一条天皇

一条天皇/wikipediaより引用

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史実の一条天皇はどんな人物だった?彰子や道長とはどんな関係を築いていたのか

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実資も褒めた「笛」の才

こうして藤原兼家の目論見通りに、安定したかのように見えた政権。

唯一といっても過言ではない懸念事項は、一条天皇が虚弱体質だったことでした。

成長してからもたびたび体調を崩していた記録があり、一例を見てみますと、永祚元年(989年)の年初も体調がすぐれなかったことが記されています。

この状況を懸念した父の円融上皇が、石清水八幡宮で祈祷するよう藤原実資を遣わしたり、人事に介入したり、その結果、兼家との仲が怪しくなっていきます。

もちろん兼家も、一条天皇が早く崩御してしまっては困ります。

そこで病気の平癒祈願や夢のお告げなどを理由に、藤原氏の氏神である春日大社へ一条天皇の行幸を奏上しました。

春日大社

しかし、そもそも天皇が山城の地を離れることが稀なことで、スンナリとは決まりません(前回は弘仁六年・815年に嵯峨天皇が近江へ行幸)。

行き先が藤原氏の氏神である春日大社ですので、父の円融上皇や、前例を重んじる多くの公家たちとしては当然面白くないわけで。

すったもんだの末に春日大社への行幸が決行され、この問題は収まったようです。

ただし、円融上皇も石清水八幡宮や賀茂神社などに祈祷をさせた上で、自ら石清水八幡宮へ出向いて病気平癒を祈っていますので、水面下でバチバチしていたのでしょうね。

当時10歳の一条天皇にしてみれば「お爺さんも父さんも何してるの……?」という状況。

それだけでなくハレー彗星の通過や台風による被害などの天災が続き、人々は不安に包まれ、そんな中で催された管楽の会で、一条天皇はある才能を見せています。

「笛」です。

当時、円融上皇の院別頭(上皇の家政を取り仕切る人)を務めていた藤原実資は、日記『小右記』の中で

「災害の続いている中で遊びをするのはいかがなものか」

と思っていながらも一条天皇の笛を聞き

「これは天の与え給うたもの」

と絶賛しているほど。

公家の日記というのは、子孫をはじめ“他者が読むこと”が念頭に置かれていますので、多少の忖度が入りがちですが、実資の実直な性格からすると実際に素晴らしい演奏だったのでしょう。

 


定子が入内 今度は道隆が強引に立后

不穏なこともありながら、少しずつ成長していった一条天皇。

正暦元年(990年)1月5日に11歳で元服すると、同年1月25日に藤原道隆の娘・藤原定子が入内します。

藤原定子
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定子が4歳上のいとこという関係で、二人の仲は非常に睦まじかったようです。

『枕草子』にも、その様子がうかがえる段が複数あるので、一条天皇のプライベートな面や少年らしさを知りたい方にはオススメいたします。

この年は、藤原氏の世代交代が起きた年でもありました。

同年5月、重病のため藤原兼家が出家し、それにともなって道隆が関白と摂政を継いだのです。

通常であれば元服した天皇に摂政がつくことはないのですが、一条天皇の年齢が年齢なだけにこうなったのでしょう。

兼家は同年7月に亡くなり、同じ頃に一条天皇も病気になっていました。

そのためか、道隆は定子の立后を急ぎます。

兼家の喪も明けない中、しかも円融上皇の中宮・藤原遵子がいたのですが、道隆は”遵子を皇后にして定子を中宮に立てる”という荒業をやってのけるのです。

藤原道隆
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後に道長がほぼ同じことをしているので、道隆は自分に不利になる前例を作ってしまったことになりますね。

当然、他の貴族たちには大不評で、儀式をサボったり遅刻した者が多々いたそうです。

この道隆の強引なところは、息子たち(藤原伊周藤原隆家)にも受け継がれ、後にこの系統(中関白家)に災いをもたらすことになりますが、それはまだ先の話。

正暦二年(991年)2月、一条天皇の父・円融上皇が薨去すると、本格的に道隆一家の権力が増していきました。

藤原道隆(菊池容斎『前賢故実』)/wikipediaより引用

 


道隆の嫡子・伊周を諌める一条天皇

父の魂が乗り移ったかのごとく権力道を突っ走る藤原道隆。

円融上皇の薨去に伴って落飾していた妹の藤原詮子を史上初の女院とし、政治的な力をつけさせました。

この後の彼女が、道隆の息子で甥の藤原伊周ではなく、弟の道長を推すようになっていくのは、兄(と亡くなった父)への反発もあったのかもしれません。

しかし、一条天皇の母である詮子に権力を持たせたのは失敗とも言えました。

道隆は、その後、持病の飲水病(現代でいう糖尿病)が悪化し、長徳元年(995年)には、明日をも知れぬ重体に陥ってしまいます。

糖尿病は道長も患ったとされ、遺伝的にも影響があったのでしょう。

糖尿病の藤原道長
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ともかく道隆は、自らの意識があるうちに、嫡子の藤原伊周(これちか)に自分の地位を譲ろうとしました。

これを許さなかったのが一条天皇です。

父の威光を笠に着ているような言動が多かった伊周に良い印象を抱いておらず、これを許さなかったのです。

当然、伊周や母方の高階氏は抗議しますが、一条天皇はなかなか許しません。

最終的に、一条天皇は

「政務はまず道隆が目を通してから、伊周も見るように」

と命じます。

この後も伊周はゴネ続けましたが、一条天皇は頑としてはねつけています。16歳になり、自分の意志をはっきり出せるようになっていたのでしょう。

母后である詮子が、伊周ではなく、道兼や道長に関白を継がせていこうとしていたことも理由だと思われます。

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