室町時代

源平・鎌倉・室町

室町時代を一気読み!南北朝~安土桃山時代のカオスな中世が面白い

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満を持して義満さん登場!

正平十八年(1363年)、足利義詮がやっと京都に落ち着けるようになり、この前後から制度整備に取り掛かりました。

と、思ったのも束の間。

わずか四年で病気により急死してしまい、今度は、その息子・足利義満が10歳で三代将軍に就任します。

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この混乱の直後に幼い将軍というと内紛まみれのイヤな予感しかしませんが、皆さんご存じの通り、彼の時代が室町幕府の最盛期にあたるのがわからないところです。

義満は父・義詮の家臣たちに守り立てられて育ちました。

中でも細川頼之という人は、義満の時代に将軍の権威を高めるため、わざと皆の前で恥をかく行動に出たほどの忠臣です。

名字からお察しの通り、頼之は、後述する【応仁の乱】発端の一人・細川勝元のご先祖様にあたります。

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正確に言うと、勝元のご先祖様が頼之の弟なので、直系ではないんですけれども。

南北朝の問題を解決したのも義満の時代です。

義満はまず、京都の警察機能を幕府に一元化。

公家や寺社との折衝も行いつつ、近所の奈良だけでなく富士山や厳島神社まで出かけて権威の誇示に務めました。

それらの集大成として南北朝合一ができたのです。

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また、義満は【勘合貿易】を始め、中国(明王朝)との交易を活発にしました。

この時代、大陸の沿岸では【倭寇】という海賊が暴れまわっており、まともな貿易がしにくくなっていました。

しかもこの暴れ方というのが単純な暴力だけでなく、現代でいうところの詐欺に近いこともやっていたので始末が悪い。

「倭」は中国側から見て日本や日本人を指しますが、中には少なからず中国人もいたとか。まあ、元々外見に大きな差はないですし、現代でも欧米の方からすると見分けがつきにくいですからね。

ここでは「倭の方向からやってくる海賊」くらいの意味が近いかと思われます。

その解決に使われた勘合符です。

日本側と中国側で予め割札を作っておき、それを照合することで正規の取引を行うようになったもので【勘合貿易】と呼ばれますね。

こうして幕府の統率を確立させ、また外交問題も解決した義満は、その財力と権力を元に【金閣寺】を建立。

正式名称は「鹿苑寺金閣」です。

 

足利義持「俺は親父とは違うぞ」というアピール

しかし、一代の間にこれだけ強大な権力を持つと、次=息子の代に反発を招きがちです。

そのための罠なのか、あるいは単なるおべっかなのか。

義満の死後に朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号が贈られたことがありました。

四代将軍となった足利義持はこれを固辞しているため、この称号はほとんど使われていません。

義満と義持の親子仲が悪かったからというのもあります。

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もしこれを受け入れていたら、どこから

「皇族でもないのになんて不遜な! そんな将軍家についていく義理はない!」

みたいな不満が噴出して、一騒動起きていたかもしれませんね。もちろん義持がそこまで計算していたかどうかはわかりませんが。

義持も若いうちは、父の遺臣に支えられて政治を行いました。

応永17年(1410年)からは独自の政策を打ち出していきます。

といっても、それまで全く意見を出さなかったわけではなく、金閣以外の鹿苑寺の建物を壊したりして、「俺は親父とは違うぞ」というアピールはしていました。

それでいて乱暴と思われることはしていないので、父譲りのバランス感覚を持っていたようですね。

問題は、六代より後の将軍です。

 

クジ引きで将軍を決定とは

五代将軍になった足利義持の息子・足利義量(よしかず)。

彼が子供のないまま、しかも父・義持より先に亡くなってしまったため、六代将軍の座をどうするかという大問題が起きました。

どの幕府でも四~六代将軍のあたりで継承問題が起きるのはなんででしょうね。

その辺になると気が緩むもんでしょうか。

仕方がないので、足利氏の血縁者の中から公正に決めるべく、石清水八幡宮でくじを引くことになりました。

現代から見ると「テキトーかっ!」とツッコミたくなってしまいますが、この時代のくじは「神意をうかがう手段」だったので、正当な方法です。

そして義満の五男で義持の同母弟・足利義教が選ばれました。

※クジ引きというカタチ(神託)にしただけで、最初から決まっていたという見方も有力です

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彼は十代のうちに出家し、この頃まで比叡山で天台座主(天台宗のトップ)を務めていたため、政治の「いろは」どころか「い」の字も知りません。

そのため、何度も将軍就任を辞退します。

しかし、周囲に推されて結局承諾せざるをえず、還俗して名前を改め、髪が伸びるのを待って正式に将軍の座に就きました。

足利義教は、義持の時代に停止されていた義満の政策を復活させたり、自ら富士山へ行ったりと、わかりやすく義満に傾倒します。

そこまではまぁいいのです。

問題は、古巣である延暦寺を完全に幕府の傘下に置こうとして「物理的解決」に挑み、山ごと焼いた――という凄まじいことをしています。

一度仏門に入った人とは思えない乱暴ぶりですが、比叡山延暦寺も平安時代から「この神輿が目に入らぬか!!」という感じで好き勝手に振る舞っていたのでどっちもどっちですかね。

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関東では鎌倉公方の火種がくすぶり……

同時にこの頃は、関東でも火種がくすぶっていました。

鎌倉公方です。

室町幕府における地方統治の一環として設置された「鎌倉公方」は、もともと尊氏の四男・基氏の子孫たちが世襲することになっていました。

この時代には基氏のひ孫・足利持氏が鎌倉公方の職に就いていたのですけれども……。

持氏が、六代将軍を決めるときに候補者から漏れていたことを理由として、義教のことを恨み続けていたのです。

将軍に限らず、世襲制のエライ役職が血筋の近い順に受け継がれていくのは当然のことなのですけれども、持氏は義持の猶子(養子)になっていたため「六代将軍は俺に決まってる!」と思い込んでいたのだそうです。

そのため、義教の将軍就任時にお祝いも送らなかったとか……って、子供かっ!

鎌倉公方の補佐役である関東管領・上杉憲実はこの状態を懸念し、なんとか義教と持氏の仲を取り持とうと努力していました。

しかし持氏は、関東管領は鎌倉公方ではなく将軍から任命されるということもあってか、憲実の献言を突っぱね続けます。

この時点で「忠臣の言うことを聞かないとロクなことにならない」というテンプレに入りつつありますね。

その後、持氏が憲実をブッコロそうとしたため、憲実は自分が身を引いて事を収めようとしたのですが、これも失敗。

義教はこの経緯を聞いて、

「たぶん憲実は『持氏は何の罪もない私を討とうとしたんです! 成敗してください!』と考えたであろう。近所の守護に憲実の味方をするよう命じておこう」

と思いたち、実行に移していました。

残念ながら、これがかなりの早合点でした。

上杉憲実は、儒教に深く傾倒していたため持氏討伐を望まず、逆に持氏を許してくれるよう義教に頼んでいます……って、こちらは聖人かっ!

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