八田知家

源平・鎌倉・室町

頼朝上洛の日に大遅刻した八田知家~鎌倉では一体どんな功績があったのか?

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京都の僧侶・観性が宿泊

もちろん全てが順調だったわけではなく、文治四年(1188年)5月にはちょっとしたトラブルでお叱りを受けています。

八田知家の家来に庄司太郎という者がいて、京都御所の夜警担当として派遣されていました。

しかし職務を怠けているという噂が立ったため、頼朝は検非違使庁に身柄を引き渡すように命じています。

部下の不始末は上司の責任……ということで、知家にも罰として、鎌倉中の道路整備が命じられました。

その2ヶ月後、文治四年7月には頼朝の子息・源頼家の鎧着初めに際し、知家は馬を献上。

息子の知重がこの馬を引いて披露した、とあります。

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文治四年(1188年)12月には、朝廷の使者が源義経の追討に関する院宣を奥州藤原氏へ届ける途中で鎌倉に寄り、その接待を知家が命じられています。

この使者の復路でも知家が接待しました。

平頼盛「餞別の宴」にも出席していることから、八田知家が京都や都人の饗応について一定以上の知識や経験を有していたことがうかがえますね。

戦場や外交で派手な活躍はなくても、いないと不便。

これまた織田家で例えたら蜂屋頼隆中川重政あたりでしょうか。

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文治五年(1189年)6月には、鶴岡八幡宮・三重塔完成供養のため、京都から観性という僧侶がやって来て、知家の屋敷が宿所に指定されています。

案内役は佐々木高綱。

変わったところでは、三浦義村が頼朝の使いとして、甘いお菓子や揚げ菓子などを観性に届けたとか。

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と、ここで余談ながら、鎌倉時代の「菓子」について少々触れておきましょう。

 


鎌倉時代の菓子

平安時代は果物が「水菓子」として扱われていました。

他に水飴や小麦粉などで作った「唐菓子」もあり、まんじゅうや羊羹は鎌倉時代に中国から伝わったと言われています。

ただし、この文治五年の時点であったかというと怪しいところ。

小豆は縄文時代から栽培されていたものの、砂糖はまだ国内生産しておらず、簡単には手に入らないものでした。

他に甘みをつける材料としては、甘葛(あまづら)、水飴、蜂蜜などを用いています。

飴は平安時代から広く売られるようになっていたので、この日に出されていてもおかしくはなさそうです。

となると、観性に贈られたのは水菓子・飴・唐菓子あたりでしょうか。

夏ですと『枕草子』に出ているような、削った氷に甘葛のシロップをかけたものも出されたかもしれませんね。

鎌倉には”雪ノ下”という地名があり、建久二年(1191年)に頼朝が作らせた氷室に由来するといわれています。

当然、文治五年時点では存在していませんが、頼朝が鎌倉に落ち着いて数年経っているので、どこかで雪を保存していた可能性も皆無ではないでしょう。

吾妻鏡』は食に関する記述が少ないので想像の域を出ませんが、一般人が楽しむ上では良い要素かと思います。

また、この数日後には若宮八幡宮の別当・円暁が稚児や僧侶を連れ、八田知家邸を訪問。

酒宴となったようで、稚児が延年の舞を披露したとか。

延年とは、寺院で大きな法会が行われた後に余興として演じられる、さまざまな芸能のことをいいます。

舞の他に音楽や猿楽など、様々なものが含まれ、この場合は法会の前に行っていますので、おそらくは「延年で行われるのと同じ舞」ということでしょう。

さらに、式典の前日には頼朝自らが知家邸を訪れ、観性と長時間に渡って雑談したようです。

地味なれど、当時の武士の風習が垣間見える話ですね。

 


奥州藤原氏の討伐では

文治五年(1189年)は東国の政治が大きく動いた年です。

同年7月17日、奥州藤原氏を討つための編制が発表。

東海道・北陸道・頼朝本隊の三手に分かれて奥州へ向かうことになり、八田知家は千葉常胤とともに東海道方面の軍を任されました。

発表から2日後の19日には奥州へ出発。

例によって知家の戦果と呼べるものは伝わっていないのですが、捕虜に関する逸話があります。

文治五年9月15日、奥州藤原氏の縁者ともいわれる樋爪俊衡が、三人の息子を連れて頼朝の陣へやってきました。

彼は既に還暦を超えるような歳で、真っ白な頭の弱った老人だったといいます。頼朝は哀れに思い、樋爪家の四人を知家に預けることにしました。

知家が自分の陣へ四人を連れて戻ると、俊衡は法華経を読む以外には何も言わなかったといいます。

それを見た知家は、日頃から仏教への信仰が厚いため喜んだとか。

そんな私的な事情を持ち込んでもいいのか?という気もしますが、奥州藤原氏の当主・藤原泰衡は既に家臣に討たれ、その首も頼朝に届けられていたので、あまり尋問するべきこともなかったからでしょう。

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翌日、知家がこのことを頼朝に報告すると、

「ならば、法華経と十羅刹女に免じて本領を安堵しよう」

とのこと。

十羅刹女というのは、法華経の守護神のひとりです。法華経そのものだけでなく、このお経を伝える者も守護するといいます。

頼朝が「十羅刹女」とわざわざ言ったのも、ここが理由なのでしょう。

翌年建久元年(1190年)秋に頼朝が上洛するのですが、俊衡以外の樋爪家の者について、配流先が決められます。

全く咎めがないと他の者から反感を買いますし、かといって一度許すと決めた俊衡まで流罪にすると、信用を失ってしまいます。だからこのような処分を決めたのではないでしょうか。

少々時系列が前後しますが、建久元年(1190年)4月11日のことも少々触れておきましょう。

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