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【嘉吉の乱】
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屋敷の庭で馬が大暴れ 直後に義教の首が!
このころ関東では、義教がかつてブッコロした家の子供を奉じて結城家が反乱を起こし、幕府に敗れるという事件がありました。
義教から見ればめでたい戦勝ですから、京都ではお祝いの宴が開かれます。
赤松家を継いだ教康も「我が家の池で鴨の子がたくさん生まれましたので、泳いでいるところを見においでください」とお誘いを出しました。
なんだか、将軍はじめ武家の人々が揃って小さな鴨を愛でているところを想像するとシュールですね。もちろん生き物を可愛がるのはいいことですけども。
ともかく将軍のお出ましということで、幕府のお偉いさんや公家の一部もお供して赤松家を訪れます。
そして皆で猿楽(能)を観賞していたところ、なぜか屋敷の庭で馬が大暴れし始めました。
勘の鋭い武人ならこの時点で嫌な気配を察知するかもしれませんが、元々短気な義教はイライラしていたので「何事だ!」と怒鳴るだけです。
次の瞬間でした――。
甲冑を着た赤松家の武士たちが宴席に乱入し、義教の首が落ちるのです。
「追っ手が来たら潔く自害しよう」
混乱に巻き込まれ、他の武家や公家も即死や重傷ののち死亡したり、負傷した人などもおりました。
事件直後、赤松家側が「将軍を討つのが目的であって、他意はない」と告げて騒ぎは収まります。
居合わせた人のほとんども、義教のおかげで当主になった人たちでしたので、大なり小なり恨みは買っていたのでしょう。
ここでちょっとおマヌケな行き違いが起こります。
諸大名は「これほど大それた事をやらかすには、きっと協力者がいるに違いない」と考え、誰がそうなのかを見極めるため、すぐには行動を起こしませんでした。
しかし、実際には赤松家単独で行った計画。
いつまでたっても裏切り者が見つかるわけはありません。
満祐ら赤松家の人々は「追っ手が来たら潔く自害しよう」と考えていました。
それがなかなかやって来る気配がなく「これなら国元に戻って戦う準備ができる!」と方針を変えました。
てなわけで、義教の首を掲げ、隊列を組んで正面から堂々と京都を後にしたそうです。
この時点では妨害する者も後を追おうとする者もいなかったといいますから、いかに義教に人望がなかったかがわかりますね。
幕府もヤル気なしで一向に進まない
幕府では、翌日になってようやく会議が開かれました。
次の将軍を義教の息子・足利義勝にし、その引越しを進めただけで、赤松家追討の軍は依然として編成されません。
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義教があまりに権力を掌握していたので、管領などの重職でも他の大名を従わせることができなかったのです。
幕府がそんな調子ですから、赤松家の人々は無事に所領の播磨(現・兵庫県)まで帰ることができました。
そして幕府軍が来る前に、尊氏の息子の養子の孫という「もうそれ一般人じゃね?」な人物を見つけ出して担ぎ上げます。
ちなみにこの間、一週間くらいです。
手際のよさからして、いっそ赤松家が将軍になってもいいんじゃないかと思ってしまいますが、残念なことに、この後、大差なくなります。
満祐は「義教がアレだったし、この混乱に乗じて他の家も幕府へ反乱を起こすに違いない」と考えていたようなのです。
上記の通り幕府軍ですらトロかったので、他の大名も様子見をするばかりだったのですが……。
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