天才軍略家義経

自滅的な最期を迎える源義経と織田信長/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

軍略と殺戮の天才・義経~世界の軍略家と比較して浮かび上がる実像

4月24日に放送された『鎌倉殿の13人』第16回「伝説の幕開け」で、ついに源義経の軍略の才がクローズアップされました。

義経は、知恵者・梶原景時の考えた戦術を鼻で笑いながら「アホか」と一刀両断。

敵をあざむく作戦を次から次へと披露し、自ら実行に移すと、散々侮辱された景時ですら思わずこう漏らしてしまいます。

「戦神……八幡大菩薩の化身のようだ……」

景時は、義経のことをまるで“人ではない何か”と感じている雰囲気さえありましたが、今後、平家との戦いが佳境に入るにつれ、その傾向は過激化していくはずです。

合戦のことならオレに任せておけ。

要は、敵を倒せばいいんだろ。

お安い御用……と言わんばかりに戦場を突き進んでいく義経。

平家にとっては、人を人とも思わない殺戮の悪魔とでも申しましょうか。

味方にとっては頼もしい天才……と言いたいところですが、周囲の武士たちも手放しで喜ぶことはできなくなっていくでしょう。

義経は公式サイトにも「性格に難あり」と記されるほど常識が通じない人物像であり、史実を見ても、とにかく厄介な存在だったりします。

近年の歴史研究では織田信長も同様の評価が与えられることがあり、凄まじい軍略の才能がありながら、一方で信頼していた家臣に裏切られるのも「自業自得だよね」と考えられたりします。

しかも、この手の天才軍略家たちは、義経や信長だけでなく、世界史レベルで見ても確かに存在してきました。

そして彼らにはある共通点があるのですが、それが何なのか。

古今東西に目を向けながら、天才軍略家・義経の実像に迫ってみたいと思います。

 

戦争の天才は大量殺戮を得意とする

近代――ナポレオン戦争を経て、ヨーロッパ各国では徴兵制度が有効であると気付きました。

貴族のみならず、市民も兵士にすればよい。そう考えたのです。

かくして日本も含めた世界各国で、市民を兵士にするようになったのですが、いざ訓練を始めると、ある問題につきあたりました。

兵士は簡単に敵を撃てない。目を逸らしてしまう。あるいは閉じてしまう。

いざ戦場から家に帰っても、帰還兵が精神を病んでしまう。

臆病だからなのか?

と思ったら、どうもそうではないようだ。

人間は殺人に対して大きな抵抗感がある。

そんな結論に達します。

しかし、さらに時代がくだると、全人類が必ずしもそうではないことも理解され始めます。

ごく少数ながら、人を殺すことにためらいがなく、戦争に向いている者がいる。

軍人家系とかそういう環境ではなく、先天性の要素もあるようだ。

戦争の行方を左右するのは、そんな心の作用もあるのではないか?

そんな風に考え始めたのです。

むろん、戦闘の勝敗には、武器のスペックが大きく影響します。それは間違いではありません。

しかし、同じ武器同士ならばどうか?

如何にして効率的に敵を殺戮するか――そんな心理が左右するという結論に達します。

要は躊躇なく大量殺人をできる者であり、歴史上には、その才能が抜きん出た人物が現れました。

味方からは英雄と称えられ、敵からは悪魔と恐れられる。

一体どんな人物がいたのか?

源義経もその一人と考えられますが、せっかくですので世界レベルで見てみましょう。

 

孫子:兵は詭道(きどう)なり

以前、古代ギリシャ研究家である藤村シシン先生と『三国志』に詳しい金田淳子さんが語り合っていました。

中国の合戦は不意打ちや謀略をするのに対し、古代ギリシャはそうではない。

古代ギリシャ人が善良なのか、高潔なのか。

そして古代中国人が奸悪なのか?

むろん、そんな単純な結論ではありません。

「宋襄(そうじょう)の仁」という言葉があります。

春秋時代の紀元前638年に【泓水の戦い(おうすいのたたかい)】がありました。

楚軍が川を渡り切らないところを攻撃すべき――そう進言された宋の襄公が、卑劣であるとしてその作戦を採用しなかったのです。

そのため「宋襄の仁」は無用な情け、無意味な仁義を意味する言葉となりました。

しかし、本当にそれは意味のないことだったのか?

当時は戦争の儀礼として「軍令」があったとされています。スポーツにおけるルールのようなものです。

そう考えると襄公は「ドーピングはよくない」と考えたと言える。

ルールを無視し、負傷兵、戦意のない者を襲い、敬意も何もない状態になれば野獣同士の殺し合いとなり、後世にまで大きな禍根を残しかねません。

当時は、そうした礼儀があったのです。

しかし、それが破れた時代があります。

兵は詭道(きどう)なり――戦争とは、相手を騙すものだ

そう言い切った『孫子』です。

この書物は紀元前5世紀の中頃から紀元前4世紀の中頃に成立したと推察。

著者の孫武は、自説の正しさを証明するため、呉王・闔閭(こうりょ)の女官たちを調練し、彼女らが「従わないから」として、指揮官役の寵姫を斬り捨てたという逸話があるほどです。

孫子をドラマにする際、色々と脚色され、扱いが極めて難しい逸話であり、言うことを聞かせるには効率的ですが、外道といえばあまりに外道。

戦争の天才とは「思い切った残虐さを発揮する」と証明する内容でもあります。

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曹操:乱世の奸雄

後漢末期の乱世の最中、多忙な曹操が常に書物を手放さなかったと、子の曹丕が回想しています。

常に勝利を渇望していた曹操は、ありとあらゆる兵法書を収集。

中でも最も気に入ったのが『孫子』であり、時間を見ては注釈を入れてました。

そうして出来上がったのが『魏武注孫子』です。

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当時は、竹簡と木簡だけでなく、紙が普及し、情報量が増えていく時代です。

曹操は文学の発展に力を入れ、文章を通して思考を整理。そうして自分なりに整理した戦術は極めて冴えていました。

部下たちは、曹操の指示書に従って戦っていたのです。

曹操が『孫子』を読み、地形や条件を分析した命令書のもとで戦えば、とにかく強かった。

諸葛亮の『出師表』には、諸葛亮も曹操の軍略にはかなわないとみなしていたことが記されています。

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曹操の戦術を貶める記述は、後世のフィクションに登場。

油断からなのか、曹操自身が孫子のセオリーを忘れ、失敗することがあります。

孫子が「冬の戦争は避ける」ように記していたにも関わらず、【赤壁の戦い】を起こし、大敗している。

自分を見にきた群衆に対し、曹操はこう返しました。

俺は見た目がすごいわけじゃない。頭の中身がちょっと違う――。

確かにその通りでしょう。彼の頭の中には、他の人とは異なる何かが詰まっていたのです。

しかしそれは時に災厄をもたらしました。

徐州での大殺戮、【官渡の戦い】後の敵兵処刑、荀彧を死に追いやったこと……自分を怒らせたもの、意にそぐわぬものへの処断は苛烈でした。

優れた戦術と同時に残酷さが、曹操の頭の中には詰まっていました。

 

武田信玄:風林火山

孫子の教えを使いこなした人物筆頭として、武田信玄があげられます。

宋代には「宋版」と呼ばれる印刷術が定着。

書籍の流通が増え、明から甲斐国まで『孫子』が到達したのでしょう。

『孫子』を読んで、どこがどう優れているのかわかったからこそ、信玄は使いこなせた。

この時代となれば、他にも『孫子』を手に入れた大名はいたはずです。

しかし、旗にまで記すとなれば思い入れが違う。

戦場で頭に血が上りそうになっても、旗を見れば、リマインダーとしての役割を果たせたことでしょう。

信玄のもとで兵法を学んだ武田の将たちが、旗により孫子の極意を思い出す。地形を見るだけでどこに布陣をすればよいのか即座に判断できる!

そうなれば、武田軍団が強くなるのは当然のことと言えます。

甲斐の地形は険しく、農業生産性が高い土地ではありません。海にも接していない。

地理条件では不利だらけの武田家を、あそこまで強くしたものは、信玄の頭の中に詰まっていたのでしょう。

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これが時代がくだり、甲州流軍学となると怪しさを帯びてきます。

なんだか神秘的で凄い兵法があったと想像され、荒唐無稽な装飾がなされるものです。

曹操ではなく諸葛亮こそ兵法の達人だと思いたい――そんな中国の人々は、道教と組み合わせ、妖術めいた兵法を、フィクションにおいて諸葛亮に使わせました。

そうした後世のつけたしを削れば、そこにあるのは『孫子』はじめ兵法をどれだけ深く読み込んだかと言えるでしょう。

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