絵・富永商太

信長公記

小豆坂の戦い(安祥合戦)~戦国初心者にも超わかる『信長公記』第2話

更新日:

ときは天文十一年(1542年)8月。

信長公記』首巻の2節に記されたのが「小豆坂の合戦」です――。

「この小豆坂では、いったい何回の戦(いくさ)があったのか?」

現代ではそんな議論が行われ、主に1回説と2回説が囁かれております。

前者の場合は、天文十一年ではなく天文十七年(1548年)の戦いを指し、2回説の場合は天文十一年の戦を「第一次」、天文十七年の戦を「第二次」としています。

ここでは2回説を採らせていただき、時系列順にお話ししていきましょう。

 

信秀vs義元 現在の愛知県岡崎市にて

舞台となった「小豆坂」とは、現在の愛知県岡崎市・南西部辺り。
現在では古戦場跡の碑が立っている他、近隣に小豆坂の名を冠した小学校があります。

当時、このあたりは織田信秀(信長のトーちゃん)と今川義元がにらみ合う最前線でした。

この合戦も、中心となるのはその二人ですが、遠因は松平家にありました。
徳川家康ではなく、そのジーちゃん世代の話です。

その頃、家康の祖父・松平清康は西三河のほとんどを支配していました。

しかし天文4年(1535年)、森山崩れ(守山崩れ)と呼ばれる騒動で命を落としてしまいます。

松平清康/wikipediaより引用

戦ならともかく、出陣中に家臣が謀反を起こし、当主の清康が殺されたものだから松平家は大混乱。
一応、家督は清康の嫡子・松平広忠に引き継がれたものの、織田家と今川家の間で、松平家は苦しい状態に追い込まれてしまいました。

後に家康が織田家と今川家を行ったり来たりの人質となる背景がなんとなく浮かんできますね。

 

まずは三河の安祥城へ

同じ頃、尾張の南部に勢力を広げつつあった織田信秀は、この機を見逃さず、まずは三河の安祥城(現・愛知県安城市)を手中に収めます。

松平家の本拠だった岡崎城とは、現在の道路で7~9kmしか離れていないところ。
攻められた松平家にしてみれば「もうおしまいだー!」みたいな気分になったでしょうね。

こうした状況下で、東から松平家の領地へ進入してきたのが今川義元。

支配下にある松平家の岡崎城に腰を据え、信秀をはじめとした織田家の将を攻略していくつもりだったのでしょう。

一方の信秀もヤル気満々だったのか。
このときは安祥城におり、直に義元を迎え撃つことになります。

安祥城址/photo by Umako wikipediaより引用

仮に義元が岡崎城に入ってしまうと、織田家としては、心情的にも物理的にも背水の陣の松平家と、「東海一の弓取り」が率いる今川家を両方相手にしなければならなくなります。

安祥城と小豆坂の間に矢作川(やはぎがわ)があるため、これを渡られる前に叩いてしまえ!
という意図もあったのでしょう。

渡河中に迎え撃つのも手ではありますが、賭けにしては分が悪いものでした。

 

第一次小豆坂の戦い

そんなこんなで一回目の戦が始まりました。

勝敗については、記録によって差異があり、ハッキリしません。
その点も、1回説と2回説に意見が分かれる理由のひとつです。

戦いの規模は小さかったかもしれませんが、とるに足らないことを牛一が書き残すとも考えにくい。
痛み分けの小競り合いだった気がします。

なにせ戦いばかりの戦国時代。
「どの程度の規模から”戦”と呼ぶのか」という定義は極めて曖昧です。

信長公記では、この戦いで信秀の弟たちである織田信康・織田信光・織田信実も参戦し手柄を挙げたことや、信長につけられていた家老の一人・内藤勝介にも手柄があったことが記されています。
これをそのまま信じるとすれば、少なくとも信秀方はかなり力を入れて臨んだ【ガチ戦】だったということになりますね。

首巻2説では「この戦(いくさ)以降、三河は今川家の侵略にさらされるようになった」というところで終わっておりますが、もう少しお話を続けましょう。

 

第二次小豆坂の戦い

天文十七年(1548年)、「第二次小豆坂の戦い」です。

こちらの話は信長公記ではあまり取り上げられておりませんが、織田家・今川家・松平家のパワーバランスの変化を知る契機になってきます。

第一次から第二次までの間、両家を巡っては様々なことが起きました。

ひとつは竹千代(のちの徳川家康)に関することです。

第一次小豆坂の後、広忠はより強く今川家の保護を受けるべく、嫡男の竹千代を今川家本拠・駿府城へ送ろうとしました。しかし……護送を担当していた家臣の裏切りによって、真逆方向の織田家へと送られてしまうのです。

頭陀寺の三公像(左が豊臣秀吉、中が徳川家康、右が井伊直政という不思議な組み合わせ)photo by 戦国未来

家康の人生における受難その1です。

小説やドラマなどでは、これがきっかけで信長と家康が知り合うというエピソードがよく使われますね。史実ではまだ確定していないので、今後裏付けできる史料が出てくればそれこそ歴史ロマンですな。

 

信長と濃姫の婚姻

もう一つの受難は、信秀と斎藤道三が和平を結んだことです。

信秀は第一次小豆坂の後、美濃方面にも進出しようとし、道三と戦を繰り返していました。
結果としては、ざっくり一勝一敗というところ。

しかし、今川家の脅威のほうが大きくなってきたこともあり、信秀は織田信長に道三の娘(濃姫帰蝶)をもらうことで、停戦しようともちかけたのです。
濃姫は帰蝶とも呼ばれ、信長の人生でもかなり大きなエポックメイキングですな。

斎藤道三/wikipediaより引用

こうして外交的にはやや優位に立った信秀でしたが、戦はそうはいきませんでした。

第二次小豆坂では、当初、織田軍のほうが優勢だったといわれています。

しかし、今川家の伏兵が織田軍の本陣に襲いかかったところで、織田軍は総崩れとなり敗北。
軍事的な境界線は動かないまま、さらに戦いが続きました。

信秀が安祥城を手に入れる前からの戦を含めると、同城を中心としたものが多いので、まとめて「安祥合戦」と呼ぶこともあります(続きは次ページへ)。

次のページへ >



-信長公記

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.