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【敦康親王】
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相変わらず素行不良な伊周だが
寛弘三年(1006年)8月、彰子のもとで童相撲が催されました。
敦康親王(あつやすしんのう)はこのとき、姉の脩子内親王、さらには妹の媄子内親王に加えて、一条天皇と一緒に見物をしています。
彰子が気遣いをしたのでしょうか。
この時点での彼女は、まだ出産を経験していないため、将来母になったときのことを考えて予行演習だと思ったかもしれません。
しかし残念ながら、敦康親王の妹である媄子内親王は、寛弘五年(1008年)5月25日に幼くして亡くなってしまいます。
そのせいか敦康親王は姉の脩子内親王と生涯仲良くしており、
・一緒に出かけたり
・具合の悪い時に姉の御殿に移ったり
・内裏で火事があったときに同じ車で避難したり
たびたび行動を共にしています。
父には立場上滅多に会えず、母を失い、母方の親戚を頼れなかった二人にとって、お互いが唯一の肉親のように感じていたのかもしれませんね。泣ける……。
彼らにとって数少ない親族である藤原伊周はどうしていたのか?
というと、これが相変わらずしょーもないのです。
・寛弘五年に彰子が産んだ敦成親王(のちの後一条天皇)のお祝いの席で出しゃばって白眼視される
・寛弘六年(1009年)には彰子と敦成親王を呪詛した疑いで出仕を禁じられる
余計なことをして墓穴を掘る悪癖が全く直っていません。
本人よりも敦康親王たちが哀れ……とはいえ、そんな伊周でも寛弘七年(1010年)1月下旬に亡くなってしまうと、敦康親王たちはいよいよ本格的に孤立してしまいます。
このとき敦康親王は数えで12歳。
現代なら小学校の高学年という立場で、大きな不安を抱えていたことでしょう。
伯父・伊周の死に対する敦康親王の記録は残されていませんが、同年2月7日に藤原行成が訪れており、二人で何らかの話をした可能性が考えられます。
というのも、翌8日、行成の日記『権記』に「伊周の葬送が行われたそうだ」という記述があるのです。
完全に私見ですが、もしかすると2月7日に敦康親王が行成を呼び「伯父の葬儀に何かすべきだろうか?」といったことを尋ねたのかもしれません。
むろん、当時の貴族には“穢れ”という制約があります。
しかし、この後の御堂流(道長の家)では、身内が亡くなった際、死穢に構わず家族が参列するのが、貴族社会でもスタンダードになっていきます。
となると、伊周が亡くなった辺りでも
「死穢を恐れるより親族への哀悼を示すべきではないか?」
という観念が生まれ、それが敦康親王の耳に入って「できれば何かしたい」と思った可能性もあるのではないでしょうか。
敦康親王にとって【長徳の変】は見知らぬ出来事ですし、伊周は数少ない肉親です。
しかしその場合、行成は、反対したのでしょう。
彼はかつて愛妻の死穢を避けたことがありますし、その妻を含めて身内の遺骸は散骨しています。
つまり伝統的な価値観と「葬儀は簡易にすべき」という考えだった上に、敦康親王の立場を思えば、伊周の死に弔意を示して貴族社会で目立つのは何ら得がありません。
こればかりは仕方ないですよね。
后腹でも皇太子にはなれない
伊周の死からおよそ半年後の寛弘七年(1010年)7月17日、敦康親王は元服を迎えました。
本来は、前年10月に予定されていたらしいのですが、彰子二回目のお産が迫っていたため、元服の期日をずらすよう一条天皇に命じられたようです。
道長としても反論する理由はなく、吉日を選び直してこの日になったとか。
とはいえ、道長の嫡孫でもある皇子が二人も生まれたことにより、敦康親王の立場はさらに微妙なものとなりました。
確かに、第一皇子であり、三品の位階は与えられています。
「品」というのは皇族の位階(品位)で、臣下が受ける「正◯位」などと似たようなものですが、品位には位階のように正・従がなく、一品~四品までという点が違います。
『源氏物語』後半に登場する光源氏の正妻・女三の宮の格を上げるため、二品(にほん)の地位が与えられるシーンがあり、なんとなく見覚えがある方もおられるでしょうか。
さらに敦康親王は、名誉職として太宰府の長官である大宰帥(だざいのすい)も与えられています。
そのため一時期「帥宮(そちのみや)」とも呼ばれました。
大宰帥は、平安時代になってから親王が任官されていて、現地へ行くことはありません。いわゆる名誉職ですね。
さらに寛弘八年(1011年)には父・一条天皇の体調が悪化し、居貞親王(三条天皇)への譲位が迫りました。
この緊張の瞬間。
本来ならば、敦康親王が新たな皇太子になるところです。
しかし皇太子には道長の外孫である敦成親王(あつひら)が立ちました。敦康親王は押し出される形で一品と准三宮(じゅさんぐう)を与えられています。
一品も准三宮も非常に高い地位ですので、表面上は悪くない立場ですが、この人事を決めた道長を相手に、誰も反論できません。
彰子としては一条天皇の意向を重んじ、敦康親王の立場を守ろうと努めています。
それでも父には逆らいきれません。
彼女が後に国母として宮廷に強い影響力を持つのは、このときの苦い経験が頭に残っていたからでしょうか。
いったい敦康親王はどうなってしまうのか……。
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