南都焼討と平重衡

平重衡/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

南都焼討を実行した平重衡~なぜ清盛は東大寺や興福寺を潰した?

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第11回放送でも描かれた南都焼討――。

平清盛の命により平重衡ら平家軍が、東大寺や興福寺など、南都(奈良)の寺社仏閣を焼き払いました。

文治元年(1185年)6月23日は、その重衡が亡くなった日ですが、それにしてもなぜ清盛はこんな暴挙を命じたのか?

そもそもは平家政権に刃向かったとして、寺社勢力が討たれたこの一件。

史実においても「平家の横暴はもはや許せない!」という声が高まりました。

南都焼討と平重衡に注目しながら、前後の流れも確認してみましょう。

 

福原遷都を優先させるも

治承3年(1179年)11月、平清盛は後白河法皇を幽閉し、関白・藤原基房を配流しました。

【治承三年の政変】と呼ばれる事件です。

これに対し、僧兵勢力を擁する興福寺が強く反発しました。

そして後白河法皇の復権をめざし、法皇の第三皇子・以仁王が挙兵すると、寺社勢力も呼応しています。

平家としては、当然のことながら興福寺らに不満を募らせましたが、若干の余裕もあったのかもしれません。

清盛は政治的な思惑である【福原遷都】を優先しています。

新しく福原に都が定まれば、寺社勢力もおとなしくなる、という楽観もあったのでしょう。

しかし、この遷都が失敗し、京都へ戻るとなると、またも問題が再燃。

加えて、関東で挙兵した源頼朝率いる勢力が力を増していきました。

事ここに至れば、頼朝らの反抗勢力を、もはや見逃すわけにはいきません。

平家は、京都周辺の近江源氏と共に、南都の寺社勢力も追討対象に含めたのです。

 

南都焼討

迎えた治承4年(1180年)12月28日――。

平清盛の五男・平重衡に率いられた平家軍が、山城・河内の二方面から南都に攻め入り、興福寺と東大寺に襲い掛かりました。

『平家物語』によれば、4万の軍勢とされますが、おそらくやかなり過大な数字でしょう。

同物語では、常に数字が盛られる傾向があり、このときも4万の数分の一か、あるいは十分の一か……。

いずれにせよ、一定の軍勢でもって襲いかかり、南都は炎に包まれます。

襲われた二寺院の主要な堂舎は全焼しました。ざっと被害を挙げておきますと……。

◆南都焼討における二大寺院の損害

興福寺:二基の塔、金堂、講堂、南円堂。北円堂以下38箇所焼失

東大寺:止倉院、二月堂等を除く大仏殿以下の大半の堂舎が焼失、大仏焼失

この他に、敷地内へ避難していた人々は焼死させられ、仏像や仏典も灰塵(かいじん)に帰してゆきます。

文化財の損耗とともに、寺にいた僧兵(悪僧)勢力も壊滅しました。

さらに清盛は、両寺の公請(くじょう)を禁じます。

公請とは、朝廷に招かれての法会(ほうえ)や講義のことであり、これを禁じるということは、寺と朝廷のつながりを絶つということ。

さらに、寺の所職・所領をも奪い取ります。

古代より一定の政治力を有していた大寺院の権力を一切奪う――そんな厳しい措置でした。

 

平家に仏罰は下されたのか?

こんなことをしたのであれば、仏罰がくだされるであろう!

当時の人々がそう思わないわけがありません。

歳が明けて間もない2月4日、平清盛は尋常ではない高熱にうかされ、急死しました。

すかさず、

・平家に仏罰があたった

・南都焼討の祟りだ

と喧伝されました。

清盛が高熱に苦しむ様は『平家物語』でも、なかなかこっ酷く描かれるほどで、その描写を少し見てみましょう。

・病室までもが熱気に満ちてしまう

・あまりに苦しむから清盛を水風呂に入れた

・たちどころに水が沸騰し、蒸発してしまう!

こうした激しい描写は、南都焼討に対する因果応報論が込められてのことでしょう。

むろん、当時の日記でも高熱にうなされ亡くなったとありますので、熱病関連による死去であることは間違いなさそうです。

となれば、実行犯である清盛の四男・平重衡も、惨い目に遭いますよね?

しかし……。

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