こちらは5ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【『べらぼう』感想あらすじレビュー第39回白河の清きに住みかね身上半減】
をクリックお願いします。
人至って明察なれば徒無し
さて一件落着か。定信は葵小僧についての報告を受け取っています。
ここで本多忠籌は「葵小僧は生活苦のために悪事を為した」と指摘します。
不景気での雇い止め。
悪所の取り壊しで行き場をなくした者。
そうした者が悪事を為しているという現状を説明しながら、そのうえで倹約令と風紀取締りの見直しを提言します。
しかし定信は頑なです。
「然様な道に奔る者は暗愚なものだけである」
そう断言し、政治責任ではないと却下。
忠籌は戸惑いつつ、平蔵に人足寄場はもう満員かと確認します。
鬼の平蔵も、官僚である以上は愛想良く振る舞うしかなく「つとめてはおりますが」と頭を下げる。
二人のやりとりを見た定信は「帰農令を使えばいい」と答えました。
田畑を捨ててきた流れ者を百姓に戻すというのです。荒廃した田畑も戻り、あるべき世の形となると言い切ります。
しかし、希望者はこれまでたったの四人。
帰路の路銀や農具代、食料まで配布しているのに、それはおかしいと言わんばかりに、きちんと伝わっているのか?と続ける定信。
忠籌は苦しい表情を浮かべながらさらに説明します。彼らは田畑を耕し、年貢を納めても、土間で寝て、娘を身売りするような暮らしには戻りたくない、悪事を働こうと江戸にいたいのだと。
「人は正しく生きたいのではないのでございます。楽しく生きたいのでございます」
松平信明もおずおずと続けます。
「このままでは、田沼以下の政と謗(そし)りを受けかねませぬ」
こう言われ、さしもの定信も理解したように思えます。
あの蔦重のくどい嫌がらせのような言い回しは、確かに民の心の反映であったのだ、と。
MVP:おてい(貞)さん
蔦重の妻の実名は不明です。
戒名に「貞」が含まれるためか、「てい」と設定されたと思えます。
そのうえで、今回の彼女はとびきりの「貞女」として振舞いました。
「貞」という概念は現代では「不貞」ばかりが取り上げられやすく、その反対の状態を漠然と指すように思われなくもありません。
しかし、本来は夫のために道を正すという意味で使われたのです。
今回のおていさんはまさしく「貞女」の鑑でしょう。夫が愚かなことをした際に、諌めることも貞女の役目。そんな江戸時代までの価値観に戻った気がします。
おていさんのように知識を駆使して窮地を切り抜けることは、当然ながら美談です。
さらには無反省な夫を「べらぼう!」と殴り飛ばすことも、あっぱれな貞女といえます。
現代人からすればやりすぎであるように思えることも、当時ならば美談になることも大いにある。
今回のおていさんの働きぶりは、講談や錦絵の題材にあっても不思議はないほどの素晴らしい話です。キャラクター描写としても秀逸であるだけでなく、江戸時代の価値観をも説明できるものです。
さらにいえば、大河ドラマの歴史においても画期的といえます。
大河ドラマの放映開始された時期は、第二次世界大戦後の冷戦期でした。
この時代、日本を含めた西側各国では、専業主婦つきの家こそが理想の家庭とされたもの。
東側諸国の女たちは働きに出て、化粧もろくにせず、可愛げがない。一方で西側諸国は、家に帰ってドアを開ければ可愛らしい妻がいて、おいしい料理を用意して待っている。
そんなヒロイン像が求められたのですね。
ゆえに大河ドラマをたどりますと、女性像がそうした専業主婦を念頭においたキャラクター造型が多い。歴史的な正しさよりも視聴者受けを狙った結果です。
そんなヒロイン像を作り上げるには、実際の人物にあった烈女像や貞女像は邪魔。そこを削られ、微笑みながら美味しい味噌汁やおにぎりで男を癒す像が求められてゆきます。
それに伴い、知能も下方修正されました。
往年の名作である『独眼竜政宗』ですら、伊達政宗の母である義姫がかなり下方修正されているものです。
-
大河ドラマ『利家とまつ』レビュー 昭和平成の良妻賢母は現代社会にどう映る?
続きを見る
この癒し系ヒロインを求めるあまりヒロインの頭が悪くなる現象は、何もそう遠い昔のことでもありません。
今から十年前の『花燃ゆ』は、吉田松陰の妹のうち最も兄の事績を細やかに伝え、賢女として名高かった長姉・千代の存在すら抹消されました。何の都合が悪かったのか。吉田松陰の実績を伝えるうえでそれでよいと思ったのでしょうか。
そしてこの流れの底には2023年『どうする家康』があります。
あれは徳川家康の正室である瀬名を正しく評価すると宣言しつつも、その瀬名のあげる策は実現不可能な妄想としか思えず、何を言いたいのか理解できませんでした。
週刊文春で、瀬名役の出番を増やしたかったという意図が暴露されておりましたが、記事の中身が真実ならば不可解な展開もあり得るな、とようやく腑に落ちた。
そのくせ、本物の知略を持つ女性の寿桂尼すら出さない。
今川氏真にとって政治的にも重要であった早川殿をただの無力な女性にする。
お市と淀の方は家康への恋愛感情しか頭の中に入っていないような描写。
女性の知性に対し憎しみでもあるのかと思えるほど酷い出来でした。
そういう「バカな女しか愛せないんだもん、萌えないんだもん、女は性的価値しかいらないもんねーw」みたいな描写を大河ドラマでやられても困るだけなんですね。
それは言うまでもなくNHK自身が理解していたのでしょう。2024年と2025年は、知性において男を圧倒する、まひろとおていさんが見られました。
もう二度と、2023年には戻ってはならない。そんな訣別の意思を感じます。
「バカな女しか愛せないんだもんw」ということを続けていると、知性で己を磨くこともできず、どんどん錆びゆくばかりです。それでよいと本当にお思いですか?
総評
定信がまるで遅効性の毒を仕掛けたようなことを、しみじみと語る場面がありました。
定信というよりも本作はチームが一丸となって、蔦重に毒を仕込んできていると思ます。
今回はなんとかなりましたが、それでも彼の中で何かが一つ減りました。
二度目はありません。もうあと一回失敗したら、惨めな破滅は避けられないと示したのが今回に思えます。
これは定信にしてもそうで、共倒れの未来が見えてきたと思えなくもありません。
二人とも共通点はあります。
己のことばかり推し出そうとして、周りがついてこないことに無頓着なあたりでしょう。
定信も自分のことしか見えていないといえばそうですが、蔦重もあくどい。
自分のせいで二人江戸払いになったとなれば、もっと反省した顔になってもよさそうなのに、ヘラヘラしておりますからね。そりゃ鶴喜も怒りますよ。
そして蔦重のどうしようもないところ、いまいちパッとしないところは、理由としてはいくらでも思いつくのですが、彼が唯一無二とは思えないところでしょう。
今、彼がいなくなったとしても、鶴喜がいるならばどうにでもなると思えてしまう。
序盤の「彼しかいない」という輝きはどこへ行ってしまったのやら。
このところ、毎回毎回蔦重の嫌なところが目についてしまい、動揺するばかりです。
私がすすんで嫌いになるというよりも、相性がともかく悪い。いつの間にか喧嘩別れするタイプです。
近寄るだけでああいうタイプからは嫌われるので、近寄るのも避けたいと思える人物です。画面越しに見ているからよいものの、実際にいたら揉めるだろうと最近はため息をついてしまいます。
なんなんでしょう、これは。
おまけ:『ばけばけ』と『べらぼう』はなぜ似ているのか?
今月より朝の連続テレビ小説『ばけばけ』が始まりました。
十年に一度あるかないか、紛れもない革新作になる予感がします。まだ間に合いますので、再放送で追いつきましょう。
『虎に翼』が東の横綱ならば、『ばけばけ』は西の横綱になれる可能性を感じさせます。
さて、この『ばけばけ』は『べらぼう』に似ているという意見を目にします。私も同じです。
その理由としては、浮世絵を参照した照明や美術を用いている点にあると思います。
明治時代は文明開化が進み、江戸時代までおなじみであった怪力乱神の類、怪談が駆逐されていく時代。
そうして消えてゆくものを残したことに、ヒロイン夫妻のモデルである小泉八雲夫妻の存在意義があります。
消えゆく江戸時代の風情を描くとなると、その全盛期である『べらぼう』と似てくることは何の不思議でもない。
違いがあるとすれば、『べらぼう』の蔦重らは、この世界が消える日のことを想像だにしていないのに対し、『ばけばけ』のトキは旧世界が消えゆく黄昏の中に佇んでいると自覚的であることでしょう。
同じ浮世絵がモチーフでも、『べらぼう』は言うまでもなく喜多川歌麿の時代となります。
一方で『ばけばけ』は浮世絵の黄昏期とされる月岡芳年を感じさせます。
こう書くと「あんたは一体何を言っているんだ」という困惑する意見は想像できます。
月岡芳年は「無惨絵」や「血みどろ絵」と称されるグロテスクさが持ち味とされておりますので。
ただ、そうした見方は現在では古く、武者絵から美人画まで出がけた力量ある絵師とされます。また妖怪画も高い評価を得ています。
『ばけばけ』は照明や美術が芳年のような明治錦絵に近いだけではありません。
彼の作風は“何か”が起きる前の緊張感が持ち味です。
平穏な絵であっても、これから何か恐ろしいことが起きるのではないかという、緊迫感があります。

月岡芳年『新形三十六怪撰 四ツ谷怪談』/wikipediaより引用
たとえばこの一枚は『新形三十六怪撰』のお岩です。あの「四谷怪談」のヒロインですね。
この絵では穏やかに眠っていて、顔も崩れておりません。
ただ、鎌首をもたげたような蛇に見える帯がだらりと画面中央に垂れ下がっていて不吉な印象を与えます。
絵のタイトルを見て、鑑賞者がお岩さんの惨劇を頭の中で想像し、ゾクゾクしてしまうことが作品としての完成になるわけです。
『ばけばけ』は、ほのぼのとしていて美しい場面が多いものの、この不穏さ、このあと何かが起きそうな緊張感がどことなく漂っています。
そんなところまで朝ドラで再現するなんて、NHK大阪は一体何が起きているのかと、毎朝驚かされるばかり。皆さんもぜひご覧ください。
あわせて読みたい関連記事
-
『べらぼう』古川雄大が演じる山東京伝は粋でモテモテの江戸っ子文人だった
続きを見る
-
京伝が喰らった「手鎖五十日」実際何をしたらこの刑罰か?江戸時代の事例を確認
続きを見る
-
『べらぼう』風間俊介が演じる鶴屋喜右衛門~なぜあれほど蔦重を目の敵にした?
続きを見る
-
『べらぼう』染谷将太演じる喜多川歌麿~日本一の美人画浮世絵師が蔦重と共に歩んだ道
続きを見る
◆全ての関連記事はこちら→(べらぼう)
◆視聴率はこちらから→べらぼう全視聴率
◆ドラマレビューはこちらから→べらぼう感想
【参考】
べらぼう公式サイト