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藤原彰子(道長の娘)日本で最も権力を有した男の娘は幸せだったか?

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・赤染衛門(あかぞめえもん)

いわゆる良妻賢母タイプかつ温和な人だったようです。

同僚である彰子の女房だけでなく、清少納言などとも親しく付き合っていたとか。

旦那さんは文章博士の大江匡衡(まさひら)という人で、あまりのおしどり夫婦ぶりに「匡衡衛門」とまで呼ばれていたそうです。この字面書きづらい(´・ω・`)

彼女の和歌も人柄を反映してか、穏やかなものが多いです。

百人一首には「やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな」が取られています。

意味としては「あなたをお待ちしているうちに夜はすっかり更けて、もう月が傾いてしまいました。こんなことなら、ぐずぐずしていないで寝てしまえばよかったわ」という感じになります。

実感のこもった歌ですが、実は赤染衛門自身ではなく、姉か妹のために代作したものなのだとか。

 

・伊勢大輔(いせのたいふ)

彰子に仕えた女房の中では、紫式部に可愛がられていたと思われる人です。

百人一首に取られている「いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな」という歌の逸話からうかがえます。

本当はこの日、奈良から届けられた八重桜を、彰子の御前に出すのは紫式部の役目でした。

しかし彼女は、後輩に文字通り「花を持たせてやろう」と考えて、この仕事を仕え始めたばかりの伊勢大輔に譲ったのです。

そのとき和歌を詠まねばならないしきたりだったので、おそらく紫式部は伊勢大輔の才覚を知っていて、周りの人々にも教えてやろうとしたのでしょう。

無事に見事な歌を詠んだ彼女を公家たちは大いに褒め称え、彰子からも返歌を賜るなど、大成功を収めました。

1008年頃から、少なくとも1060年まで彰子の元にいたようなので、仕え始めたときが相当若かったか、かなりの長命だったかどちらかでしょうね。両方かも。

 

87才まで生きた後半生は辛いものだったのでは……

その後、道長のゴリ押しにより三条天皇が若くして譲位。

彰子の生んだ皇子が後一条天皇になると、彼女は、皇太后というより高い位につきました。

道長はその翌年に出家して、ようやく政治から身を引きますが、彰子が代わりに藤原摂関家の実質的な主となり、忙しい日々が続きます。

そして38歳のときに出家し、女院号を賜って「上東門院」と呼ばれるようになります。

その後、二人の皇子に先立たれたり、前九年の役という戦が始まったりと、後半生は穏やかなものではありませんでした。

彼女自身が亡くなったのは、ひ孫である白河天皇の代。

87歳という当時としてもかなりの長寿でした。

この頃になるとおそらく上記の女房たちも皆先立っていたでしょうから、栄華の陰で泣いていた日もあったかもしれません。

せめて彼女たちの残した歌や物語で慰められていればよいのですが、それもまた辛そうですね……。

彰子の一生を見ていると、政治的な成功と個人としての幸せについて考えたくなってきてしまいます。

人それぞれ何を最重視するかで変わってくると思いますが、皆さんはどう感じられたでしょうか。

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【参考】
国史大辞典
藤原彰子/Wikipedia

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