平安京

平安京復元模型/photo by 名古屋太郎 wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

鳴くよ(794)ウグイスで知られる「平安京」はどんな場所だった?

知っているようで意外と知らない――。

日常生活には、そんな謎がゴロゴロしていますが、こと歴史に関して言うと、あの都市もそうではないでしょうか?

延暦十三年(794年)10月22日に桓武天皇が遷都した平安京です。

といっても、明治天皇東京奠都のときのように

「江戸城は大きいなぁ……」

なんて個人的感想は記録されていないので、平安京の遷都自体はエピソードが豊富とは言えません。

今回は「平安京とはどんな場所だったのか」という視点から迫ってみたいと思います。

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大内裏は政庁エリアと皇居エリア

今の京都にも「京都御所」がありますよね。

実はあそこ、平安京の中心地だった大内裏(だいだいり)とは離れています。

現在の京都御所は、もともと土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)があった場所。

皇族の御所などに度々利用されていたところです。

平安京ができた当時の大内裏・内裏は、安貞元年(1227年)にほとんど焼けてしまって再建できず、南北朝時代から土御門東洞院殿が御所になっていたので、レプリカというわけでもないんですが、ややこしいですね。

平安京/photo by 咲宮薫 Wikipediaより引用

大内裏は政庁エリアと皇居エリア(内裏)とでもいうべき地区が分かれていて、ほとんどは政庁エリアでした。

周囲には14の門(宮城十二門+上東門と上西門)を設置。

中には女院号として使われた美福門・待賢門・上東門などもあります。

そして大内裏の南部中心・正門に当たるのが朱雀門です。

ここから真南へ向かって羅城門まで伸びているのが、平安京のメインストリートである朱雀大路ですね。

 


官名は大内裏の政庁から来ている

武士や戦国武将の官名でよく出てくる建物の名前は、大内裏の政庁からきているものもあります。

「大内裏の中にある◯◯という部署の役人」という意味なので、一例としては以下のようなものがあります。

他にもたくさん例はありますが、キリがないのでこの辺で。

当時は、下の名前を呼んでいいのは上司と親くらいで、

【名字+官名】

で呼ぶのが無難とされていました。戦国武将の場合は自称であることが多いですけど。

歴史小説や手紙などで「名字はわかるけど、下の名前が何かヘン」という場合は、だいたいこの辺の官名で呼ばれていることが多いので、覚えておくと便利かもしれません。

現代でいえば、会社の課長や部長のことをフルネームで呼ばないのと似た感じですかね。

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大内裏の役所の中で現在も残っているorまたは近年まで使われていた名前としては、宮内省(庁)・大蔵省などがあります。

大蔵省というと、諸々の不祥事のイメージが強い方も多いかと思いますが、本当は歴史ある名前なんですよね。残念な話です。

 


天皇エリアと後宮エリアに分かれていた内裏

皇居エリアである「内裏」には、もちろん天皇の住まいや後宮がありました。

この辺のことは、源氏物語が好きな方ならよくご存知でしょうか。

解説書などを読むと、図入りで説明されていますよね。

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内裏もまた大きく二つに分かれていて、天皇が政務を取ったりその他生活をする部分と、後宮に分けられていました。

便宜上、前者を天皇エリア、後者を後宮と呼ばせていただきます。

江戸城で例えると、「表」と「中奥」が天皇エリアで、「大奥」が後宮……余計わからないって? サーセン(´・ω・`)

おおまかなイメージとして「男女でだいたい生活区域が分かれていた」と思っていただければ良いかと。

天皇エリアには政務を執る部屋・天皇の寝室などがある「清涼殿」、儀式場である「紫宸殿」(南殿)などがありました。

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こう書くと非常に弘そうな印象ですが、実際は案外(?)こぢんまりしています。

西洋のように「階段の上に主君が玉座でふんぞり返っている」という構図ではなく、天皇の座所は他の部屋と高さ的にはほとんど同じですし、御簾で区切られているだけでしたしね。

当時の天皇の御前で行われた歌合せなどの絵を見ると、「これ曲者がいたら一発アウトじゃね?」とツッコまざるを得ないほど、天皇と臣下の距離が近い。

度重なる災害の多さや土地の狭さなども影響しているでしょうが、他国と比べると特異なところですね。

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