三淵嘉子

三淵嘉子/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

朝ドラ『虎に翼』モデル三淵嘉子の生涯~日本初の女性法曹は「精いっぱい働き生きた」

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戦災孤児を救うにはどうすべきか

昭和23年(1948年)、最高裁判所が発足しました。

嘉子はまだ裁判官にはなれないものの、最高裁民事部事務官となり、家庭局が創設されるに伴い初代の家庭局局付に就任します。

この最高裁民事部会議において、家庭裁判所が設置されることが決まりました。

「家庭」とつくことに、嘉子は喜びました。

弱い立場の女性や子どもを守る組織になるのではないか――素晴らしい時代が始まると思えた嘉子は希望を抱きました。

戦争が終わったとはいえ、当時の日本は混乱の最中にあります。

弱い者が割を食う社会の中、戦災孤児をどうするのか。その対応は急務でした。

彼らは飢えに苦しみ、寝場所もなく、収容施設にしたってどこも満員状態で、劣悪な環境の中を生きていました。

家庭裁判所は、そんな子供たちを救うことを目指していたのです。

昭和24年(1949年)年1月、嘉子は最高裁家庭局事務官に任じられます。

その中心にいた家庭局長の宇多川潤四郎はかなり独特の人柄で、人情に篤い人でした。ちょび髭がトレードマークで、気合を入れるために滝行をすることもある、どこか変わった人物だったといいます。

彼の考え方は、明治時代以来の大日本帝国憲法が考える司法とはほど遠いものです。

親しみがもて、少年を教え導くような家庭裁判所を宇多川は掲げていました。ユーモラスでやさしく、少年を守ることに全てを捧げると決意を固めていました。

彼は何かあると自宅の風呂場で水を浴びる願掛けをよくしていました。ついには多摩で滝に打たれたこともあります。猪突猛進、愛すべき人物でした。

嘉子はそんな宇多川のもと、えくぼのある丸顔に笑みをたたえ、宇多川のもとで働くのでした。

 

愛にあふれた家庭裁判所をめざして

家庭局はそれまでなかった気風があり、異端でもあり、軽んじられる傾向がありました。

そんな家庭局をあたたかく見守る人がいました。

初代最高裁長官の三淵忠彦です。

彼は悲運の幕末会津藩家老・萱野権兵衛長修を先祖に持ちます。会津戦争の責任を負い、自刃した人物です。

一度は裁判官をやめ、弁護士を務めていたものの、戦後に復帰して最高裁初代長官となっていました。

もう一人の秘書課長・内藤頼博は、ハンサム、ダンディ、背が高く、ともかくおしゃれでモテていたと周りから回想されている人物です。

彼は高遠藩主の血筋であり、戦前は子爵。「殿様判事」と呼ばれていました。

内藤は戦前、アメリカで視察した家庭裁判所を念頭におき、これぞ日本に必要だと確信していたのです。

当時の日本は、戦争の影響も酷く、家庭内の問題が山積みでした。

親が亡くなった遺児を養子とする願い。

戦前は認められなかった母の親権を求め、我が子を引き取りたいと女性が訴える願い。

抑留から帰還した夫との婚姻関係をどうするのか。

数多の複雑な問題を、発足して間もない家庭裁判所が引き受けるのですから、目の回るような忙しさです。

それでも懇切、丁寧、なごやかに、愛のある裁判所として皆応対を続けました。

柔らかい物腰とあたたかい声をもつ嘉子は、家庭裁判所の象徴ともいえる一人でした。

しかし、女性法律家の先駆者である自分が、家庭裁判所に拘泥し続けたら、後進の道を狭めるかもしれない――彼女はそう思ったのか、次の異動には、家庭裁判所以外を希望したのでした。

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