伊東祐親

伊東祐親の像(物見塚公園)

源平・鎌倉・室町

史実の伊東祐親はどんな武将?孫を殺した?鎌倉殿の13人浅野和之

史上初の武家政権となった鎌倉幕府は、謀略と殺戮の繰り返し。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』メンバーのうち、多くが「乱」や「変」に散っていきますが、その中で最も悲惨な終わりを迎えたのが伊東祐親(すけちか)一族かもしれません。

なんせ、家を守るため孫を殺しながら、その孫を生んだ娘には入水自殺され、さらには戦に敗れて自ら死を選ぶと、その息子も父に従って散っていったのです。

何が哀しいって、この祐親一族は頼朝との繋がりが深く、しかも、主人公・北条義時にとっての祖父でもあったことでしょう。

伊東祐親

娘-北条時政

北条義時

つまり、少し違う道を選ぶだけで、勝者の中心にもなれた一族だったのです。

それがなぜ?

大河ドラマ序盤で注目されそうな伊東祐親、史実の生涯を追ってみましょう。

 

伊豆の豪族・伊東祐親

伊東祐親の父は、伊豆の豪族・伊東祐家で、母は不明。

残念ながら祐親の生年や若い頃の記録はほとんど残っていません。

この時代にはよくあることで、誕生年を推定しますと、1120年代後半~1130年代前半あたりの生まれでしょうか。

祐親の長男・河津祐泰が久安二年 (1146年)生まれという説があり、仮にこのときの祐親を18歳頃だと仮定すると、大まかに大治三年(1128年)前後の生まれという流れです。

壮年期の逸話としては、伊東家の相続に関する動向が伝わっています。

このころ伊東家は、当主だった父の祐家が亡くなり、存命だった祐家の父・伊東家継(祐親の祖父)がこう決めます。

「(もう一人の息子である)祐継が継げば良い」

祐親にとっては“おじ”に当たる伊東祐継に家督が渡ったんですね。

祖父・伊東家継

父・伊東祐家-おじ・伊東祐継

本人・伊東祐親

これが祐親にとっては納得ならない話であり、「なぜ自分が父の跡を継げないのだ!」と憤り、たびたび訴訟を起こす程でした。

恨みはかなり深かったらしく、伊東祐継が亡くなると、その子・伊東祐経の所領を奪ったとされているほど。

実は祐親の娘が祐経に嫁いでいたのですが、このとき離縁させています。

土地と妻を両方奪われた祐経は、当然のことながら大激怒。

安元二年(1176年)10月、郎党に命じ、狩りに出かけていた祐親を襲撃させました。誰も彼もいきなり武力に訴えすぎで、いかにも鎌倉武士という感じですね。

祐親は無事だったものの、嫡子・伊東祐泰が矢を受けて亡くなってしまいました。

 

曾我兄弟の祖父でもあり

実は、伊東祐親の息子である伊東祐泰も、この時代で重要な人物であります。

というのも、祐泰の息子たち、つまり祐親の孫が日本三大敵討ち【曾我兄弟の仇討ち】で有名な兄弟だったのです。

この仇討ちは建久四年(1193年)、つまり頼朝政権が始まってすぐの出来事であり、少なからず鎌倉幕府に影響を与えています。

北条義時から見ると、母方の実家で起きた事件ということになりますね。

詳細は以下の記事に譲り、伊東祐親の話に戻りますと

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当初、彼は平家に接近し、伊豆で代官のような立ち位置を確保していました。

平家との間に特段の逸話はないようですが、【平治の乱】の後、伊豆へ流刑となった源頼朝の監視を命じられていますので、信頼は割と厚かったのでしょう。

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しかし、この時代の地方武士には、地元を空けなければならない負担がありました。

【京都大番役】です。

文字通り、地方の武士が京都に上って、都の警護を務めるという職。

ただでさえ交通手段が乏しい時代、かつ長期に渡るため「大番役に行っている間に地元が大変なことになっていた」ということもままありました。

伊東家もそのご多分に漏れず、祐親が上方で役目を果たしている間に、大事件が起こります。

監視していたはずの源頼朝が、祐親の三女・八重姫のもとに通い、なんと息子(千鶴丸)までもうけてしまったのです。

八重姫は『鎌倉殿の13人』で新垣結衣さんが演じることで注目度が高まっている女性。

相手の頼朝が大泉洋さんですから、ドラマ序盤でなかなか話題になりそうですが、史実における伊東祐親にとってはトンデモナイ話でした。

 

家を守るため孫の千鶴丸を川に……

帰国後、伊東祐親は大激怒!

伊東家の人々が誰一人知らなかったというのも考えにくいですが、祐親の怒りようからして、知らせた者がいなかったのでしょう。

上方で育った頼朝としては、普通に妻問い婚をしただけのつもりだったかもしれません。

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しかし、当時の立場は罪人。

見張り役の家を知らなかったはずはありませんから、八重姫が伊東家の娘であったことを知った上で、堂々と通っていたことになります。大した度胸と言わざるをえません。

ただし、当時の祐親からすれば、頼朝と縁続きになるなど論外のこと。

平家への叛意と受け取られ、家ごと潰されてもおかしくありません。

やっと手に入れた家を、罪人の身勝手で滅ぼされてはたまらないでしょう。

となれば、疑いをかけられる要因を徹底的に排除せねばなりません。

かくして祐親は安元元年(1175年)9月、頼朝と八重姫の間に生まれた男子・千鶴丸を、松川に沈めて殺してしまいました。

残酷なようですが、家を守るためには仕方のない処断だったのです。

なんせ頼朝も殺そうとしたぐらいで、その件は祐親の次男・伊東祐清により危険が知らされ、頼朝は難を逃れています。

ではなぜ、息子の祐清が父に反抗するような動きをしたのか?

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