飛鳥・奈良・平安

「私の遺体は道端に放置し鳥や獣に与えよ」檀林皇后の覚悟が凄まじい

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「私の遺体は鳥や獣を養うため道端に放置しなさい」

檀林皇后の遺言とは、

「私の遺体は墓に葬らず、鳥や獣を養うためにそのまま道端に放置しなさい」

というものだったといわれています。

つまり、皇后という尊い身分でありながら、自らの身体を野鳥や野犬の餌にしろ、命じたのです。

この遺言がそのまま実行されたのかどうかについては説が分かれるところですが、その様子を表したとされる絵は存在しています。

「九相図」というもので、檀林皇后だけでなく、小野小町にも同様の絵が描かれました。

亡くなった直後の状態から、放置されて遺体が徐々に変化していく様子、そして野犬や野鳥に食べられて、やがて跡形もなくなり、名前だけがつたえられるというさまが克明に表されています。

……これ以上の表現は自重しますが、見たい方はググる先生に

【檀林皇后 九相図(画像検索の結果はコチラから)】

でお尋ねすると出てきますので、各自お調べください。

古代の絵特有の「デフォルメとリアリティが混ざった画風」がよりいっそう不気味でグロテスクなので、耐性のある方以外にはオススメできません。

檀林皇后と小野小町の二人に共通するのは「絶世の美女だった」ということです。小町がどのくらい敬虔な仏教徒だったのかははっきりしませんが……。

九相図は”「どんな美女でもいつか肉体は消えてなくなるもの」ということを表し、「僧侶の煩悩を断ち切る」ために描かれるようになった”ともいわれているので、後世になってからこの二人のような「名だたる美女を描いた」ということにされたのかもしれません。

古代の女性は人前に顔を晒さないのが常識ですし。

 

かつて「殯」という非常に長い葬儀をやっていた

ただ、その場合、檀林皇后の遺言の真偽も気になるところです。

たとえ真実であったとしても、息子である仁明天皇が遺言の通りに、母の遺体を自然に任せたとは考えにくいような気もします。

この辺は母への敬慕故に遺言に従ったのか、敬慕故に母の遺体を自然に任せるのを忍びないと感じたのか、仁明天皇の心の内によるでしょうけれども。

遺体を自然の分解に任せる「風葬」や「鳥葬」という葬儀のやり方はありますが、これが皇族にまで適用されたかというと微妙なところ。

皇族は「殯(もがり)」という非常に長い時間をかける葬儀をやっていたのですけれども、檀林皇后の時代は「皇族を含めて、葬儀を簡略化しなさい」という法律が出てだいぶ経った後ですので、これもまた違う気がします。

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檀林皇后の陵(みささぎ・皇族のお墓のこと)は京都市右京区にありますので、学術調査をすればどのような葬り方をしたのかわかるでしょう。

ただ、宮内庁が「陵の調査はダメ」(超訳)という方針を貫いているため、直接の解明は難しそうです。

何か他の手がかりが見つかれば良いのですけれども。

でも、広い範囲の生き物に慈悲を向けるのは尊いにしても、より身近な人の心を慮らないやり方というのはどうなんでしょうね。

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【参考】
国史大辞典
橘嘉智子/Wikipedia
九相図/Wikipedia

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