昭和18年(1943年)10月16日は、大正天皇の生母・柳原愛子(なるこ)が亡くなられた日です。
この時代、生母だからといって偉くなれるわけではありません。
彼女は臣下として明治天皇に仕え、子供を授かったというだけで、妃や皇后になることはできなかったのです。
生母と書面上の母が違うというのは現代人にはしっくり来ませんが、昔から公家や武家の間ではよくあること。
むろん、愛子の出自は由緒正しい家です。
そうでないと、そもそも天皇と直接顔を合わせるような女官になれませんからね。

柳原愛子/Wikipediaより引用
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鎌倉時代から続く家柄
柳原家は鎌倉末期から続く家で、戦国時代には武士に所領を取られてしまっていました。
しかし、因幡(現・鳥取県東部)の領地だけは残っており、京から現地へ下向して生き延びたといいます。
こういう家はいくつか例があり、例えば四国の一条家が注目されたりしていますね。
江戸時代の柳原家は、武家伝奏や議奏(ぎそう)などの要職に就く人もいました。
武家伝奏は幕府との連絡役で、議奏は天皇と公卿(公家の中で特に位が高い人たち)の連絡役です。
議奏は当番制ですが、必要に応じて全員出仕することもあり、なかなか忙しい役職でした。
お出かけのお供はもちろん、他の高官よりも天皇の日常生活に関わることが多かったため、天皇の素顔を知る人々ということもできます。
侍従よりももう少し政治よりの役職というイメージでしょうか。

柳原家の家紋/wikipediaより引用
そうした家に生まれた愛子は、11歳のときに仕え始め、掌侍(しょうじ)、権典侍(ごんのてんじ)と昇進していきます。
掌侍は皇后の世話役、(権)典侍は宮中の女官たちのトップです。
「権」は定員より多い場合につけられるもので、仕事の内容は同じでした。
ちょっと時代がズレますが、江戸城の大奥でいえば掌侍が御中臈、典侍が御年寄にあたるでしょうか。
平安時代の女官については、以下の記事にまとまっていますので、よろしければご参考までに。
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女官としての呼び名「梅ノ井」「早蕨典侍」
愛子は明治八年(1875年)に最初の出産をしているので、16歳までに明治天皇のお気に入りになったと思われます。
明治天皇は愛子より7歳上ですから、当時の感覚としてはまあ普通でしょうか。
といっても、これより先に生まれた明治天皇の子供は死産だったため、ただ単に「丈夫な子供を産める女性」を探して……かもしれませんね。その辺は君主としての義務だから仕方ありません。
明治天皇は昭憲皇太后を「天狗さん」と呼ぶなど、あだ名をつけるのが好きという珍妙な趣味がありましたが、愛子にはそれがないようです。
代わりに(?)女官としての呼び名「梅ノ井」「早蕨典侍」が伝わっています。
「早蕨(さわらび)」は文字通り芽を出したばかりの蕨のことです。
着物の色合わせ(襲の色目)の名や源氏物語の巻名にもある、風流な単語ですね。
着物の場合は表が紫、裏が青(現代語では緑)という組み合わせ。
どちらかというと蕨より菖蒲(あやめ)や杜若(かきつばた)のほうが近い気がしますが、凛とした美しさを感じられる配色でしょうか。
もしかしたら、明治天皇が愛子に一番似合う色目として選んだのかも……浪漫ですね。
43才で女官たちのトップに立った
愛子は三人の子供を産み、成長したのは後の大正天皇である明宮嘉仁親王だけでした。
しかし、その後も明治天皇の子供は幼いうちに亡くなっております。
もしかしたら、明治天皇の皇子女の多くが脳膜炎という病気で亡くなったといわれているので、この病気に弱い体質が遺伝してしまったとか……。
そもそも当時の乳幼児が成人になれる可能性はかなり低かったというのもあります。
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そう考えると、この時代は密かに皇室存続の危機だったことになりますね。
愛子にとって20歳で大正天皇を産んだのが最後の出産でしたが、その後も宮仕えを勤勉に続け、43歳で典侍として女官たちのトップに立ちます。
もう一人、高倉寿子という女性が典侍を務めていたので、二人で分担することも多かったでしょうね。
また、彼女にかぎらず、ある程度地位の高い女官は新入りの生活指導をすることになっていました。
この世話役のことを「お世話親」といったそうです。愛子がお世話親になった人の多くが後々まで感謝をしているあたり、かなり気配りのできる優しい人だったと思われます。
その一人が大正天皇の皇后・貞明皇后でした。

貞明皇后(九条 節子)/wikipediaより引用
実母が愛子と知ったとき……
皇太子時代の大正天皇の妃として貞明皇后が宮中に入った際、愛子は教育係の一人でした。
「実の母とも思った」というほど愛子に感謝しておりますから、本当に優しく指導してくれたのでしょう。
貞明皇后はその恩を後年まで感謝し、大正天皇が亡くなる間際には特別に見舞いに来られるよう計らっています。
また、愛子の米寿(88歳のお祝い)には布団を送ったり、愛子が亡くなった際、自ら信濃町の屋敷を訪れ、手をとって感謝を述べたといいます。いい話や……。
一方、大正天皇はある程度成長するまで「母は昭憲皇太后」と教えられていたため、実母が愛子だと知った際、かなりのショックを受けたとか。
まぁ、一般人でも「実はお前のお母さんは、あのAさんなんだよ」とか言われたらショックですものね。

大正天皇/wikipediaより引用
しかし、昭和天皇が6歳までに30回も愛子に会いに行ったという記録があるため、大正天皇のわだかまりも解けたのでしょう。
だからこそ、貞明皇后も何をおいても最期に親子の時間を過ごして欲しいと思ったのかもしれません。
いつの時代も、生まれる順番と死ぬ順番が逆行するほど悲しいものはありませんしね……。
以前の記事で「大正天皇は日本初のマイホームパパ」というようなお話をさせていただいたのですが、そこには実母である柳原愛子の影響があったのかもしれません。
身分の問題はさておき、女官の多くに慕われて、皇后も世話になったような人が母親なのだということを、きっと誇らしく思ったでしょうから。
そういう人ともっと早く親子として接することができていたら……という思いが、しきたりを守るよりも家族との繋がりを重視する下地になったのではないかという気がします。
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【参考】
国史大辞典
【昭和天皇実録公表】/産経新聞
柳原愛子/wikipedia
柳原家/wikipedia





