東日本大震災

津波で浸水した仙台市宮城野区の沿岸部(撮影:米海軍)/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

地震大国・日本では過去に何度の大地震が起きたか?地震の歴史まとめ

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鎌倉・室町時代の大地震

中世の主な人物や出来事は

鎌倉幕府を開いた源頼朝
元寇
南北朝時代
足利尊氏足利義満
・信長から秀吉、家康へ

あたりですかね。

前項で触れましたとおり、鎌倉から室町時代に「1年あたりの地震回数」は0.081回と2倍近くに増えます

M8.0-9.0の超巨大地震は減っておりますが、それでも200年に一度は発生。

東海地震・東南海地震・南海地震の3つの地震域を持つ南海トラフが原因です。

鎌倉~室町時代 20回

M6.1以上の地震 18回

M8.0-9.0クラスの超巨大地震 2回

M6.0(M5.0-6.0含む)の地震 4回

規模不明の大地震 10回

総数 30回(407年間)

1年あたりの地震回数……0.081回

上記のうち、さらにM7規模の大地震に絞り込みますと、平安時代までに20回だった揺れが16回と飛躍的に増えています。

約770年間で20回発生した古代(平安時代まで)に対し、鎌倉・室町では約400年間で16回ですから驚き……というか、これもまたより多く記録が残されるようになったからでしょう。

ゆえに江戸時代から明治・大正・昭和へ入ると一気に数が増えて空恐ろしくなってきますが、まずは鎌倉・室町時代に発生したメガクェイクの特徴を見てみます。

 

1293年永仁地震

鎌倉時代に最も注目すべき大地震はM7の永仁地震でしょう。

関東南部で発生した揺れで、当時から著名な建長寺が炎上して、そのほとんどが焼失。他にも多数の寺に被害があり、死者は数千から最大で23,000人強にまで達したといいます。

建長寺

また関東の永仁地震との関連性を示す証拠はありませんが、同日、越後魚沼郡(新潟県)でも激しい揺れに見まわれ、山の崩壊や多数の死者という被害が出ました。

1213年から数えて1293年まで合計8回。特に鎌倉時代は、10年に一度の割合で【鎌倉】での激しい揺れを記録しております。

これは鎌倉という場所に武家政権が移動して、記録体制が充実したせいでしょう。

都内での被害はなかったの?

と、一瞬思われるかもしれませんが、この頃の東京はまだまだ一地方に過ぎず、江戸城や城下町が登場するのは300~400年後のこととなります。

一方、西に目を向けると、京都では【1317年文保地震】の記録が残されております。

M6.5~M7の揺れだったと想定されており、こちらでは清水寺が出火。特に、白河近辺での被害がひどかったそうですが、被害者は5名程度で済んでおります(あくまで記録上の話ですが)。

 

南海トラフ地震で道後温泉の湯が止まる

【南海トラフ巨大地震】は、室町時代にも2度発生しております。

最初は【1361年正平地震】です。

南海トラフ巨大地震とは

静岡県や愛知県の沖にある【東海エリア】

和歌山県沖にある【東南海エリア】

高知県沖にある【南海エリア】

上記3つの巨大な震源域が2つ以上連動して揺れるメガクェイク(規模は最大でM9クラス)

正平地震では、津波堆積物から【東海・東南海・南海】の三連動地震だったと推測されており、大阪にある四天王寺の金堂が倒れたり、畿内を中心にお寺での被害が数多く残されております。

当然ながら庶民の家屋の被害も甚大なものだったでしょう。

摂津(大阪)・阿波(徳島)・土佐(高知)では津波も発生。阿波では1700軒が波にのまれて60人余りが亡くなられました。

また湯の峰温泉のお湯が止まったとする報告もあります。

不思議なもので南海トラフ巨大地震には「温泉のお湯が止まる」という記録がたびたび残されております。

その一例が全国的に有名な愛媛県の【道後温泉】でしょう。

夏目漱石『坊っちゃん』で知られただけでなく、聖徳太子がわざわざやってきて道後の湯につかったとする記録もあるほど、古き時代より愛されていた温泉ですが、実は【684年白凰地震】のときにもお湯が止まってました。

【1946年昭和南海地震】でも道後温泉では同じ現象が見られますので、万が一、事前にそういう事態が起きたら、普段より一層警戒心を強めた方がよいかもしれません。

防災・減災対策というのは「ハズレで当たり前」という発想でやっておくのが大切というのは、よく言われることですね。

 

中世最大級の明応地震が凄まじい

詳細な記録に乏しく、なんとも悩ましい鎌倉・室町時代ではありますが、おそらくや最も被害が大きかったのは【1498年明応地震】だと思われます。

M8.2-8.4と推測され、その恐ろしい規模を示す事例は2つあります。

①浜名湖を汽水湖に変えてしまった

昔、浜名湖は陸地の中にある【完全な淡水湖】でした。

海と湖は陸で隔たれており、海岸から浜名湖までは約3キロの距離があったのです。当然ながらそこには人々の集落があり、道も通っておりました。

それが明応地震による津波によって、すべて流され、浜名湖は海と淡水が交じり合う汽水湖となったのです。

浜名湖

衛星写真から撮影された浜名湖/wikipediaより引用

②鎌倉の大仏様が吹きさらしにされた?

今では当たり前のように青空の下で座っている鎌倉の大仏様。

その正体は、高徳院というお寺の阿弥陀如来様であります。

なぜ、そんな偉い仏様が吹きさらし状態でさらされているのか?

奈良の大仏様のように、立派な大仏殿を建てないの?

そう不思議に思われるかもしれませんが、もともとは大仏殿もあり、建物の中に鎮座しておりました。

が、明応地震で発生した津波によりすべて流されてしまったとされます(他の地震で無くなったという説もあり、再建しなかった理由は不明です)。

南海トラフ巨大地震は四国や近畿、中部日本に大きな影響を与える――。

そんなイメージをお持ちの方もおられるかもしれませんが、神奈川県(ひいては東京都)にも影響を及ぼすリスクは高いのです。

実際、明応地震と同規模の津波が発生すれば8~9メートルクラスの津波が鎌倉地方を襲う可能性があると、神奈川県のHPにも示されております。

 

秀吉「地震の原因は琵琶湖のナマズじゃ!」

皆さん、子供の頃に「地震はナマズの仕業」というような伝説を聞いたことがありませんでしょうか?

実はコレ、豊臣秀吉さんが言い出しっぺだとする説があります。

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ご存知のように、豊臣秀吉さんは織田信長の事業を引き継ぎ、農民から関白まで上り詰めた天下人として、その権勢たるや、誰も逆らえませんでしたが、彼にも勝てないものがありました。

そう、地震です。

彼が1582年【山崎の戦い】で明智光秀を倒してから4年後に【1586年天正地震】が起きます。

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近畿を中心にM7.8もの揺れとなった天正地震は、愛知や岐阜、三重、滋賀などから四国は徳島まで大きな被害をもたらし、余震は翌年まで続くほどの規模でした。

このとき豊臣秀吉は近江坂本城におりましたが、彼は琵琶湖対岸の長浜にいた山内一豊の娘(6才)や、加賀にいた前田利家の弟など、親しい武将の家族が命を失うほどの揺れでした。

琵琶湖付近の集落が一気に崩落し、数百戸の家が瞬時に消えたという話もあります。

いずれにせよ、この地震で心底恐怖を味わった天下人の秀吉は、琵琶湖に棲むという大ナマズを【地震の原因】と認定し、後年、京都に伏見城を建築するときは、部下の前田玄以に「ナマズ対策をせよ!」とまで命令を出したそうです。

ところが、です。

天正地震から10年後、まるでその伏見城を狙ったかのように【1596年伏見地震】(推定M7.25)が発生してしまうのです。

伏見地震は1995年阪神淡路大震災と同じように活断層型の地震で、多大なる被害を与えたとされます。

天守は大破し、石垣も崩れて城内の死者も多数。また、大阪や堺、神戸などでも家屋の倒壊や死者が確認されております。

晩年に近づき、愚行を繰り返したとされる豊臣秀吉に天罰がくだった――とは思いませんが、周囲の諸大名がそういう理由付けをした可能性は否めないでしょう。

次は江戸時代です。

さらに被害は深刻化して参ります(というか記録が詳細になっていきます)。

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