秀吉の妻・ねね(寧々 北政所 高台院)

秀吉の妻・ねね(寧々 北政所 高台院)/wikipediaより引用

豊臣家

秀吉の妻ねね(寧々/北政所/高台院)の生涯|天下人を支えた女性の素顔

寛永元年(1624年)9月6日はねね(寧々・おね)の命日です。

別名は「北政所」あるいは「高台院」。

秀吉の正妻であり、この二人、戦国時代では最も有名な夫婦の一組ではないでしょうか。

ドラマに秀吉が出てれば必ずねねもでますし、元の身分が低い女性で名前がハッキリしているのも珍しい。

ただし、「ねね」なのか「ね」という一字名に「お」をつけて「おね」なのか、まだ不明とのことですので、今回は「ねね」で統一させていただきます。

秀吉と正妻ねね(高台院)/wikipediaより引用

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秀吉の妻ねね 異例の恋愛結婚で結ばれて

ねねは1549年生まれで、亡くなったのは寛永元年(1624年)。

76歳の生涯です(『寛政重修諸家譜』だと83歳)。

今なら平均寿命前になるものの、当時としてはかなりの長命ですね。

二人の出会いは、当時極めて異例だった恋愛結婚だと言われています。

しかも、知り合った頃はねねのほうが身分が高く(父は杉原定利という武士)、秀吉25歳・ねね14歳(21歳説も)のときでした。

まだ秀吉は織田信長に使え始めたばかりの頃。

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木下藤吉郎という平凡な名前で身分の差も大きいため、ねねは母の朝日に反対されています。

それでも結婚に踏み切りました。

長屋の土間に藁とござを敷いて盃を交わすという非常に質素な結婚式だったそうで。

先の見通しなんて何もない、自分の家より明らかに収入のなさそうな人に嫁いだねねの度胸もスゴイですよね。愛……ですな。

 


秀吉の浮気にキレ、信長に手紙で訴える

その後、秀吉の出世につれて女好きが明らかになってきても、ねねはずっと旦那さんに尽くします。

しかしそんなねねも一度だけキレかかったことがありました。

それは秀吉が初めて一城の主になった頃のこと。

身分も高くなり鼻高々の秀吉は、城下で浮気を繰り返します。

当然ねねの耳に入りました。

普通なら「もう別れてやる!!」と大ゲンカするところですが、そこでねねは全く違う手段を取ります。

なんと、あの信長さんに

「ウチの旦那が浮気してるんです!あっちから結婚して欲しいって言ってきたのにひどくないですか!?」

と訴えたのです。

繰り返します。あの信長さんです。

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信長「こら!はげねずみ!ワシも浮気を把握したぜ~」

よほどの剣幕だったのか。

それとも最初からねねの味方だったのか。

詳細は不明ながら、織田信長はここで一計を案じます。

「まあまあ、お前は立派な嫁さんだし最近すごく美人になったんだから、つまらないよその女にヤキモチを焼くんじゃない。オレから見れば、お前はあのハゲネズミ(秀吉)にはもったいないくらいなんだからな!自信を持て!」

そんな励ましの手紙をねねに書いています。

これだけでもビックリですが、問題はこの手紙の末尾。

「あー、それからこの手紙はハゲネズミに見せてやるようにな」

要するに「オメーごときに尽くしてくれる立派な嫁がいるくせに浮気してんだって?オレは知ってるからなこの野郎」というわけです。

しかも、このどうでもいい家庭内のゴタゴタに対して例の「天下布武」の印を押しているのです。

天下布武の印/photo by 百楽兎 Wikipediaより引用

この手紙を見た秀吉の反応は伝わっていませんが、うやうやしく手紙を受け取り、ガクブルしたことは想像に難くありません。

まぁ、それでも秀吉の女好きは治らないんですけどね。

 

夫婦円満の秘訣は「妻をたてる」にあり!

結局、秀吉の女癖が治ることはありませんが、その後は「まず正式な妻を立てる」ようになっていきます。

例えば信長の死後、【小田原征伐】のときも「ホントはお前に来てほしいけど、危ないから代わりに淀(茶々)を来させてくれない?」なんて手紙を書いていました。

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どう考えても建前でしかないのですが、この建前があるのとないのとでは全然違いますからね。

当時淀殿は秀吉にとって唯一、初めての子供を産んでおり、アドバンテージがありました。

ここでヤキモチを焼いては、正室としてみっともないと考えたのでしょう。なにより信長が化けて出てくるかもしれません。

ねねは手紙の指示通り、淀殿に小田原へ行くよう伝えました。

そしていくら側室を増やしても、秀吉はねねを離縁したり冷遇することはありませんでした。

ねねが秀吉にとって妻以上に、側近のような役割もしていたからです。

ご存知の通り、秀吉は一代で天下人にまで上り詰めたため、家に代々仕えてきた家臣がいません。

その代わり、子供の頃から面倒を見てきた人はたくさんいました。

特に加藤清正や福島正則は小さい頃から住み込みで秀吉に仕えており、寝食の面倒を見ていたのはねね。

成長した後も、秀吉が死んだ後もこの二人は特にねねの味方をしてくれます。

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北政所は夫の死後に高台院へ

他にも、秀吉が関白になってからは朝廷との交渉を引き受けるなど、外交官のような役目もしていました。

その働きは、女性の最高位である「従一位」を与えられたことからもわかります。

秀吉にとっては妻としても側近としても欠かせない人だったのです。

それほどの人でありながら、ねねは「アタシが天下人の奥様よ!跪きなさい!!」なんて態度は全く取りませんでした。

逆に、どんどん天狗になっていく秀吉をたしなめ続けます。

「アンタ、小早川秀秋に冷たいんだって? 甥っ子なんだからもう少し優しくしてあげたら?」

などなど、秀吉が何かトラブルに見舞われるたびに仲介をしたりしています。

ホントできた奥さんです。

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ドラマではドロドロのバトルを繰り広げている淀殿相手でさえ、最近の研究では「実はうまくやってたんじゃない?」という説があります。

秀吉の死後、出家して大坂城を出て、京都・東山のお寺「高台院」にいたねねは、大坂の陣後も生き残りました。

家康からは1万6,000~7,000石の化粧料も与えられ、そして9年後の1624年、静かに天寿を全うするのです。

天下人の妻というよりも、夫の菩提を弔い続けた一人の妻としての最期でした。

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【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon
歴史読本編集部 『物語 戦国を生きた女101人 (新人物文庫)』(→amazon
渡邊大門『井伊直虎と戦国の女傑たち (知恵の森文庫)』(→amazon
高台院/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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