八田知家

源平・鎌倉・室町

頼朝上洛の日に大遅刻した八田知家~鎌倉では一体どんな功績があったのか?

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頼家 初めての小笠懸

建久元年(1190年)4月11日のこの日、頼朝の長男・頼家が初めて小笠懸を行いました。

小笠懸とは、その名の通り小さな的を射る笠懸のことです。

笠懸もまた字面の通り、遠くに置かれた丸い的を、騎馬武者が疾走しながら射るというもの。

「疾走中の馬上から射る」というところは流鏑馬と同じですが、笠懸のほうがより遠距離の的を射るため、実践的とされています。

流鏑馬は現代でも各地の行事として目にする機会がありますが、笠懸はあまりみられませんね。

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この日は頼家の記念すべき初挑戦ということで、御家人たちがそれぞれ武具や馬・馬具などを献上しました。

八田知家は行縢(むかばき)と、乗馬沓を用意したそうです。

行縢は、狩りや長期間の旅の際に用いる、両足を覆う布や毛皮のこと。

儀式などの場ではアクセサリーのような意味合いで用いられることもあったようで、織田信長が安土で御馬揃えを行った際、虎の皮の行縢を用いたことが記録されています。

知家がどのような素材のものを用意したのかまでは、吾妻鏡に記載がありませんので、想像するしかありませんが……。

頼家は見事に小笠懸を成功させ、御家人たちに称賛されたといいます。

建久元年9月になると、翌月の頼朝上洛に備えて、様々な手配をするよう御家人たちに命がくだりました。

知家は、道中の厩の手配を大須賀胤信とともに任されています。

胤信は千葉常胤の四男ですので、奥州合戦のとき同様、ここでも知家と千葉氏との接点がみられます。

そして同年10月3日、いよいよ京都へ出発する日が来ました。

しかし。

この凄まじく大事な日に知家は大遅刻をしてしまうのです。

 


遅刻をして大胆な切り返し

当然、頼朝は怒り心頭。

昼頃になってやっと八田知家が出てきても、機嫌が悪いまま。

並の人ならビビッて縮こまりそうなところでも、知家は物怖じしません。

まず「体調が悪かったので遅れてしまいました」と理由を説明した後、こう言葉を続けました。

「先頭と殿(しんがり)はどなたですか? 頼朝様はどの馬に乗られるのでしょう?」

遅れてきておいて何言ってんのか、肝が太いというか……。

しかし頼朝は機嫌が多少良くなっていたのか、普通に答えます。

「先頭は畠山重忠に任せた。殿はまだ決めていない。私は梶原景時の黒斑を使う」

これを聞いた知家は続けます。

「先頭はもっともだと思います。殿には千葉常胤殿がふさわしいでしょう。あの斑も良い馬ですが、鎧の色と合いませんね。私の用意した馬を是非お使いください」

そして体高四尺八寸(約144cm)の黒い馬を引いてきたといいます。

頼朝はこの馬を気に入り、早速乗ろうとしたようです。

そこで知家は「これは都入りのときにお使いください。道中はあの斑が良いでしょう」と勧めています。

つまり「都の人々へのアピールとして、鎧の色と合わせた黒い馬を使ってください」ということです。

この話からすると、知家は色彩センスに優れた人だったのかもしれません。

殿も千葉常胤と千葉胤頼、境常秀らに決まり、やっと出発……しかし、既に冬に入りかけている時期のため、この日はあまり進めず。

相模国懐島(現・茅ヶ崎市円蔵)に宿泊したとき、殿はようやく鎌倉を出たところだったといいます。

一行が京都に入ったのは、同年11月7日のことです。

京都滞在中の知家は、頼朝と御所へ参内したり、石清水八幡宮に参詣する際にお供を務めています。

12月11日には、後白河法皇の意向で頼朝が10名の御家人を左右の兵衛尉・衛門尉に推挙しており、その中に知家も含まれていました。

これは息子の知重に譲っており、世代交代の意図が垣間見えるように思われます。

といってもすぐに家督を継承させたわけではなく、知家はこの後も登場します。

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建久二年(1191年)6月には、頼朝の姪である一条能保の姫の婚礼に際し、随行する者たちの衣装を用意する一人に選ばれ、同年8月には火事によって再建された将軍御所での宴に参加。

宴では、酒肴を献上した大庭景能が【保元の乱】での経験から戦時の心得について話し、皆感心したという逸話が有名です。

知家も保元の乱を経験していますので、何かしら話したでしょうね。

その後も征夷大将軍の辞令を持ってきた勅使を接待したり、鹿島神宮の式年遷宮が遅れているので早く行うように命じられたりしています。

 


曾我兄弟の仇討ちでは多気氏に謀略

大きな動きとしては、建久四年(1193年)【曾我兄弟の仇討ち】に関することが挙げられます。

頼朝が富士へ巻狩に出かけた際、御家人の工藤祐経が曾我祐成・時致兄弟に討たれた事件です。

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鎌倉へ報告される途中で「頼朝が生死不明」と伝わり、頼朝の正室である北条政子が動揺していた……という話でも有名ですね。

八田知家はこのとき富士へ同行しておらず、6月4日に地元・常陸で経緯を聞いたようです。

事の真偽を確かめるべく、知家は早速鎌倉へ向かおうとしました。

しかし近所の多気義幹が油断ならないと考え、一計を案じることにします。

兵を集めて「知家が義幹を討とうとしている」という噂を流させたのです。

当然、義幹は警戒し、防戦の準備を進めました。

それから知家は義幹に使いを出し「富士野で異変が起きたようなので、一緒に参りましょう」と伝えました。

多気義幹は行かないと答え、さらに防備を固めます。

少しわかりにくいですが、この状況を外から見ると、

・頼朝の安否が不明な状態で

・地元に戻っている御家人が

・鎌倉に来ず

・”何故か”武装を強化し始めた

ということになります。

要は謀反ですね。

その準備をしているように見える状況を、知家が作らせたのです。

そして同年6月12日、知家は頼朝に報告。

当然、頼朝は怪しみ、多気義幹に鎌倉へやってくるよう命じました。

6月22日に義幹は鎌倉へ到着し、知家と対決することになりました(三善善信と藤原俊兼も同席)。

八田知家はこう訴えます。

「先月の曽我兄弟の件を今月4日に聞きましたので、すぐ鎌倉に向かおうと思い、義幹殿へ同道しようと誘いました。しかし彼は一族と家臣を集めて立て籠もっていたのです」

もちろん、自分が噂を流して挑発したことは伏せたまま。

義幹としては、ただの噂を知家の仕業と断定することはできませんから、返す言葉がありません。

何か反論はしたようですが、源頼朝は多気義幹に非があると考えました。

結果、彼の領地は没収となって馬場資幹に与えられ、身柄は岡辺泰綱に預けられています。

知家の計略が見事成功したのです。

ではなぜ、知家がこんなことをしたのかというと、常陸内での勢力争いによるもののようです。

少々知家からは離れますが、常陸の状況を箇条書きで説明します。

・常陸介として平高望が赴任してくる

・高望の子である平国香が平将門に討たれ、国香の子・貞盛が藤原秀郷らの協力を得て将門を討つ

・貞盛が一族から多数の養子を迎え、そのうちの一人・維幹を常陸に赴任させた

・維幹は多気という土地を本拠としたため多気氏を名乗るようになる

・多気義幹は多気維幹の子孫

・多気氏は頼朝の挙兵当時、佐竹氏同様すぐには味方しなかった

・多気氏は千葉氏の縁者でもある

全体的な印象をまとめると、

「大きな問題を起こしているわけではないが、状況次第では何か起こしてもおかしくない」

「事を起こす際に千葉氏も動く可能性がある」

というのが、知家や鎌倉幕府から見た当時の多気氏という感じでしょうか。

当時の状況的に、千葉氏が主導して謀反を起こすことは考えにくく、また知家単独で相手取るには荷が重いため、多気氏が標的になったものと思われます。

さらにこのときは、頼朝の安否が不明な状況。多気氏が叛乱を起こすには絶好の機会です。

頼朝の意向を汲んでのことか、知家の独断かは判断しかねるところですが……審議がやけにあっさりしているところからすると、暗黙の了解はあったのでしょう。

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