五千円札新渡戸稲造/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

新渡戸稲造72年の生涯まとめ!『武士道』以外の功績は?(実は国際結婚)

皆さんは、新渡戸稲造に対して、どんなイメージをお持ちですか?

一定の世代より上の方なら
「五千円札!」
という即答が聞こえてきそうですが、さらにそれ以上のコトとなると、ほとんど何も知らない――という方が多いのではないでしょうか?

実は新渡戸は、幕末生まれ。
しかも南部藩士の出身です。

『武士道』という書物を記していることから、そこまでのイメージは、まぁ、わかるかもしれません。

しかし、彼を語るコトバはそれだけでは足りません。

新渡戸は狭い日本に収まる人物ではなく、西洋の学問に興味を持つうち、いつしか欧米を飛び回って活躍するようになり、奥様はメアリー(アメリカ人)という当時珍しい国際結婚を果たす先人でもありました。

新渡戸稲造と妻メアリー/wikipediaより引用

そう聞くと五千円札の堅苦しいイメージもいささか和らいできませんか?

本稿では、知られざる偉人・新渡戸稲造の生涯を追ってみたいと思います。

 

学究心とチャレンジに富んだ血に恵まれ

文久2年(1862年)。
それは島津久光が上洛し、幕末の政治が大きく動いた年のことです。

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南部藩士である新渡戸十次郎と、その妻・せきの間に、末子となる三男が生まれました。

名前は稲之助。
同年には、岡倉天心、森鴎外がいます。

彼の血筋には、学究心とチャレンジ精神が脈々と受け継がれていたようです。

曾祖父・伝蔵は、儒学と兵学の大家として名を成しておりました。
祖父・伝(つとう)は勘定奉行であり、十和田湖の水利に着目。湖水の流れ込む原野・三本木を開拓するという功績があります。

父・十次郎は、この伝の跡を継いで三本木開拓に尽力しました。
その優秀さが藩主の目に止まり、幕末という激動の時代を生きることになったのです。

江戸と国元を往復する活躍をした十次郎は、しかし、その鋭さゆえに謹慎処分を受けてしまい、悔いの多い晩年を過ごすことになってしまいます。

そして稲之助、わずか6歳の時、48歳でその生涯を終えました。

父を失った稲之助は、優しく聡明で開明的な母や、祖父、叔父に見守られながら生きてゆきます。

 

西洋好きな南部藩士の子

新渡戸家では、西洋の文物に触れる機会に恵まれました。

例えば出入りの医者は、英語を教えてくれたばかりか、煙草の火をつける奇妙な装置を見せてくれたことも。
装置に触れると、新渡戸の指に走る衝撃――。

「これがエレキだべ」

幼い新渡戸は、西洋の技術に衝撃を受けます。

鉛筆の存在も知りました。
なんでもスラスラ書くことの出来る西洋渡来の筆記具に、彼はすっかり夢中。
そして迎えた明治時代、新渡戸はまたも衝撃を受けます。

母が食べさせてくれた牛肉です。

南部は牛の名産地ですが、あくまで農耕牛。
それを母は、体によいものとしてふるまったのです。

「牛が殺生をおそれて寺に逃げ込んだつうのは、作り話だべ」

母はそう言うと、これからはしばしば食卓に牛肉を出すと宣言したのでした。

エレキ、鉛筆、牛肉。
新渡戸の胸には、西洋への憧れが膨らんでいきました。

奥羽最北端の南部藩に生まれながら、西洋に憧れていた彼の体内には、先祖から受け継いだフロンティア精神も流れていたのでした。

 

東京で学び、農学の道へ

祖父・伝が亡くなった明治4年(1871年)。
新渡戸は、学業のため東京へ出ました。

新渡戸家を継いだ叔父の道郎が、東京で役人をしている太田時敏の養子にしたうえで、学ぶように送り出してくれたのです。

12日という長い旅の最中、途中で駕籠かきから法外な価格をふっかけられるトラブルもありながら、辛い道のりを支えてくれたものは、母がくれたオルゴールでした。

このころまで新渡戸は、伝統的な儒学といった学問を習っていました。

が、上京後は西洋の学問を学ぶことにします。
はじめこそ南部藩の「共慣義塾」に入ったものの、明治8年(1875年)で14歳となると「東京英語学校」へ、

学校には、明治の日本を担う少年たちが数多く集っておりました。

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東京英語学校で学んでいたある日、文部省の視学官が学校視察に来ました。
視学官はそこで、
「これからは自然科学を学び、日本を導いていかねばならない」
と演説をします。

これを聞いた夜、新渡戸は眠れないほど興奮しました。

明治9年(1876年)夏。
若き明治天皇がついに脚を東北地方まで伸ばしました。

このとき新渡戸家に立ち寄ります。

明治天皇は新渡戸家の三本木開拓の功績を褒め称え、稲造ら三兄弟にこう声を掛けました。

「今後とも、子孫は、父祖伝来の志を継ぎ、農業に尽くしなさい」

新渡戸はこの言葉を胸に秘めるようになります。
そしてこのとき受け取った報奨金で、新渡戸は聖書を買い、教材としたのでした。

 

いざ新天地、札幌農学校へ

農業を志したあとの明治10年(1877年)。
新渡戸の目は、北海道へ向けられました。

1880年頃の札幌農学校/wikipediaより引用

北海道開拓使であった黒田清隆は、こう言い切っています。

「日本の夜明けは、北海道から始まる」

当時の北海道は開拓が始まったばかり。
この地では、西洋渡来の作物栽培、西洋料理に必要となる乳製品や食肉を得るための酪農が始まっていました。

これだけでも農業志願の青年には最適ですが、それ以外の要素も新渡戸にあっていました。

北海道開拓に送り込まれた人々は、戊辰戦争で敗れた東北諸藩の人々が多数を占めています。
開拓使こそ薩摩閥の黒田であるとはいえ、そこで暮らす和人のほとんどは、新渡戸と同じ東北出身者であったのです。

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開拓者にとっては苦難の日々ではありました。
しかし、そこには薩長閥の影響が及ばないという利点もあったのです。

新渡戸が第二期生として入学した札幌農学校は、アメリカ人教師も多数在籍しておりました。

最も有名なのが、「少年よ、大志を抱け」の言葉で知られるクラーク博士でしょう。

一期生のみ指導したクラークは、二期生である新渡戸たちとは入れ違いで帰国しています。
そのため、新渡戸とは直接的な交流はありません。

しかし、彼の残した「若き紳士たれ」という教えとキリスト教信仰は残されていました。

二期生は、一期生から熱心なキリスト教の勧誘を受けました。
英語の聖書を既に所持し、熱心に読んでいた新渡戸は受洗し、パウロという洗礼名を授かります。

 

最高の学び舎で内村鑑三らと共に

屋外での授業も多いこの学校で、新渡戸は羽を伸ばすことが出来ました。

新渡戸は内村鑑三、宮部金吾とともに、学業でも競い合いました。

札幌農学校時代に内村鑑三や宮部金吾と共に学ぶ/wikipediaより引用

そこには楽しく、充実した日々がありました。

明治13年(1880年)、母を失うという辛い体験もありましたが、新渡戸にとってこの学び舎は最高の場所だったのです。
読書に熱中するあまり目が悪くなり、トレードマークともいえる眼鏡をかけるようになったのも、この在学中でした。

そんな新渡戸が大きく影響を受けた書物が、トーマス・カーライルの『サーター・リサータス』です。

英語、キリスト教、西洋由来の知識、西洋のマナー。
幼い頃から西洋に憧れていた新渡戸は、この札幌農学校時代に、一気にその世界が広がりました。

新渡戸は農学士として卒業。
明治14年(1881年)開拓使御用掛となり、蝗害(こうがい・バッタの大量発生による作物の被害)の対策に従事しました。

しかし、新渡戸の向学心はこのままでは収まりません。彼は、東京大学入学を目指し始めたのでした。

 

東洋と西洋の架け橋になりたい

明治16年(1883年)。
新渡戸は東京大学に入学を果たします。

外山正一教授から入学動機を聞かれた新渡戸は、こう答えました。

「私は、太平洋の橋になりたいのです」
英文学を学び、東洋の長所と西洋の長所を発信し、架け橋になりたい――そんな思いでした。

しかし、東大ではすぐに失望することとなります。
出来たばかりの当時、新渡戸の向学心にふさわしいほどの教員がいなかったのです。

そのため、ほどなくして退学。
明治17年(1884年)になって渡米を果たし、ジョンズ=ホプキンス大学へ入学、3年間学ぶことになります。

学費の高さに苦しむ新渡戸は、慎ましい暮らしを余儀なくされますが、実り多い留学でした。

学友には、第28代アメリカ合衆国大統領となるウッドロウ・ウィルソンがいたというのですから、驚きですね。

第28代アメリカ合衆国大統領のウッドロウ・ウィルソン/wikipediaより引用

 

クェーカー教でメアリーと出会い

明治19年(1886年)。
新渡戸は学問だけではなく、大切な出会いを果たします。

キリスト教徒として、どの教えが自分にあっているのか、新渡戸は悩み続けておりました。
入信以来の悩みでもあります。

そんな新渡戸が『自分に合う』と見いだしたのが、クェーカー教のボルティモア友会でした。

人類平等を目指すクェーカー教ならば、自分が目指した東洋と西洋の価値観融合を達成できる――。
会員となった新渡戸は、メアリー=エルキントンという女性と出会います。

クェーカー教徒の家で生まれ育った彼女は、新渡戸の講演を聞いて日本に興味を持ち、是非話が聞きたいと彼のもとを訪れて来たのです。
運命の出会いでした。

当時のアメリカは、ヨーロッパと比較すればまだ新興国。
そこで新渡戸は、この年、渡欧を目指したのです。ドイツに留学し、ボン大学で学び始めました。

が、明治22年(1888年)、長兄・七郎が死去。
次兄・道郎は既に無くなっており、三男の稲造が新渡戸家に復帰して家を継ぐほかなくなります。

新渡戸はドイツに渡ってからも、メアリーと文通を続けていました。
この手紙のやりとりで、2人は結婚の強い意志を確認します。

当時はまだまだ珍しい国際結婚。
新渡戸は慎重に考え、結論に至ります。実際、メアリーの父は反対したものの、クェーカー教徒仲間の説得もあり、ついに折れました。

出会いから5年後の明治24年(1891年)元旦。
二人は結婚を果たします。

夫は30歳、妻は33歳という夫婦でした。

 

教育者としてスタート

この歳、新渡戸は日本に新妻メアリーとともに帰国、母校である札幌農学校の教授となります。

新渡戸は主任教授、予科主任と出世。
農業から語学まで、様々な教科を担当しています。

新渡戸稲造/wikipediaより引用

学外でも、私立中学である北鳴学校の校長も兼任しました。
さらには、昼間に勉強できない貧困家庭の子弟を教育する、夜間学校の「遠友夜学校」も設立。

ここまでなんでもこなしていたのは、頼まれたらば断ることができないその性格ゆえでした。

そんな新渡戸夫妻にも、悲しい出来事に見舞われます。
明治25年(1892年)に授かった一子・トーマス(遠益)が、わずか8日で夭折してしまったのでした。

 

日本には『武士道』がある

このころ、日本は日清戦争で勝利を収め、国際社会の中で存在感を強めておりました。

日本中が勝利に沸き立つ中、新渡戸夫妻は沈黙しておりました。
クェーカー教徒は全ての戦争に反対する立場です。複雑な胸中でした。

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明治31年(1988年)。
新渡戸は妻メアリーとともにカリフォルニアで療養しておりました。

このとき、彼は英語で『武士道』を書き上げています。

武士道/wikipediaより引用

執筆の動機は、ドイツ留学中にありました。

ベルギー人のラブレー教授に、
「宗教教育もないのに、日本人はどうやって善悪を区別するのかね?」
と問われたことがあったのです。

新渡戸は、日本には武士の美質であった「武士道」があると述べました。
この新渡戸の著書による武士道が現在まで広まっておりますが、留意すべき点もあります。それは……。
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