北条高時

北条高時/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

鎌倉幕府の滅亡!北条高時の最期は「腹切りやぐら」で一族ほとんど自害へ

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東北で安藤氏の乱が勃発

一方で、物騒な出来事もありました。

元亨二年(1322年)頃に【安藤氏の乱】あるいは【蝦夷大乱】と呼ばれる戦が東北で起きていたのです。

遡るほど半世紀近く前の文永五年(1268年)、津軽の地で代官の安藤氏がブッコロされました。

年号を見てお察しの通り、日本が元の驚異に晒されていた頃。やはり記録が乏しく詳細は不明ながら、北方へも元から何らかの圧迫が加えてられていたようです。

実際、樺太あたりでは、元軍の襲撃を受けたアイヌもいたとか。

しかし、蝦夷(えぞ)と呼ばれる東北~北海道の人々には、鎌倉幕府の事情や元=モンゴルの驚異についての情報などほとんどありません。

それなのに、代官が「なんかヤベーことになりそうだから、戦のために税をもっと払え!」と言われたそうで。

蝦夷の人々がブチ切れ、安藤氏を襲撃した……というところのようです。

まぁ、そりゃ、いきなり税を要求されてもワケワカメですしね。

また、文保二年(1318年)あたりには、代官である安藤又太郎と、いとこの安藤五郎三郎の対立が激化、さらに出羽で蝦夷が蜂起するという、上も下もドッタンバッタン大騒ぎ(マイルドな表現)状態になりました。

 

病気を理由に出家って……

安藤氏の内紛については、幕府もほうっておくわけに行かず、北条氏によって裁きが下されることになります。

この時点で、実権を握っていたのは御内人筆頭の長崎高資。

彼が真面目に仕事をしてくれればよかったのですけれども、なんと高資は、又太郎と五郎三郎の両方から賄賂を受け取るというウルトラCの手腕(笑えない)を披露してくれました。

当然のことながら余計に話がこじれ、蝦夷の蜂起は勢いを増すばかり。代官をすげ替えても自体は収まらず、何年も戦が続きました。

幕府から宇都宮高貞などが差し向けられ、事がやっと収まったのは、実に嘉暦三年(1328年)のこと。

鎌倉幕府が倒れる、わずか五年前です。

史料が少ないこともあって、この時代の蝦夷のことはほとんど語られません。

しかし、そもそも幕府とは、東国を支配する名前を冠した征夷大将軍がトップの組織です。

それが蝦夷の人々や彼らの住まう地域を治められない……というのは、かなりマズイ事態のはずでした。

公家の日記に、乱のことを記したものがなさそうなので、上方にはあまり伝わっていなかったのかもしれません。

が、数代に渡る頻繁な執権職交代とやる気のなさ、御内人の専横ぶりは目に余ったことでしょう。

しかもです。
肝心の北条高時が、病気を理由に出家してしまっていました。

それが嘉暦元年(1326年)。1322年頃に始まった蝦夷の乱が、まだまだ治まる前のことです。

ついでにいうと、京都では大覚寺統・持明院統のどちらが皇位を継ぐかで揉めに揉め、幕府にも意見を尋ねる使者が来ていた頃です。

このタイミングでの出家となると、

「ワタシに乱や皇位継承問題をまとめる力はありましぇーん! 責任を取るつもりも(ry」

と言っているも同然。

小さい頃から病がちではあったようですが、ここまでの間に大病をしたという記録もないので、風邪をひきやすい・こじらせやすいタイプみたいな感じだったんですかね。

 

突然の出家だったため、定番のお家騒動起きる

さらに厄介なことも起きています。

高時が23歳の若さで出家してしまったため、後継者を巡って騒動が起こるのです。

長崎氏が高時の息子・北条邦時を推し、安達氏は高時の弟・北条泰家を推挙。どちらもすぐには引っ込まず、結果【嘉暦の騒動】というお家騒動に発展しました。

高時の息子・邦時は、この時点でまだ生後一年にも満たない乳幼児だったんですけどね。

清州会議で豊臣秀吉が担ぎ上げたときの三法師織田秀信)が数えで3才ですから、それよりも若い。

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安達氏のプッシュした泰家は、生年は不明ながら、少なくとも20代にはなっていたと思われます。

さすがに長崎氏も邦時をすぐ執権にしろとはいわず、連署を務めていた北条貞顕を中継ぎとして推していました。

彼は、北条実時(北条時宗の師)の息子であり、連署=執権の女房役を務めていたため、実務能力なども考えると最適な人物と言えるかもしれません。

そして貞顕が中継ぎの十五代執権になることが決まったのですが、嫡流を自認する泰家はこれに不満タラタラ。

「あんな傍流のヤツに執権職を奪われるとは一生の恥! こうなったら出家してやる!!」(超訳)

そうして頭を丸めてしまうのです。

しかも、側の人々が続いたものですから、さあ大変……。

一時は「泰家は腹の虫が収まらず、貞顕を(ピー)しようとしている」という噂まで流れたといいます。

「気に入らないからブッコロス」って、それ一番やっちゃいけないパターンやで(というか、鎌倉時代にはこれが何度も……)。

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