日宋貿易

宋銭と平清盛/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

銭を輸入すればボロ儲けで清盛ニヤニヤ~日宋貿易が鎌倉に与えた影響とは?

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日宋貿易
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鎌倉仏教

鎌倉時代は仏教が盛んになりました。

多くの寺社と仏像が作られますが、仏像の制作や仏事には白檀が欠かせない、そして香木は輸入しなければならない。

そもそも仏典も、インドから伝わったものを中国で翻訳し、それが日本に伝わりました。

そうした仏典を学んだからこそ、鎌倉仏教が発展してゆくのです。

質素倹約を好み、武芸を鍛錬する質実剛健――のみならず王朝貴族たちのものとされてきた漢籍由来の教養を、鎌倉の武士たちも身につけつつありました。

智勇兼備の新たな理想像は、かくしてできあがってゆきます。

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そんな鎌倉武士の頂点に立つ三代目将軍・源実朝は、日宋関係を考える上で重要な人物となります。

顕著な例が、南宋から日本に渡ってきた建築家・陳和卿です。

陳和卿は、源平合戦の頃に日本の地を踏み、兵乱で焼けた東大寺の復興に尽力。

頼朝が面会を求めても、その殺生を嫌い断った陳和卿が、建保4年(1216年)、鎌倉に姿を見せたのです。

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そして実朝への拝謁を望み、願いが叶うや、三拝し泣き出しました。

実朝が驚いていると、なんでも実朝は宋にいた高僧の生まれ変わりであり、彼はその門弟であったというのです。

このことは実朝が5年前に見た夢と一致。

誰にも明かしたことのない夢でした。

かくして実朝は宋へ渡ることにし、大船を作り始めます。

翌年にできたこの船は残念ながら失敗してしまい、建保7年(1219年)2月13日に実朝は公暁の凶刃に倒れ、宋へ渡る夢は叶わなかったのでした。

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とはいえ、これには重要な意味合いがあります。

宋人からみて野蛮な者は面会しない――頼朝はそう判断されました。

それが源実朝になると、陳和卿自ら会いにくるのですから、洗練された将軍の姿がうかがえるのです。

実朝の夢は破れたものの、宋との交流は続き、鎌倉の人々は変わりました。

仏典や漢籍を読みこなし、白檀の仏具を用いる。法、制度、礼法が浸透し、猛々しいだけではない存在となりました。

儒教由来の仁義礼智信を学び、撫民とは何か考えるようになる――日本人の規範となる、武士の像はかくして形成されてゆきました。

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「華夷闘乱」の時代

気象変動は歴史に大きな影響を与えます。

後漢から魏晋南北朝へと続く乱世の背景には寒冷化がありました。

辺境に生きる人々は、寒冷化により食料を求めて北から南下。

温暖化すると、さらにその勢いを増しました。

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1206年、チンギス・ハンがモンゴルの部族を統一するとユーラシア大陸を席巻。

その勢いは日本にまで到達し、文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)が起こります。

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この間の1279年、最後の幼帝・趙昺(ちょうへい)は海に沈み、宋は終わりを告げていました。

日本と中国の変動は、不思議な一致を見せているとも言えます。

京都にある朝廷は長安をめざした平安京を作った、いわば唐のフォロワーでした。

一方で武家政権は、それとは別の文化、日本の政権をすすめてゆく。

両者は「都鄙(とひ)」――すなわち都と田舎という呼ばれ方をしました。

中国大陸では、漢民族とそれ以外の民族を「華夷」と称しました。

宋がモンゴルによって滅ぼされたことは、この秩序が破壊されたということです。

北条義時は【承久の乱】を「華夷闘乱」と記しています。

彼の中では、朝廷には向かうことは狄が華に挑むことだと認識していたのでしょう。

『将門記』には、平将門の言葉として次のような記述があります。

「今の時代は、実力で勝利を収め君主になることができるのだ。

我が国ではそうでなくとも、そうする人の邦もある。

さる延長年間(923−931)、大契丹王が正月一日に渤海国を討ち取り、東丹国と改めて掌中におさめたというではないか。

力づくでそうしたのではないか」

武士が朝廷を武力で屈服させ、新たな国を作ること。

華夷の逆転を、平将門の頃には意識されていて、それを実現したのが北条義時でした。

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13世紀とは、日中ともに華夷秩序が入れ替わった時代といえる。

こうした激闘と融合を経て、歴史は続いてゆくのです。

 

意義深い日中関係は続いてゆく

では宋から見た日本とは、どんな印象だったのか?

北宋・歐陽脩(おうようしゅう)の『日本刀歌』を意訳します。

※茶色文字が意訳となります

昆夷道遠不復通

昆夷 道遠ければ 復(ま)た通ぜず

昆夷(こんい・西方少数民族)の国は遠く、まだ行き来ができないんですね

世傳切玉誰能窮

世に伝う 切玉(せつぎょく) 誰か能(よ)く 窮(き)わめん

だから、そこにあるという伝説の宝刀がどんなものか、まだわからないんですよ

寶刀近出日本國

寶刀近く日本國に出で

そこでご覧ください、この隣国日本からやって来た宝刀!

越賈得之滄海東

越賈之(これ)を 滄海(そうかい・青い海)の東に 得う

これを越のバイヤーが海を東に超えて入手したんですね!

魚皮裝貼香木鞘

魚皮 裝貼る 香木の鞘

魚皮を用いたこの細工、鞘は香木でできています

黄白閒雜鍮與銅

黄白 閒雜(かんざつ)す 鍮(ちゅう)と銅

真鍮と銅でメッキしてあるんですね

百金傳入好事手

百金にて 傳え入る 好事(こうず)の手に

これをコレクターが百金で手に入れたわけです

佩服可以禳妖凶

佩服(はいふく)せば 以て 妖凶を 禳(はら)う可(べ)し

こんなの装備したらどんな凶悪な敵だって倒せちゃう!

傳聞其國居大島

傳え聞く 其の國は 大いなる島に居り

聞くところによると、その国は大きな島国で

土壤沃饒風俗好

土壤 沃饒(よくじょう)にして 風俗好(よ)しと

とても豊かな土地で、住んでいる人のマナーもよいんですって

其先徐福詐秦民

其の先徐福(じょふく) 秦の民を詐(たばか)り

なんでも昔、徐福が秦の民を騙して連れて行って

採藥淹留丱童老

藥を採(と)ると 淹留(えんりゅう)して 丱童(かんどう) 老いたり

薬を採取すると連れて行って、そのままそこで歳を取るまでいたとか

百工五種與之居

百工五種 之(これ)と與(とも)に居り

その中にいた職人の技術が伝わっているんですかねえ

至今器玩皆精巧

今に至るまで 器玩(きがん)は 皆精巧

今でもその技術が伝わっているみたいで、ともかくスゴイ!

前朝貢獻屢往來

前朝に 貢獻して 屢(しばしば) 往來し

唐の時代には両国間で交流していたそうなんですね

士人往往工詞藻

士人往往(おうおう) 詞藻(しそう)工(たくみ)なり

文化人交流もあって、とても上手な詩を作るそうですよ

徐福行時書未焚

徐福 行く時 書未だ焚(や)かざれば

徐福が日本に行った時は、焚書坑儒の前でした

逸書百篇今尚存

逸書(いつしょ) 百篇 今尚存す

だから日本には、我が国ではもうなくなった書物が百篇もあるとか

令嚴不許傳中國

令厳しくして 中国に伝うるを 許さざれば

しかし、日本は法律でこうした書物を我が国に伝えないのならば

舉世無人識古文

世舉(こぞり)て 人の古文を識しるもの無し

この世の中から消える古典が出てきてしまう!

先王大典藏夷貊

先王の大典は 夷貊(いはく)蔵れ

かくして私たち祖先の著作は異国にある

蒼波浩蕩無通津

蒼波 浩蕩(こうとう)として 津(しん)を通ずる無し

海が荒れ果ててもう行き来ができないとすれば

令人感激坐流涕

人をして 感激せしめて 坐(そぞろ)に 流涕(りゅうてい)せしむるは

悔しくて、苦しくて、涙が溢れてきます

鏽澀短刀何足云

鏽澀(しゅうじゅう)たる短刀も 何ぞ云(い)う足らん

錆びた短刀があっても、古文の代わりにはならないのです

日本は、中国では途絶えてしまった伝統を引き継ぐ役目を果たしました。

こうした伝統的な意識があるからこそ、清末の日本への留学生は和服を着用。

由来は中国大陸のもので、満洲族の衣服より伝統的だとみなされたのです。

金聖嘆が途中で打ち切りにした『水滸伝』が大陸で流行しすぎて、そればかりが流通するようになってしまった結果、本来の版が日本にだけ残っていたこともありました。

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日中間の交流抜きにして、日本の文化・生活は成立しません。

歐陽脩がこうして詠んだような状況は、現在でもあります。

日本のお正月に欠かせないものといえば、お屠蘇があります。

「まだお屠蘇気分が抜けなくて」なんて言い回しもありますよね。

この屠蘇を作るためのスパイスをまとめた屠蘇散のパッケージを読んでみると、「華佗が考案した」と書かれてあります。

三国志』ファンならおなじみの、伝説的な名医です。調べてみると、確かに中国から渡来したものでした。

それならば本国でも飲むのか?と現地の方に聞いてみると、もうそんな習慣はないそうです。

1月7日は七草粥があります。これも中国由来かつ、現地では廃れた習慣。

5月5日には、福井市で「越前朝倉曲水の宴」が開催されます。

一乗谷遺跡で、朝倉氏が行っていたイベントを再現する祭りで、曲水の宴の再現は太宰府天満宮等でも行われています。

この曲水の宴も中国由来。

『三国志 Secret of Three Kingdoms』には、曹操が曲水の宴を開催する場面がありますが、これも中国では「流觴曲水」と呼ばれるもので、王羲之による書道の傑作「蘭亭序」はこの遊びを記したとされています。

時代が下ると変わっていったこの行事の原型をいかにして再現するか、努力がなされています。

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唐から伝えられた文化を平安貴族たちが尊び、その風習を真似した――そんな名残が今に至るまで伝統として残っているのです。

・下駄

下駄も中国由来です。

魏晋時代には下駄コレクターがいたと『世説新語』にはあります。

『三国志』もので諸葛亮が下駄をカランコロンと鳴らして出てきても、全く問題はありません。ファンアートで孔明に履かせても大丈夫!

これが今はない!

中国では花魁の高下駄に「エキゾチックだなあ」とうっとりしたり、浴衣に下駄を履く姿に憧れたりしながら、こんな風にツッコむ状態が発生します。

「ちょっとー、なんで日本独自のもの扱いなの? 今のうちの国にはないの?」

抹茶については、栄西が二日酔いの源実朝に「御覧ください、この唐(から)の素晴らしい飲み物!」と勧めた逸話があります。

しかし、中国では明の洪武帝が「抹茶は手間がかかりすぎるし、やたらと高級ブランド化するぼったくり業者がいてけしからん。庶民も飲めるように抹茶は禁止、煎茶だけにしろ」と布告を出した結果、廃れました。

一方で、日本では定着しなかった中国由来の慣習や制度もあります。

導入されながら定着しなかった科挙制度。

そもそも導入されなかった宦官制度。

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そして、誤解されているものもあります。

儒教です。

中国由来のものでありながら日本は取り入れなかった――そんな誤解が時に広まったりしますが、それは過ち。

日本でも儒教は大いに取り入れられました。

歴史的に、互いの文化を伝え合い、高めていった日本と中国。

優劣をつけるのではなく、理解しあうことこそ、本来の伝統ではないでしょうか。

日本のラーメンにせよ、漫画にせよ、アニメにせよ、芸能人にせよ、そしてフィギュアスケートの羽生結弦選手にせよ、中国では気に入ったらそれを誉め、応援します。

それが大きな度量というものです。

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大河ドラマは日本史を扱うもの。

しかし日本史と中国史を繋げることで見えてくるものもあります。

『鎌倉殿の13人』を見ながら宋のことを想像し、楽しみ方が広げるのも一興ではないでしょうか。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
岡本隆司『中国史とつなげて学ぶ日本全史』(→amazon
小島毅『中国の歴史7 中国思想と宗教の奔流』(→amazon
宮崎市定『中国の歴史8 疾駆する草原の征服者』(→amazon
伊藤『日本像の起源』(→amazon
渡邊義浩『中国における正史の形成と儒教』(→amazon

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