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【畠山重忠】
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鵯越で馬を背負い 巴御前と一騎打ち
源頼朝に従軍し、治承・寿永の乱(源平合戦)で活躍し始めた畠山重忠。
木曽義仲の討伐や宇治川の戦い、一ノ谷の戦いなどで、たびたび重忠の名が登場します。
なぜ木曽義仲は平家討伐に活躍したのに失脚へ追い込まれたのか?
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義仲討伐の最中には、こんなエピソードも残されています。
・宇治川を渡る途中で馬を流された大串重親を対岸に放り投げ、そのおかげで重親が徒立ちの一番乗りになった……が、他力本願だったので敵味方ともに嘲笑した
・三条河原で巴御前と一騎打ちをした
巴御前は秋元才加さんが演じられ、青木崇高さん演じる夫(木曽義仲)と共に、薙刀の稽古をしている場面がドラマでも流されていましたね。
劇中で、畠山重忠vs巴御前の一戦があるかもしれません。
ただし、一ノ谷の戦いでの“エピソード”については再現が難しいでしょう。
義経らが急坂を馬で下って平家軍を混乱させた【鵯越の逆落とし】において、重忠は
馬を背負って駆け下りた
なんて逸話があるんですね。
「大事な馬に怪我させられない」とのことでしたが、現在のポニーでも約200kgの馬体重がありますので、現実的に抱えて坂を降りるのは不可能。
あくまで重忠の怪力っぷりが誇張されたのでしょう。
源平合戦の趨勢を決めた一ノ谷の戦い(鵯越の逆落とし)とは?
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なお、日本馬は小さくて戦場では使えない――なんて指摘もあったりしますが、実際は甲冑武者を載せたまま、かなりの速度で走ることが可能です。
戦場でも大いに戦力になったに違いなく、以下に参考動画を付けておきますので、よろしければご参照ください。
武だけではない芸術の素養
畠山重忠が、他の坂東武者と大きく異なっていたのは「芸術の素養」も持ち合わせていたことでしょう。
源義経が兄の源頼朝と決裂し、愛妾の静御前が鎌倉へ連れてこられたときのことです。
文治二年(1186年)4月、静御前が鶴岡八幡宮の廻廊で舞を披露するのですが、このとき重忠は「銅拍子(どびょうし)」という楽器で伴奏の一手となりました。
なぜ彼が楽器を扱えるのか?
詳細は不明ですが、この時代の坂東武者としてはかなり珍しいタイプであり、頼朝が見る目も違っていたはず。
頭脳の働きが際立つ梶原景時が鎌倉武士から嫌われる一方、逆に重忠が支持を得ていたのは、器用な一面はあってもあくまで「武」が中心だったからかもしれません。
もちろん重忠のように非の打ち所がない武士であっても、時代の過渡期ですから、順風満帆とはいきません。
土地や権利などを巡る問題は、たびたび見舞われました。
そのうちひとつが、彼の性分や御家人同士の関係をよく表しています。
時は文治三年(1187年)。平家が滅び、まだ鎌倉幕府ができたばかりの頃です。
このとき地頭を務めていた伊勢国沼田御厨で、代官が狼藉を働き、その責任を重忠が負うことになりました。
重忠は千葉胤正のもとに預けられました。
こういった処罰のやり方は度々ありましたが、いわば生き恥とも言える刑罰であり、誇り高き重忠は絶食して自ら命を断とうとします。
報告を受けた頼朝は、重忠の才覚を惜しんで赦免を決定。
これにて一件落着かと思われたところで、再び梶原景時が出てきます。
なぜ梶原景時は御家人仲間に嫌われた?頭脳派武士が迎えた悲痛な最期
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重忠が一族とともに地元・武蔵へ戻ったことを「謀反の疑いあり」と勘違いし、それを頼朝へ報告してしまったのです。
私は起請文を出す必要はない!
源頼朝は、御家人たちを集めて意見を募りました。
すると小山朝政が重忠を弁護し、他の者もそれに同意。おそらく、頼朝もそのように考えていたのでしょう。
すぐには兵を動かさず、小山市の一門でもある下河辺行平が、畠山重忠への使者に立ちました。
しかし重忠のような武士にとっては「謀反を疑われた」という時点で不名誉なことです。
怒り悲しんで自害しようとしていたところを行平がどうにか止め、
「ここで自害するより、鎌倉できちんと申し開きをしたほうが良いでしょう」
と説得したため、重忠は思い直して鎌倉へやってきました。
不思議なのは、ここで取調べをしたのが梶原景時だったこと。
そもそも重忠を謀反疑惑を頼朝に訴えた人物ですから、重忠の態度も頑なになってしまいます。
景時は、重忠にこう告げました。
「異心がないのならば起請文を差し出されよ」
「自分には他意がなく、言葉と心に相違がないから、起請文を出す必要はない!」
こうなると完全に平行線。
景時も、これ以上のゴリ押しは得策ではないと考えたのか、その場では多くを語らず、頼朝へ報告しました。
すると、頼朝は何も言わずに重忠と行平を呼び、褒美を与えて許したといいます。
行平も共に呼んだのは「よく重忠を説き伏せて連れてきた」というような判断を示すためでしょうか。
なんとなくモヤモヤしたものは残りながら、一応この騒動は収まります。
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