ジョークというと面白おかしい者を真っ先に連想しますが、某海賊紳士の国ではそうとも限りません。
いわゆる「ブラックジョーク」というやつで、生真面目な人に言ったらぶん殴られるか通報されるか、という類のシャレのこと。
今回の主役は、近現代日本史の中で最も巧みに使いこなした人です。
明治三十五年(1902年)2月17日は白洲次郎が誕生した日です。
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神戸の暴れん坊 17歳で英ケンブリッジへ
ここ数年テレビや本で取り上げられることも多くなったので、ご存知の方もいらっしゃるでしょうか。
近年の人物ながら、本人が一次資料(になったであろう書類)を処分してしまったため、今となっては不明な点も多い人です。
簡単に言うと、
・戦後GHQとの交渉を進め
・数々の名(迷?)言を放った人
というのが一番近いのではないかと。
イギリスに留学したくらいですから元から頭が良く紳士的な人物だったのかと思いきや、実は中学くらいまでは真逆の超暴れん坊だったり、どの角度から見てもマンガみたいな御方であります。
留学したのは大正九年(1919年)、17歳のときでした。
行った先がケンブリッジだったことは、彼の人生で最大の財産になります。
もしこのとき、どこか別の大学に行っていたら、以下のエピソードはまた違ったものになっていたでしょう。
歴史に名が残ることもなかったかもしれません。
なぜかというと、ケンブリッジ留学は
【英語の発音】
に大きく影響したからです。
GHQに向かって「アナタの英語も練習すればうまくなる」
イギリスのみならず世界有数の名門であるケンブリッジとオックスフォードでは、独特のアクセントを持つ英語が話されています。
俗に「オックスブリッジアクセント」と呼ばれるもので、このアクセントで喋る人はケンブリッジかオックスフォードの出身者・関係者以外にはいません。英語は話者数の多さゆえに喋っただけで出身地や身分がわかりやすい言語とされていますが、オックスブリッジアクセントはその筆頭というわけです。
彼の英語は古臭いものだったという意見もあるものの、格式の高いところで古めかしい喋り方がされているのは別におかしな話でもないですよね。
これを活かし?GHQのコートニー・ホイットニー(日本国憲法の草案作った人)に「チミは日本人なのに英語がうまいじゃないか」と半分イヤミったらしいことを言われた際には、逆に
「アナタの英語も、練習すればもっとうまくなりますよ」
と返したなんて話があります。
ホイットニーも法学博士なので教養があるのは間違いないんですが、「アメリカで話されているのは”米語”であって”英語”ではない」と言いたかったのかもしれません。イヤミの倍返しですね。
戦争に大反対! 文句を言って軍人に殴られることも
話が前後しますが、戦中に町田へ家を買ったときには「武相荘」と書いて「ぶあいそう」と読ませるなど、これまたブラックなネーミングセンスを発揮しています。
しかめっ面だったとか。
笑わない人だったというわけではない。
にもかかわらずこういう名前にしたのは、「俺は媚を売らないから、無愛想に見えるだろうなw」なんて思っていたからなのかもしれません。
元々白洲は戦争には反対でした。
知り合いの軍人に頼み込んで召集を免れていますし、反戦団体に加わって活動もしています。
ある飲み屋で「こんなバカな戦争を始めた奴の顔が見てみたい」という当時的には逮捕レベルの暴言を吐いたところ、とある軍人に聞かれてしまってその場で殴られたこともあったといいますから、心の底から戦争反対と思っていたのでしょうね。
このとき白洲は泣きながら土下座して詫びたそうで、直接見た別の軍人は「白洲はただの腰抜けだ」と思ったとか。
なかなかカッコ悪いと思われるかもしれませんが、戦争批判は、本当に殺されかねない事態でありますので、咄嗟にそう判断されたのかもしれません。
腰抜けうんぬんのレベルじゃないんですよね、実際。
魂を揺さぶられる5つの名言
というわけで、聞けば聞くほど「そこに痺れる!憧れるゥ!」な白洲語録の一部をどうぞ。
原文が英語のものもありますが、ここでは全部日本語でいきますね。
・「我々は戦争に負けたが、奴隷になったのではない」
もっとも有名な名言かもしれません。
GHQとの交渉中、マッカーサーへ言ったとされるものです。
当時人種差別が合法だった欧米の価値観からすると、有色人種の時点で人間扱いしないのが当たり前でしたし、敗者となればさらにそうだったでしょう。
それに対し「ふざけるな」と抵抗を示したこの言葉がなかったら、日本はもっと無茶苦茶言われていたかもしれません。
さらに……。
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