こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【藤原頼忠】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
漁夫の利で関白の座を
天禄元年(970年)、藤原実頼死後の摂政は、円融天皇にとって外祖父にあたる九条流の藤原伊尹(これただ/これまさ)となりました。
藤原頼忠も権大納言に昇進して左近衛大将となり、さらには天禄2年(971年)正三位・右大臣に叙任されます。
しかし天禄3年(972年)、藤原伊尹が急死して、早くも政局が蠢き始めます。
伊尹の弟である藤原兼通と藤原兼家が対立するのです。
実は伊尹と兼家の兄弟は二人で昵懇の仲であり、その間にいた兼通は除け者のような扱いでした。
それを恨みに思っていたのでしょう。兼通は弟・兼家を妨害しようとしながら、二人で関白の座を争います。
一体どちらが権力の座につくのか?
円融天皇の母である安子は、兄弟の順序で関白にするよう言い残していたため、兼通→兼家の順に決定。
晴れてその座を掴んだ兼通は、対立する弟の兼家よりも藤原頼忠に接近し、政務を行うこととします。
兼通は兼家牽制のため頼忠を自らの後継者にしようと目論んでいました。
藤原兼家の権力に妄執した生涯62年を史実から振り返る『光る君へ』段田安則
続きを見る
しかし、そんな矢先の貞元2年(977年)、兼通は病に倒れてしまう。
弟・兼家の野望を察知している兼通は、重病の身を引きずりながら執念で参内を果たし、除目において頼忠に関白を譲ります。
いわば漁夫の利的に関白となった頼忠ですが、喜んでばかりもいられません。
娘を入内させていないため、彼には外戚となる道がなかったのです。
円融天皇に娘・遵子を入内させる
円融天皇は、九条流の藤原氏に翻弄され、疲弊気味。
兼家が引きこもり、その対応に苦慮せねばなりませんでした。
左大臣・源雅信を信任して政治を任せており、権力が分散する構図が生じています。
源雅信はなぜ娘の倫子を道長に嫁がせたか?宇多天皇の孫で宇多源氏の祖 その決断力
続きを見る
藤原頼忠は自身の弱点を克服すべく、娘の入内を実現します。
藤原頼忠:娘・遵子を円融天皇に入内させる
天元元年(978年)4月のことです。
この盤石の一手は、兼家を焦らせることにも繋がります。同年6月、兼家は復帰参内を果たし、8月には娘の藤原詮子を入内させました。
藤原詮子(一条天皇の母で道長の姉)政治力抜群だった「国母」の生涯を振り返る
続きを見る
10月、頼忠は太政大臣、兼家は右大臣に進みます。
あとは円融天皇の子を、どちらの娘が天皇の子を産むか――運命は、まさにそこにかかっていました。
天元2年(979年)、藤原兼通の娘であった藤原媓子が亡くなり、中宮が空位となります。
にわかに緊張感が走る最中の天元3年(980年)、詮子が先に皇子を生みます。懐仁親王(やすひとしんのう・後の一条天皇)です。
兼家にとっては待望だった男児の孫。
これで俄然有利になった!ようで、番狂せが起きます。
円融天皇は天元5年(982年)、子のない藤原遵子を中宮としたのです。遵子の弟である藤原公任は兼家に軽口を叩きました。
「こちらの方(詮子)は、いつ立后なされるのでしょうねえ」
公任にしてみれば、天皇の寵愛を受けているのは姉であり、子もいずれできるであろう――そんな余裕があったのでしょう。
しかし、待てど暮らせど遵子は懐妊しません。
女房たちはひそひそと、遵子のことを「素腹の后」と呼びました。
そして彼女自身だけでなく、父・藤原頼忠、弟・藤原公任らの運命にも暗い影を落とします。
大河ドラマ『光る君へ』第1話は、この頃からの始まりです。ナレーションで語られた「熾烈な権力争い」とは、まさしくこうした様を指していたのでした。
※続きは【次のページへ】をclick!