藤原兼子

絵・小久ヒロ

源平・鎌倉・室町

史実の藤原兼子は政子と対峙していた?鎌倉殿の13人シルビア・グラブ

流罪となった源頼朝を支援し、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも重要人物として登場した比企尼。

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本作は“乳母”の存在が、とても印象的に描かれています。

むろんフィクションならではの創作でもなく、当時の権力者たちは多くの女性に支えられながら出世の階段を昇ってゆきました。

京都でその頂点にいたのが後鳥羽上皇

そして、その彼を支えてきたのが乳母の藤原兼子(ふじわらのけんし)です。

実は姉の藤原範子も後鳥羽上皇の乳母でしたが、『鎌倉殿の13人』では兼子だけが登場し、シルビア・グラブさんが演じられています。

なかなかアクの強い女性像――史実では一体どんな女性だったのか?

その生涯を振り返ってみましょう。

なお、彼女の呼び名は卿局(きょうのつぼね)はじめ複数あり、位階の昇進に応じて卿三位、卿二位と呼ばれました。

本稿は「藤原兼子」で統一します。

 

叔父・藤原範季のもとで育つ

藤原兼子は久寿2年(1155年)、父・藤原範兼のもとに生誕。

同年の生まれには、安徳天皇の母である平徳子もいます。

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つまり兼子は、平家の台頭と転落、鎌倉幕府ができる過程を見つめた人生といえます。

そんな彼女が数えで11才となった永万元年(1165年)、父の範兼を亡くし、叔父・範季のもとで育てられました。

この範季、源義朝の六男にあたる源範頼を引き取って育てていました。

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兼子が、こうした縁から範頼を知っていてもおかしくはありません。

範頼は久安6年(1150年)生まれですので、5歳年上の兄のような存在といえましょうか。

範頼が源氏の武将として活躍し、平家を討ち滅ぼす様子を兼子はどう感じていたのか。

ドラマの中で触れられるかどうか、楽しみですね。

 

四の宮が運命の即位

治承4年(1180年)に以仁王と源頼政が挙兵し、治承・寿永の乱(源平合戦)が開始。

二人の蜂起が失敗に終わったその二ヶ月後、高倉天皇に第四子が生まれました。

母は坊門殖子(藤原あるいは七条院とも)で、後白河院の孫でもありますが、平清盛の外孫である異母兄(安徳天皇)と比べて地味な存在だった四の宮は藤原範季のもとに預けられます。

範頼はじめ、有力者子息のスカウトこそが、範季の生き甲斐だったのかもしれません。

かくして四の宮は、藤原範子と藤原兼子の姉妹に育てられることとなりました。

姉妹を乳母とした四の宮、その兄たちは乱世に巻き込まれてゆきます。

異母兄の安徳天皇は平家によって都から連れ去られ、【壇ノ浦の戦い】で水に飛び込み崩御。

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四の宮の同母兄である守貞親王(後高倉院)も平家のもとで育てられ、都落ちの際も同行し、平家滅亡後は出家させられました。

天皇、あるいはその皇子だったとしても不幸な末路を辿ってしまう混乱の最中、まだ幼い三宮と四の宮も天皇の候補に挙げられます。

木曽義仲までもが北陸宮(以仁王の子)を担ぎ出し、天皇の人選に口出し始めると、混乱はいよいよ極みとなり、もはや猶予無し――そんな状況のもと、四の宮が選ばれました。

後鳥羽天皇の誕生です。

しかし、この人選も経緯はハッキリしていません。

何しろ【三種の神器】もないままに行われた即位です。

後白河院の面接の結果とか、後白河院の寵妃・丹波局の夢占いとか、諸説あって特定できないながら、ともかく藤原範季一門にとっては大きな幸運。

後鳥羽天皇の即位は、その後の兼子や周囲の者たちの人生を大きく変えます。

例えば、兼子の姉・範子には僧侶の夫・能円がいました。

異父兄姉に平時子・平時忠を持つこの能円は、平家と運命を共にして流罪に。

残された能円の娘・在子を兼子が引き取って暮らしていると、目を留めたのが土御門通親であり、在子を自らの養女とすると、後の後鳥羽天皇の妃となります……って、ややこしいですね。

以下に整理しておきましょう。

藤原範季:四の宮(後鳥羽院)や源範頼を育てる

藤原範子と兼子:藤原範季の姪

源在子:藤原範子の姪、後鳥羽院の妃

土御門通親:在子の義父であり、後鳥羽天皇の義父

このように後鳥羽天皇は、即位と同時に彼を支える人材が多く揃っていたとも言えます。

後鳥羽天皇にとって母方である「坊門」の名も重要でした。

 

次の天皇となる宮の大叔母として

ドラマを思い出してください。

『鎌倉殿の13人』では、後鳥羽天皇に入内しようとする源頼朝と北条政子の長女・大姫の姿も印象的に描かれていました。

あの入内工作の最中、既に後鳥羽天皇には妊娠中の妃がいると語られます。

ざっと以下の通り。

九条任子:九条兼実の娘。女子を産む

源在子:土御門通親の娘(養女)。藤原兼子の姉・範子の娘。土御門天皇の母

藤原重子:藤原範季の娘。順徳天皇の母

天皇の寵愛を受けて男児を産む――それがどれだけ大変なことか、と、大姫と母の北条政子はプレッシャーをかけられましたが、実際にその通り、甘くありません。

建久6年(1195年)に大姫は上洛を果たすものの、2年後、健康を害して夭折してしまいました。

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その様子を兼子はどのように見ていたのでしょう……。

九条兼実も孫は内親王のみで天皇の外祖父になれず、結局、後鳥羽院の後宮では、土御門通親の勝利となったのです。

次の天皇となる宮の大叔母として、兼子も勝者の側にいました。

建久9年(1198年)、後鳥羽天皇が退位します。

土御門通親が、まだ若い後鳥羽天皇に譲位を勧めた結果であり、天皇の外祖父として権力を盤石にしたい思惑がありました。

本来、摂関家の外戚政治を削ぐ目的のあった院政は、かえって外戚の通親に利用されたのです。

しかし、退位後の後鳥羽院は上皇として院政を敷く気に満ちており、権力を手放す気はありません。

比例して、後鳥羽院の信頼厚い兼子が、ますます力を見せるようになります。

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