りこなす西は、極めて目立つ存在でした。
騎手は馬の負担を軽くするため、小柄で体重が軽い方が向いているとされます。
ただし、障害競馬騎手の場合はある程度の身長があった方が向いているのです。
西の体型は、障害旗手として最高のものでした。
西竹一とウラヌス
昭和3年(1928年)、アムステルダム五輪馬術競技に、日本陸軍から4名が派遣されました。
陸軍内には東条英機中佐はじめ、費用対効果を疑問視する声もありましたが、世論のためにも参加することにしたのでした。
当時の西は、宿題を別の士官に代筆させて叱られることもある、そんな子供っぽいところもありました。
このときは叱られて素直に謝罪し、そのしおらしさが叱った側を感服させてしまったほどだとか。
それでも馬術の訓練については熱心で、たいしたものだと周囲から見られるようになっていました。
昭和5年(1930年)、ロサンゼルス五輪の馬術競技選手候補が選抜されました。
西はその中で最年少候補です。
そんな折、イタリアからこんな話が届きました。
「馬体が大きすぎて、持て余され、売りに出されている障害競技用のアングロノルマン馬がいる。血統書はないが、実力はありそうだ。名はウラヌス(天王星)だ」
西は、この馬の購入を決め、ヨーロッパまで購入に向かうことにしました。
まさにそれは運命の出会いとなるのです。
ヨーロッパに向かう船旅の中、西ははしゃいでいました。
軍務から解放され、七三分けにした美男です。当時の日本人は背広を着こなせず、ネクタイが曲がっているような者もおりました。
しかし西は、さっと着こなしておりました。
ヨーロッパへ向かう豪華客船上で、西はアメリカ人夫妻と意気投合します。
ダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォード夫妻でした。ハリウッドスターとして人気絶頂にあった二人です。
フェアバンクスと西は、大親友と言えるほど意気投合しました。
夫妻が来日した際には、自宅に呼んで毎晩どんちゃん騒ぎを繰り広げたのだとか。
イタリアにたどり着いた西は、まとまった現金を持参し、ウラヌスの元へと向かいます。
ウラヌスを見た西は、その181センチもある巨体に目を見張ります。
まれに見る、巨大な馬でした。
参考までに比べますと、サラブレッドは平均160-170センチ。
日本の戦国期の馬は、ポニーサイズの147センチ以下ほどのものがほとんどです。
ウラヌスの種であるアングロノルマンでも、平均は155-170センチ。
180センチ台となると、ばんえい競馬で知られるペルシュロン種等、かなり大型の種に限られております。
巨体であるとはいえ、障害競馬の馬としては理想的でした。
筋肉が発達していて、肩は理想的に傾斜しています。
栗毛で、頭部に白い星が入っておりました。
巨体に驚きながらも西は、果敢にまたがります。西にとって、これほど巨大な馬は初めてのこと。
西竹一とウラヌス――これぞまさに、運命の出会いでした。
家庭環境もあってか、名門の子息でありながら孤独なところがあった西。
実母と再会しても、涙すらこぼさなかった西。
わがままと言われるほど奔放ながら、周囲から理解されないと悩んでいた西。
そんな彼にとって、ウラヌスは特別でした。
「人にはなかなか理解されないが、ウラヌスは自分を理解してくれる」
西はそう語っていたほどです。
名騎手とは、馬がどれほど自分を理解してくれるのか語るもの。西竹一もそんな一人でした。
このあと、西はヨーロッパの馬術大会を制覇し続けます。
「バロン・ニシ」
「ウラヌス」
この二つの名が、ヨーロッパを駆け巡ることとなったのです。ウラヌスのもとの持ち主が、惜しんで買い戻そうとしたほどであるとか。
美男で人馬一体の西は、社交界でも大いにモテます。
西はそのことを武子への手紙にもさらりと書いてしまう、そんな裏表のない性格でした。
春から秋にかけてヨーロッパの馬術大会を制覇した西は、日本へと帰国します。
西は騎兵学校にウラヌスの飼育を依頼するのですが、ここで校長が激怒します。
「書類だけで頼みこむとは何事か! 本人が挨拶に出向いてこんか!」
これは無論表面上の理由でしょう。西の華やかな活躍に嫉妬混じりの反感を持つ者も、出始めていたのです。西が軍務ではなく馬術鍛錬にばかり打ち込むことへの反発もありました。
こうした憂鬱な状況を乗り越え、西は訓練に励む他ありません。
こうした状況の中で、西がウラヌスとだけは心が通じ合うと考えても、無理のないことであったかもしれません。
ウラヌスはあまりに力が強く、障害を落としてしまう癖がありました。
西はこの欠点を矯正するため、粘り強く取り組んだのです。
その方法は彼独自のもので、周囲の主流であったイタリア式馬術とは異なるものでした。
かくして西は、ロサンゼルス五輪馬術競技体表選手として、選抜されることとなります。
29歳の中尉は、最年少です。
誰の目から見ても、西が最も期待されていることは明らかでした。
それなのに、彼本人は武子にこう言ったのだとか。
「どうも俺は、お情けで選ばれたようだ」
本気なのか、照れ隠しなのか、ちょっとわかりませんね。
当時、日本の馬術はヨーロッパには歯が立たないと思われていました。
それでも、参加することに意義があると考えられていたのです。
彼は暗い世の輝きだった
西はこのあと、時代の寵児として喝采を浴びることとなります。
その背後にあった世界情勢において、対日感情が悪化していたという点も考えねばなりません。
昭和3年(1928年)張作霖爆殺事件
昭和6年(1931年)柳条湖事件
そしてロサンゼルス五輪の昭和7年(1932年)には、第一次上海事変、ついに満州国建国にまで至っているのです。
国際連盟は、リットン調査団派遣を決定。満州事変や満州国の妥当性について調べ始めているのです。
国際的に、日本への目線が冷たくなっていました。
黄禍論も高まり、アメリカの日系人は辛い思いの中で生きていたのです。
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そんな中でのバロン・ニシは、暗い影のつきまとう日本の像からはほど遠い人物でした。
長身のハンサム、洒落たファッション、明るく社交的。
流暢に英語を話し、ハリウッドスターたちとパーティを楽しむ、人馬一体の男爵――。
日本にも、こんな魅力的な紳士がいるのだと、世界はホッとしたのです。彼の前では、政治とスポーツを切り離すことができました。
しかし、運命は西をこのまま輝きの中に留めてはくれなかったのです。
ロサンゼルスのバロン・ニシ
昭和7年(1932年)のロサンゼルス五輪には、田畑政治率いる水泳選手団らも含めた日本人が参加しました。
現地では、日系アメリカ人も熱い目線を彼らに送っています。
そればかりではなく、大量の寄付金も準備し選手団を支えようとしました。
田畑政治が熱心に指導し、強くなりつつあった水泳競技の際には、プールサイドが大勢の日系人で埋まったほどです。
当時、アメリカでの対日感情は悪化しています。
満州侵略が不当とみなされていたのです。
そんな中、日系人たちは周囲の冷たい目線を感じながら生きてゆかざるを得ませんでした。
五輪で日本人に声援を送ることで、彼らはそうした憂鬱を忘れることができたのです。
日本と五輪の関係は、こうした日系人の協力を抜きにしては語れません。
そんな中、西は贅沢な浪費家であるにも関わらず、馬術選手団会計を任されていました。
それも彼の貴公子としての態度、華やかさゆえ。
彼は到着すると、気前よくタキシードを選手全員分注文しました。
西のポケットには、銀のボトル入りの高級ウイスキーが入っています。
当時は禁酒法の時代であり密造酒が飲まれておりましたが、西の口には合わなかったのです。
馬術選手の練習は午前中のみ。
午後になると、西は自動車で颯爽と出かけてしまいます。
ハンサムで颯爽とした西に、女性たちが熱い目線を送っておりました。
西の部屋には、ひっきりなしに女性から電話が掛かってきていたのです。
その中には、ハリウッド女優も含まれていましたし、西がその誘いを断るはずもありません。
西の遊び相手は、女優ばかりではありません。
他国の選手ともにこやかに交流するその姿は、ひときわ目立つものでした。
馬術とは、ヨーロッパ貴族の技芸であったもの。
現在でも、イギリスの競馬界ではエリザベス女王はじめ王族が馬主となり、着飾って観戦することもしばしばあります。
競馬場とは、貴族社交の場であるのです。
そういったヨーロッパ人からすると、日本の競馬場はあまりに庶民的で驚いてしまうほどだとか。
西は、こうしたヨーロッパ的な馬術の美意識にも合致しておりました。
騎手が華やかに遊んで何が悪いのか。
貴族的に社交界へ出入りしてこそ当然だという、そんなダンディーな美意識が、西にはぴったりとあてはまっていたのです。
流暢な英会話をこなす西は、こうした社交において何の障害もありません。
ハリウッドの名優たちとすら交流を重ねます。
友人であるダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォードの夫妻とも、一年ぶりに再会を果たしたのでした。
派手好きの西は、ラスベガスのカジノで大金をすってしまったこともあります。
日本に送金を求めたものの、一度目はともかく、二度目は断られてしまいます。
それでも西は、借金をしてしのいだのでした。
西のこうした自由奔放で西洋貴族のような振る舞いは、生真面目な日本人からすれば苦々しいものであったことでしょう。
しかし、だからこそアメリカ人、特に女性からは熱視線を送られたわけです。
日本への感情が世界的に悪化する中、彼は憧れの貴公子「バロン・ニシ」でした。
我々は、勝った
昭和7年(1932年)、8月14日、午後4時――。
ロサンゼルス五輪は、最終日、馬術競技を迎えていました。
日本の馬術競技は、さしたる期待はありません。団体戦負傷欠場により不参加が決定しています。あとは個人競技のみです。
この競技でも、入賞候補者すら調子を出せず、失格者もあり、まだ結果が出ていません。
馬を比較しても他国よりも小さく、苦戦は必至でした。
日本陸軍の栄誉が掛かったこの競技。
最年少の西に、重圧がのしかかってきます。
西はヨーロッパ転戦の実績も短く、さほど期待されておりませんでした。
その日、西は朝食を取り終えると、ウイスキーを銀のボトルから一口飲み、送迎車に乗りました。
走行距離メーターに1が揃っている様子を見て、ついていると感じたようです。
この日の「大障害飛越」競技は波乱模様。
西の前に走った9選手のうち、完走者は僅か3名のみでした。
障害馬術とは、難しいものなのです。
馬は人よりも神経質であるとすらされています。
大観衆の興奮と熱気で、馬の駆け足が乱れてしまったのかもしれません。
競技開始――。
小旗がさっと振られ、ウラヌスの巨体が障害へと向かってゆきます。
さっと障害を飛越したその人馬一体の姿を見て、これはいけるかもしれない――そんな期待感が広がってゆきました。
西が激しく鞭を入れると、ウラヌスは巨体であざやかに障害を飛び越えてゆきます。
減点につながるミスがあると、観客席からドーッとざわめきがあがります。
皆、この人馬に感情移入していたのでしょう。
ウラヌスが障害手前で止まってしまった際には、観客席からは悲鳴があがったほど。それでも人馬はへこたれずに、障害に再度向かいクリアしたのでした。
人馬が最後の障害を越えてゴールすると、万雷の拍手が響き渡ります。
得点は、減点8。この時点で1位です。
このあと、優勝候補も競技をしたものの、西とウラヌスの得点を上回ることはありません。
完走者たった5名という、激戦でした。
「優勝者は、バロン・ニシ、ジャパン!」
場内放送が響くと、歓声がどっと沸き上がります。
のちに東京五輪招致に尽力する田畑も、この西の快勝に感動した一人でした。
控え室で記者団に囲まれた西は、短くこう応えます。
“We won.”(我々は勝った)
この短い言葉を、日本人は大日本帝国である我々が勝利したと解釈しました。
一方、他国ではウラヌスと西が勝利したと解釈しております。
西はどういうつもりで語ったのか、付け加えておりません。
西は最も魅力的な日本人紳士として、時代の寵児となったのです。どんな大金を積んでもウラヌスを買い取りたいという申し出もありましたが、西は断りました。
しかし、祝賀については断りません。
馬術競技団の祝賀会すら、ハリウッド女優たちと日夜パーティに明け暮れ、ついに参加しなかったのだとか。
名優スペンサー・トレイシー、ロバート・モンゴメリー、チャーリー・チャップリンも、祝いの席に駆けつけます。
パッカード社からは、記念の高級車が贈呈されました。
海を挟んだ日本では、妻子が喜び「パパ万歳!」と感動の声をあげております。
こうした出来事が、次から次へと起こったのです。
アメリカ、ドイツといった国からも西の優勝を祝いたいとの声があがったほど。
政治家や外交官をさしおいて、西は世界中で最も人気があり、知名度が高い日本人紳士となったのでした。
一度帰国しかけながらも、またトンボ返りしてまで祝賀会に出席したほどですから、まさに並外れたパーティー好きです。
帰国後も、西の大歓迎ムードは止まりません。
ロサンゼルス五輪で成績を残した日本人選手の中で、最も熱狂的な歓迎を受けた時代の寵児――。
それこそが、西竹一でした。
西はNHKラジオでは、しおらしく優等生的な原稿を読み上げております。
皆様の応援あっての優勝であると、彼は語ったのです。
大人気の反面、彼には冷たい目線も注がれました。
西のような日本人離れした奔放さ、華やかさは、必ずしも受け入れられるものではありません。
露骨にあんな馬術は邪道だと罵る軍人や、反発戸嫉妬を見せる者もおりました。
西が漏らしていた、ウラヌスしか自分をわかってくれないという思いも、うなずけるものがあります。そして……。
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