鎌倉は秋を迎えました。
紅葉を背景に、北条義時は亡き源義経のことをを振り返っています。
と、そこに土肥実平がやって来ました。
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二人は義経の死を悲しんでいました。
実平も平家との戦の間ずっと共にいて、なぜ死なねばならなかったのか?もったいない……と悔やんでいます。
もしもこの場に和田義盛などがいたら、頭を振って頷いたことでしょう。
一方、三浦義村あたりであれば「仕方ねえんだよ。天皇と宝剣を海に落としたんだから、当然の報いじゃねえのか」ぐらい言いそうです。
ついでに実平や義時に向かい「お前らはそういうことをすぐ忘れる」なんてチクリと付け加えるかもしれません。
壇ノ浦の戦いでの義村は、漕ぎ手を射ることは恥晒しだと冷たく突き放していました。
土井実平は情にもろいんですよね。だからこそ、雨でぬかるんだ道を直していることに不安を感じ、罰が当たらないのかと義時に話しかけます。
「誰だ、俺の仕事にケチをつけておるのは」
そこで登場したのが市原隼人さん演じる八田知家でした。
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キレのある八田知家
知家は今まで土木作業をしていたようで、粗末な服装に荒れた髪。
鎌倉中の道を歩きやすくするよう、頼朝に命じられたそうです。そのうえで罰が当たるなら命じた鎌倉殿だと割り切っています。
見るからにできる男ですね。
武人であれば割り切りは大切ですし、たくましい性格で任務もよくこなしそう。
畠山重忠のようなオールラウンダーとは異なり、防衛や土木工事といった地味な局面でよい働きを見せる感じで、市原隼人さんを起用しただけのことがありますね。只者ではない。
それにこうもキッパリ割り切れる人物は、汚い仕事でも迷いなくできるものです。
なかなか恐ろしい人物がまだ出てきました。
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そんな武骨な知家は「預かって欲しいガキがいる」と義時に話を持ちかけます。
義時が子供を預かっていると知家は勘違いしていたようで、義時もそれは妻であると返しますが、なかなか賢い子だということで預けられます。
なんでも両親は飢饉で亡くなったそうです。
史実でも、この時代は気候変動により、飢饉が発生していました。この状況はしばらく続き、鎌倉幕府はそのことに対応しなければなりません。
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八重は少年を引き取ります。
名前を聞くと「鶴丸」と返ってきました。
鶴丸は素直になれないのか、石を投げつける……そんな様子を義時と八重の息子である金剛がジッと眺めているのでした。
重要だった奥州の金
奥州の藤原泰衡は、義経の首を差し出して、奥州の安堵を得ようとしました。
しかし、それが罠であったことは劇中でも説明されていたところ。
源義経という“武器”を失った平泉は鎌倉の敵ではなく、頼朝は全国から兵を集めて奥州に攻め込み、鎌倉方の圧勝に終わりました。
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頼朝は戦利品(特に金関連)を満足げに眺めています。
ここで“金”について少し説明を。
奥州で取れる砂金はいつの時代も貴重でしたが、特にこの時代には価値がありました。
というのも、お隣の中国で宋が滅ぶと、国土の北半分は金王朝(王朝としての金)に支配され、南半分となった南宋王朝は日宋貿易で砂金を調達するようになったのです。
それゆえ奥州平泉がなくては貿易が成立しませんでした。
時代がくだり明王朝になりますと、金に代わって銀が貨幣として重宝されます。
結果、日本とアメリカ大陸の銀が巡り、東アジア全体で商業が発展。『麒麟がくる』では織田信長が堺の港を確保して貿易をしたいと語っておりましたが、こうした時代の流れがあったんですね。
そんな美味しい奥州の富を手に入れ、ますます盤石となる頼朝政権。絶好調です。破竹の勢いです。
そこへ和田義盛が、河田次郎という男を連れてきました。
藤原泰衡の家人で、主人の首を献上してきたのです。
すると頼朝はこうきた。
「次郎とやら、恩を忘れて欲得のために主人を殺すとは何事か! 名を呼ぶのも穢らわしい、この者の首を今すぐ刎ねよ!」
「頼朝! この外道! 離せ!」
呆気なく斬首される河田次郎。続けざまに頼朝はこう宣言します。
「これから大事になるのは忠義の心だ。あのような男を二度と出してはならん。ついに日本全てを平らげた」
この場面、この台詞は大事ですよね。
【石橋山の戦い】で、北条時政と大庭景親が言い争う場面があり、景親は恩義云々言う時政をいなしていました。
源義朝の恩義だのなんだのいうけど、許してくれてよくしてくれた平家が大事だ。そんな風に時政は言いくるめられていたものです。
要は、忠義よりも欲得が重視されました。
しかし、それではいかんと頼朝は考えている。
「御恩と奉公」と言われるように、鎌倉幕府は御家人を恩賞で繋ぎ止めていた。そこへ「忠義」という道徳概念を提示したんですね。
おおよその出どころは推察はできます。大江広元あたりでしょう。
彼は大学寮でも専門は明経道。要するに中国思想専攻でした。
広元から「やはり、ここは儒教で、朱子学ですな」とでも習ったのではないでしょうか。
儒教というのは国家の基礎を築く上で有用です。
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決めるのは天
奥州を支配し、満足げな頼朝を安達盛長と義時が労い、祝います。
源氏の世はもうすぐだと手応えを得ている頼朝。
しかし、まだ完全には片付いていない敵を懸念している頼朝に、義時が言います。
「法皇様でございますか」
その通りです。
「京の大天狗をなんとかせねばならん。天下草創の総仕上げよ。小四郎、悩むな」
浮かない顔の義時に頼朝が続けます。
「己のしたことが正しかったか、そうでないのか、自分で決めてどうする。決めるのは天だ」
「罰が当たるのを待てと?」
「天が与えた罰なら、わしは甘んじて受ける。それまでは突き進むのみ」
頼朝のこの発言からして、彼はもう何か新しい存在になりつつありますね。
こういう考え方は【天譴論】――天意に背いたら君主が罰を受けるという考え方です。
しかし、これは本来、天子、日本であれば朝廷が当たるはずの罰であり、それを自己の上に掲げたということは、頼朝は自分が天と通じていると意識し始めたということでしょう。
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変遷していく武士の名誉
そのころ御家人たちは質素な酒盛りをしていました。
衣川に行き、九郎殿に手を合わせるかどうか。同時に坂東武者たちは義経の強さを振り返ります。
天狗に手解きを受けたのも、あながち嘘ではなかったかもしれないと語る畠山重忠。そんな義経を裏切ったのだから泰衡に天罰が下ったのではないかと考えているようです。
しかし思い出したいことがあります。
義経は以前、鞍馬山での修行に意味はあったのかと語っていました。
彼自身は天狗でも神でもなく、自分自身を信じていた。
そんな天才的武将を失ったのは梶原景時のせいだと和田義盛が不満を募らせています。
景時が余計なことを言ったからああなった。と、他の御家人たちも同意している。
すると義時が立ち上がり、景時の隣に座ります。
景時は盃を傾けつつ、理解していました。
義経は亡くなった。しかし、語り継がれる。そして戦の何たるかを知らぬ愚か者として、梶原景時の名もまた残るのだと。
「これも宿命か……」
そう悟りつつ、酒を飲む景時。
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この人はいつでも素晴らしい顔ですね。宿命を受け入れることができる。
実際その通りで、判官贔屓となった後世、景時は悪役とされました。歌舞伎の景時は例外もあるとはいえ、悪役として有名です。
大河でそんなイメージを払拭したいと地元では考えているのか。
景時ゆかりの地である神奈川県寒川町では猛烈プッシュ。
義経をいじめた印象だけでなく、上総広常を殺した印象も強烈で、ますますイメージが悪化しないかとちょっと心配していましたが、杞憂に終わりそうですね。
寒川では中村獅童さんトークショーもあるそうです。
◆7/10 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」スペシャルトークin寒川を開催します(→link)
景時が後世の目線を気にしていることにも注目でしょう。
先ほど指摘したように、大庭景親は損得で道を選ぶことを当然だと思っていました。
山内首藤経俊も露骨に命乞いをしていた。
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それがだんだんと、武士は名誉を重んじるようになります。
武芸に長けていることだけではなく、忠義と後世に伝わる評価を気にするようになった。
名誉を守るためならば、討死なり自害なりを選ぶようになったのです。
もちろん良い話ばかりでもなく、哀しい一例を挙げると、徳川慶喜でしょうか。
家臣たちには戦争をけしかけておいて、自分だけは大坂から愛妾同伴で江戸へ逃げるなど、不誠実なことを平気でしてしまう慶喜。
それでも幕臣は、主君を討たれたら恥だから慶喜のことを守りました。
あるいは西郷隆盛も島津久光とは犬猿の仲でしたが、それでも山岡鉄舟に「主君の首を取られたらどうするのか?」と問われ、慶喜の助命を認めています。
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要は武士にとって、己の命よりも体面、後世に伝わる名誉が大事になっていた。
そういう道徳、天意、名誉、後世の名声を気にするようになっていく過程が描かれています。
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