青天を衝け感想あらすじ

青天を衝け第20回 感想あらすじレビュー「篤太夫、青天の霹靂」

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青天を衝け第20回感想あらすじレビュー
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大河で幕末史を学ぶなかれ

渋沢栄一が日本で初めて紙幣を発明したと誤解を与えるんじゃないか?

先週、そんな懸念を示しましたが、杞憂に終わってくれませんでした。

◆ 「青天を衝け」幕末で偽札対策!篤太夫の銀札作りにネット「ほんとに、今のお札」「あったまいいー」(→link

この篤太夫の一連の行動にネットでは「最古のお札誕生か」「あったまいいー」「偽造防止対策もバッチリ」「ほんとに、今のお札だな」「偽造防止策まで」「お札の原盤、木彫りなのか!」「手形みたい」「札で顔を隠す栄一可愛いな!」「途中から聞いていなかったに大爆笑」といった声が上がっていた。

やはり、誤解を与えてしまい、しかもネットで拡散するドツボに陥っていますね。

もはや手遅れかもしれませんが、それでも足掻いてみますと、以下、国立印刷局のコンテンツが参考になります。

◆お札の歴史(→link

越前福井藩では17世紀に藩札が採用されていますね。

それでも日本最古ではなく、関ヶ原の戦いの頃、伊勢商人が使っていた――とは上記の国立印刷局の記事に掲載されています。

ドラマであんな誤解のある描き方をして、そして案の定、ネットで出鱈目情報が拡散すれば、それこそ松平春嶽が怒りだしそうです。

二百を超える藩にあった藩札を無視してよいものでしょうか?

そう思っていたら、なんだか本作特有の超解釈を踏まえた感想が……いや、この方だけが悪いのではなくて、本作のだまし方とその受け止め方としてでも。

◆ 『青天を衝け』19話「信用」で経済を回す。渋沢栄一が勘定組頭に大出世(→link

「仁をもって得た利でなくては意味を成さねえ。上に立つ者だけがもうけるなら御用金を取り立てりゃ早ぇ話です。しかしそれじゃあどん詰まりだ!」

まさに渋沢栄一の著書『論語と算盤』で提唱された「道徳経済合一説」(利益を独占せず社会に広く還元するという考え)だ。

今回、篤太夫が取り組んでいた「銀札」は、既に諸藩でも作られてはいたが、うまく活用できていたのはごく一部だったという。

従来、金や銀で取引していたのに、いきなり紙切れがお金の代わりだと言われても、なかなか信用してもらえなかったからだ。

そこで、篤太夫は「銀札引換所」を作り、偽札対策も講じることで、「確実に額面通りの銀と交換できる」という信頼を得て、銀札を活かすことに成功した。

「経済活動には信用が何より大事」なこともバッチリ理解していたのだ。

こちらでは「藩札はあっても信用されていない、取り戻したのが栄一」という方向性です。

これは渋沢栄一ならではの「言行不一致」の典型例だと思います。本人だってそこを自覚していたからこそ、天狗党関連の汚い裏切りには口をつぐんでいた。

ドラマでも一橋家に不信感を持つ人々が出てきて、狭量で愚かな演出をされていますが、そもそもは天狗党で汚い裏切りをしたせいで、信頼を落としておいて何を言っているのかとしか言いようがありません。

そしてこの記事にはそれ以上にまずいことも。

「富国強兵」論や、武器の性能についていろいろと記されており、なまじ大手媒体、かつこれだけの字数があれば説得力も出てしまう。ざっと問題点を挙げますと。

五代友厚大久保利通の評価がおかしい

→ドラマの誘導、演出をそのまま受け取ると史実と齟齬をきたす。本作は渋沢栄一が評価していないという程度の根拠で、大久保を噛ませ犬にしているようで幕末明治史理解において有害にもほどがある

・五代を経済だけを考えて平和な人扱いにするのもちょっと

→先週突っ込みましたが「死の商人」です

・銃の性能、武装等、幕府と新政府軍の理解が大雑把すぎる

→佐幕藩でも商人と連携し、最新鋭武装をして連戦連勝した庄内藩がいます。そして、忘れちゃいけない長岡藩のガトリング砲

・そういうことを無視して長岡藩や庄内藩に惨敗し、薩摩藩まで財政難に陥った。それが戊辰戦争

そういう経済破綻を止められなかったことについてどう評価するんでしょう?

渋沢栄一と五代友厚を過大評価した結果、いろいろ破綻する事態に陥ってます。

雑な大河ドラマと、雑な公式SNS運用と、雑なファンダムで情報を煮詰めた結果、陰謀論じみた幕末明治史理解が形成されていて、本当に洒落にならないほど有害な状況が出来しました。

 

【史料批判】の欠如

『青天を衝け』周辺は、作り手からファンまで、渋沢栄一の自伝とドラマの描写を丸呑みにする前提があると思えます。

私は渋沢の自伝そのものを猜疑心で見てしまうため、話が噛み合わない。

ドラマはじめフィクションの作り手も、良心的ならば、あるいは慎重ならば、あまりに怪しいエピソードは避けます。

『麒麟がくる』では、光秀と家族ついて、有名な逸話を取り上げない傾向がありました。いくら有名で盛り上がる話だろうと、信憑性の低いものはストイックに切り捨てた結果だと推察できます。

「自伝でこうあるから妥当じゃないですか?」

そんな意見には「史料批判をしてください」で終わりにできるといえばそう。歴史を学ぶ意義、歴史学そのものを考えるための本は図書館にでもありますので、手に取ってみてください。

「まあ、確かにそこは……でもあれは結局こういう意図があるから」といった反応でもなく「私がいいと言ったらいい! それを貶すのはヘイトだ!」となれば危険な兆候かもしれません。

【史料批判】能力、あるいは【アブダクション(仮説形成)】とでも言いましょうか。

そういう基礎的な力がないと歴史ものでは失敗します。

『鬼滅の刃』呼吸で学ぶマインドフルネス~現代社会にも応用できる?

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そういう勘違いの典型例として、申し訳ありませんがこちらを使わせていただきましょう。

◆【青天を衝け】冒頭、北大路欣也が「こんばんは、徳川家康です」で登場する重要な意味(→link

大森さんはそもそも幕末通だった。幕末生まれの実業家で教育者の今井あさ(波瑠、30)をヒロインとするNHK連続テレビ小説「あさが来た」(2015年下期)を書いた際、幕末の資料を読みあさったからだ。

インプットの量だけでなく、データを読み込んだら、付き合わせて適切かどうか検証しなくてはいけません。

大森氏は、その突き合わせが甘いことは『あさが来た』の時点で指摘されていたことです。

それっぽく、うまく、口当たり良くまとめる能力は高い。ゆえにこの記事筆者のような方は「通だな」と思わされてしまう。

しかし、歴史を学ぶ上の基礎がどうにも欠けているので、ボロがでてしまう。

土方と栄一が「友達だよ!」なんて話は、エピソードを拾って出すにはよいのせよ。

永井尚志への対応や信憑性をたどれば、破綻していると気づけると思います。

【アブダクション(仮説形成)】ができないことは、作中の誰もこの論理を使っていないことからわかります。

昨年は明智光秀や徳川家康らが使っておりました。ちなみに今の朝ドラ『おかえりモネ』の百音と菅波も使っております。

 

「信頼できない語り手の自伝」に騙されると……

NHKは近年まっとうな史料批判をせず、自伝やら事後の弁明を丸呑みした結果、大恥をかいた悪い例があります。

大河ではなく、朝ドラです。

2018年下半期『まんぷく』――これは日清食品の公式見解と、ヒロイン夫である安藤百福氏の見解を丸呑みし、史料批判を怠った結果、大問題が発生しました。

チキンラーメンは日清の発明でもなんでもなく、台湾の伝統食品です。

それを台湾華僑が生産販売し、日清が特許を買い取った。

その辺の事情を隠すため、日清側はいろいろとあまり上手でない逸話を作った。

なまじ大企業になったため信じこまされておりましたが、下手にドラマにするからその嘘がバレて、いろいろ報道されてしまいました。

この程度のことは、記録が残っておりますから簡単にバレる。受信料で何をしているのかと恥をかいた。

◆ なぜNHK「まんぷく」は、安藤百福の“台湾ルーツ”を隠したのか(→link

なぜ、そんな事態に陥ったのか?

答えは単純、自伝を丸呑みして史料批判を怠ったからです。

自伝が全然信頼できない人は結構おります。

朝ドラつながりでいえば『エール』の古賀政男なんて、戦時中と戦後で正反対の言い分が並んでいて圧巻でした。

ああいう言い分を信じたら、日本人の大半が、戦時中から戦争に大反対していたことになる。そんなわけはない。

朝ドラ『エール』野田洋次郎さん配役のモデル・古賀政男とは?

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そういう目線で渋沢栄一の言い分を見ていくと、大仰かつ胡散臭い箇所が多い。

彼は倒幕論者でしたから、とりわけ幕府の批判が的外れかつ大仰だと思えます。代官を悪し様に罵倒し、自分を馬鹿にするのだから幕府倒壊は当然だと言い切る。

そういう“予言の自己成就”じみたことを言う。

幕府存続を願っていた幕臣とはまるでちがう。

「確かに幕府にも反省点はある。だからといって、ここまで屍山血河を築き上げるほどの悪事をしたのだろうか?」

それが彼らの思いでしょう。

そうした痛切な嘆きと比較すると、渋沢栄一が罵倒する代官だのなんだの、あまりに些細、自己欺瞞、身勝手だと思えます。

商業を軽んじるだの、商人を見下すだの。そんなことだから幕府は倒れて当然だと彼は語りますが、その結果としてできた明治政府がどれだけ藩閥政治を蔓延らせ、えげつない差別をしてきたのか?

彼の言うことを信じて「江戸幕府崩壊は商人を軽んじたから」と言ったら、問題を単純化し過ぎていて通じません。

要するにポジショントークです。

代官に怒りを感じた話をいちいちしつこくしていますが、まだ若い、それこそ十代で、井の中の蛙で大海を知らない頃の意見を反省もせず、世間に開陳することそのものが甘えと傲慢ではないかと問いかけたい。

そんなことを堂々と披露できることそのものが、ふてぶてしさではないでしょうか。

渋沢栄一に関していえば、何も私一人が辛辣に見ているわけでもありません。

彼の伝記を執筆した幸田露伴は、渋沢栄一の話になると逸らすようになった。それだけ不愉快な何かがあったのでしょう。

幕臣の子孫からすれば、「冗談じゃねえ!」と舌打ちしたくなるようなことが山ほどあったにちがいありません。

妻子ですら、人格者として講演会をして回る渋沢栄一に不信感があったような話もあります。

それでも泣く子も黙る長州閥とお仲間で、資産家です。

ぬかりなく福祉にも金を払い、外面はいい。

ただ、どうしたって、その胡散臭さや二面性に気づく人は出たのだろうと思います。

そういう狡猾さがなければ、とっくに大河に取り上げられていたでしょう。

明治が遠くなり、昭和も遠くなり、渋沢栄一の胡散臭さに引っかかる視聴者が減って、なんでも丸呑みにしてくれる今の時代だからこそ成立する。

渋沢栄一は確かに優れた人物でしょう。

ただ、ストーリーテラーとしての才能はそこまででもないと思える。

自分語りの時点で言行不一致傾向が強く、胡散臭い人物像が浮かび上がってきてしまう。それをドラマで雑に肉付けすれば、おかしくなることは目に見えています。

 

モラルを逸脱した大河

人の命や尊厳を軽んじる。まるでカードゲームのように動かして、視聴者にウケればいい。

本作の展開には、そうした不実、あるいは歴史への敬意を失った姿勢をどうしても感じてしまいます。

『麒麟がくる』では、石仏をペチペチと叩きながら利用する信長を、光秀が暗い目でじっと見つめる場面がありました。

いくら効率的だろうと、石仏を拝む人の心を踏み躙ってもよいものか?

光秀はそんな絶望を感じていた。

あのときの光秀と同じ気分を毎週味合わされている気がするのです。歴史上の人物をペチペチ叩き、面白がり、利用する。そういう精神性が耐え難い。

本作のスタッフは板橋駅前の新選組供養塔前で手を合わせてみたらいかがでしょう。

さらに強い言葉で申し訳ありませんが、本作は史実の正確さとかの以前に、モラルから逸脱しているのではないか?と感じることもあります。

かつての朝ドラ『エール』でも同様な指摘がありました。

◆朝ドラ『エール』は史実に基づくドラマのモラルを逸脱していないか?(→link

『エール』は昨年の朝ドラです。『青天を衝け』とこの二作は似ている部分があると、上記の記事を読んで確信できました。

さらに、古山裕一のキャラクターを、見る者が共感できるように陳腐なものにしてしまうのは、『エール』の作り手たちが、古関裕而を理解できなかったからではないか。

朝ドラ『エール』モデル古関裕而(こせきゆうじ) 激動の作曲家人生80年

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『青天を衝け』の作り手たちは、渋沢栄一のみならず、幕末の価値観というものを共有していない。というか、するつもりもないのかもしれません。

NHKドラマ『今ここにある危機とぼくの好感度について』は、好感度だけを考える人間がいかに薄っぺらいかを皮肉っていましたが、まさしくそれ。

好感度のゴリ押しだけで幕末の人物を解釈するゆえ、結果的に侮辱へと繋がってしまう。

幕末は、そう遠い時代でもありません。

あの時代に苦しんだ人々は、子孫を戒めるためにも、理解し難い時代のことを語り継いで来ました。

まだ幼い子が懐剣を握りしめ自刃したこと。

死体が転がり、朽ちてゆくこと。

腐肉をかきわけ家族の遺体を探したこと。

そういう記憶を残そうと努力してきた。

オーラルヒストリーとして伝えられた人は、このドラマの作り手が想像するよりも多いものです。天狗党の乱などがいい例ですが、毎週、あまりの無神経さに愕然とさせられてしまう。

私のレビューを読まれ「好きな大河を貶されて頭にきている」という方がいるようです。

怒っているのは私も同じです。

幕末明治は鎌倉時代や戦国時代とは違う。断絶なく繋がっている記憶が市井にあり、それを侮辱するようであれば頭にきて当然ではないでしょうか。

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