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イラスト・富永商太

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薩長同盟で【倒幕の約束】はしていない!ではなぜ長州と薩摩は手を組んだ?

更新日:

学校の授業で習う幕末史で、最も勘違いしがちなのが【薩長同盟(さっちょうどうめい)】かもしれません。

1866年1月、薩摩と長州が幕府に対抗するため手を組んだ――。

一行で言い切るなら、それで正解。
しかし、そこには「幕府を倒そうぜ!」という【倒幕】の意味は含まれていないのです

にも関わらず多くの方が「倒幕のためだったんじゃないの?」と勘違いされているのは、おそらくや翌年の1867年に【大政奉還】が実施され、さらに戊辰戦争が始まったためでしょう。

実際、薩長同盟が倒幕のためだったという記述もちょいちょい見かけますが、国史大辞典にはハッキリと

この段階では両藩とも武力討幕を具体的に考えてはいず、

と表記されております。

では、薩長同盟、真の目的とは何だったのか?

簡潔に申しますと、こうなります。

【幕府軍が長州を攻めようとしても、薩摩は幕府の味方には加わらないから安心して! 長州に対する朝敵認定を取り消したり、そのほか色々と協力するよ!】

なんだか曖昧な言い方ですよね。
薩摩にも長州にも色々と事情があって、両者は微妙に距離をとりながら、それでも助力は惜しまない、最初はそんな関係でした。

しかし、これだけじゃ少しわかりづらい。

・ではなぜ薩長同盟が必要だったのか?
・薩摩と長州は仲悪かったんじゃないの?

本稿ではそんな疑問に答えつつ、薩摩・長州・幕府それぞの事情を見ていきたいと思います。

イラスト・富永商太

 

薩長同盟の超基本情報

まず最初に。

薩長同盟とは、そもそも何なのか?
契約書でもあって、そこに何か書かれたりしているのか?

そんな疑問から押さえておきましょう。

薩長同盟とは、
西郷隆盛木戸孝允
の口頭で交わされた約束です。

正式な書面はありません。

それがなぜ後世にまで伝わっているのか? と申しますと、木戸孝允(きどたかよし)坂本龍馬に宛てた尺牘(せきとく・手紙のこと)が残っていたからですね。

中には六か条からなる約束事と【龍馬の朱文字(裏書き)】が記されておりました。

裏書きとは、龍馬が「この約束は間違いないっス!私が同席して見聞きした通りっス!」という証明であり、宮内庁にその現物が残っております。
よろしければHPでご確認を。

手紙の中には、長州側から木戸孝允が出席して、薩摩側が西郷隆盛と小松帯刀(こまつたてわき)だった、ということも書かれております。

坂本龍馬が朱文字で裏書きした尺牘(手紙)/宮内庁HPより引用

 

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薩長同盟 六か条の内容とは

では、肝心の【薩長同盟の六か条】には何が書かれていたのか?

国史大辞典を参考にしてマトメます。

【第一条】幕府と長州藩が戦争になっても、薩摩藩は幕府側に味方せず、京都と大坂に兵を置いて幕府を牽制する
【第二~四条】もしも幕府と長州藩が戦争して、勝っても負けても(あるいは戦争がなくても)、薩摩藩はその後「長州藩が朝敵認定を取り消すよう」働きかける
【第五条】一橋慶喜(後の15代将軍)や松平容保(会津藩主)らが朝廷に働きかけ、天皇が長州藩を許さないようにする場合は、武力行為も辞さない
【第六条】長州藩が朝廷に許されたら、その後は薩摩と協力して天皇を奉じる

国史大辞典によりますと、第五~六条のせいで「倒幕」のための同盟と勘違いされやすいようですが、当時の薩摩や長州の事情を見てみれば、そうでないことがご納得いただけると思います。

まずは時計の針を1863年に戻して、長州藩の事情から見て参りましょう。

 

長州藩の事情 その①

薩長同盟前の1860年代前半、長州藩は大ピンチでした。

・1863年 八月十八日の政変
・1864年 池田屋事件
・1864年 禁門の変
と立て続けに、京都でフルボッコにされるのです。

八月十八日の政変においては、薩摩と会津によって京都から追い出され。

池田屋事件では武器を隠し持っていた長州藩士らが新選組(≒会津)に襲われる。

さらに禁門の変では、京都で蜂起した長州軍が、再び薩摩と会津にこっぴどくやられ、しかも朝敵認定されてしまいます。
早い話、長州は天皇の敵!とされてしまったのです。

長州とすれば、自分たちが先頭に立って尊皇攘夷(天皇を奉って外国を追い払う)を掲げていたのに、当の孝明天皇から嫌われる――というどうにもならない状況。もはや会津と薩摩を激しく憎むしかなく、履物に「薩賊会(さつぞくかいかん)」という言葉を書いて踏み潰したほどです。

禁門の変(蛤御門の変)を描いた様子/Wikipediaより引用

しかも長州にとっての危機的状況はそれだけじゃありません。

下関戦争(1863年と1864年)によって今度は外国からフルボッコにされ、おまけに第一次長州征伐(1864年)では幕府軍に降参し、家老の切腹等でどうにか話をつけたばかり。
この切腹の流れは、西郷隆盛が単身で長州に乗り込み、交渉をまとめた様子がドラマ『西郷どん』でも描かれていました。

問題は、ここからです。

幕府は、第一次長州征伐での「長州に対する処分が甘すぎ!」と考えておりました。
「もっと寄越せ!」というワケです。

何を寄越せと言ったのか、具体的に申しますと、
・長州藩主父子
三条実美ら5名の公家
であり、彼らを江戸まで送るように命じました。

幕府としてみれば落とし前をつける格好であり、一方、長州藩としては受け入れ難い要求です。

例えば木戸孝允なんかは、
「家老3人の切腹でもう十分に償ったじゃねーか!」
という意識だったと考えられています。

木戸孝允/国立国会図書館蔵

もちろん幕府としてもアッサリ引くわけにもいきません。

そこで1864年の第一次長州征伐に続き、第二次長州征伐を表明、将軍・徳川家茂が江戸から出発しました。1865年5月のことです。

 

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長州藩の事情 その②

今にも幕府軍に攻められそうな長州藩。
両者の軍事力を比較すれば、もう絶体絶命の状況です。

しかし、長州藩も強気です。
高杉晋作が、多くの藩士らの支持を得て、「幕府、来いや!」状態になっていたのです。

高杉晋作/wikipediaより引用

というか、未だ強気な長州だからこそ幕府としても見過ごすワケにはいきません。

徹底的に潰しておかなければ将来の禍根となる。
その読みは非常に的確なものでした。

ここで注目しておきたいのが長州の窮状です。

散々イキがってはおりますが、武器がない。
おまけに味方もいない。

輸入を禁じられていた長州藩は、戦争に必要な外国製の銃を手に入れることもできず、さらには藩として孤立したままの四面楚歌だったのです。

普通だったら今にも心がポッキリ折れそうな状況。
そこで救いの手を差し伸べたのが坂本龍馬と中岡慎太郎です。

彼らが薩摩と長州の両者に手を組むよう働きかけることにしました。

次に薩摩を見てみましょう。

 

薩摩藩の事情 その①

薩摩藩の事情は、いささか複雑です。

学校の授業ですと「西郷さえ押さえときゃALLオッケー!」みたいな取扱をされますが、事はさほどに単純ではありません。

キヨッソーネの版画による西郷隆盛/wikipediaより引用

まず西郷には、藩の方針を最終決定する権利がない。

勝海舟に感化され『内戦やってる場合じゃねー!』と考えていた西郷は、同時に、長州征伐が終われば『次に薩摩が幕府に攻められるのでは?』という危機感を抱いていました。

むろん西郷も、長州に対して不信感はありますが、だからと言って彼等を潰した後に、幕府の矛先が自分たちへ向けられたらたまったもんじゃありません。
よって理屈的に「薩長同盟はアリ」でした。

問題は……島津久光です。

薩摩藩全体の動きを決めるのは、表向きは藩主の島津忠義ながら、実質的にはそのトーチャン・島津久光です。
西郷とは犬猿の仲ですから、何かと息苦しいことこの上なし。

しかし、西郷には強い味方もおりました。
薩摩藩の重臣である小松帯刀と桂久武。更には大久保利通大久保一蔵)らは、久光からの信頼度も高く、西郷の考えを通じ合わせられる仲間です。

彼らを通してならば、久光の同意も得られる。

あとは島津久光が薩長同盟についてどう考えているか?
あるいは、どうやって薩長同盟を納得させるか?

ここが非常に重要でした。

島津久光/wikipediaより引用

 

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薩摩藩の事情 その②

長州藩が薩摩藩を憎んでいたのは前述の通り。
主に京都でのドタバタで追いやられたからであります。

一方の薩摩側も、1863年、同藩所有の商船・長崎丸が長州藩の砲撃で潰され、薩摩藩士28名が死亡するなど、憎悪の念は並々ならぬものがありました。

当然ながら、島津久光に【薩長同盟】を納得させるのは難しい局面だと思われるでしょう。

しかし、幕府の第二次長州征伐に対して久光は、決して乗り気ではなく、寛大な処置を求めていたとも伝わります。

憎くてタマラナイはずなのに、なぜ?

幕末の政局は、薩摩だけが主役ではなく、他にも有力諸藩がおり、久光としても政治力をキープしたい場面です。特にこの頃は、朝廷や一橋慶喜、他の有力諸藩との駆け引きが常態化しており、他藩に対して【影響力】を保持しておきたいのが本心。

さらには坂本龍馬らが、薩摩藩重臣たちにも【薩長同盟】の利を説いて回っておりました。

西郷は、久光を納得させるため小松帯刀と共に会談に臨んだという指摘もあります。

小松帯刀は、薩摩藩の家老です。
重要な局面で臨時的に藩の方針を判断しても良いお偉いさんであり、久光の信頼も篤い人物でした。しかも西郷とは仲がよく、うってつけのポジションであります。

ドラマ『西郷どん』での小松帯刀は、ともすれば西郷より低いポジションにも見えてしまいますが、非常に重要な方だったんですね。

こうしたことから小松帯刀同席であれば薩長同盟の会談に久光の許可は降りていた。
後は実際に会見に挑むだけ。

なのですが、もう一つ、幕府と薩長の事情を見ておきましょう。

小松帯刀(小松清廉)/wikipediaより引用

 

幕府と薩長の事情

1865年5月。
長州を討つため、プレッシャーをかけるため、江戸から京都へ出発した14代将軍・徳川家茂は、その後、大坂城に到着。
まずは長州藩に向かって重臣らの出頭を命じますが、その都度、病気などを理由に断られ、ダラダラと数ヶ月が経過してしまいます。

完全にナメられてました。
この年の9月、幕府としては正式に長州征伐の勅許を得ています。
にもかかわらず、将軍が出陣してこんな体たらくでは、長州以外の他藩からバカにされて当然です。

もちろん幕府側も黙ってはいません。
一橋慶喜が、再び朝廷の威光を利用して諸藩のケツを叩こうとするのですが、今度は大久保利通などの朝廷工作によって邪魔され、いよいよどうにもならなくなってしまいます。

徳川慶喜/wikipediaより引用

こうして幕府がドタバタしている間に、薩摩と長州で、同盟に向けての最終会談が始まろうとしておりました。

仲介したのが坂本龍馬と中岡慎太郎です。
彼らの働きによって薩長同盟が成立した――と物語では描かれがちですが、上記のとおり、薩摩にも長州にも手を結んだほうがよい政治的・軍事的理由があって、後はキッカケ一つだったのです。

あらためて、薩摩・長州・幕府、それぞれの事情を確認しておきましょう。

【長州】
・武器もない
・味方もいない
→薩摩と手を組めば両方手に入る

【薩摩】
・内戦を避けたい西郷
・長州征伐の次は薩摩か?
・兵糧米が不足している
→長州と手を組めば不安が解消される

【幕府】
・長州は責任者、出せよ、ゴルァ!
・薩摩なにやってんの!長州攻めるぞ!
→余裕と思っていた第二次長州征伐がうまくいかず焦る

どうでしょう?
状況だけ考えれば、薩摩と長州が結びつくのは自然の流れとは思いませんか?

しかし同時に、両者の間には、積年の恨みから激しい憎悪の情念が漂っています。
果たして会談なんて、うまくいくのか。

そこでキーマンとなったのが坂本龍馬と中岡慎太郎です。

坂本龍馬/wikipediaより引用

 

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龍馬と慎太郎と薩長同盟

坂本龍馬と薩摩は、以前から親密な関係が築かれておりました。

一方、尊皇攘夷派の志士だった中岡慎太郎は、土佐脱藩後に長州藩で世話になるなど、長州との関係は深いものがありました。

要は、龍馬も中岡も、薩摩と長州を繋げるのに、うってつけの人物だったのですね。

そして龍馬は実際に、自身の亀山社中(後の海援隊)を通じて「薩摩藩から長州藩へ武器を融通する」お手伝いを実行します。

あれほど憎しみ合っていた両藩も、いざ武器の調達が始まると現金なもので、長州藩主の毛利敬親・元徳父子から薩摩藩の島津久光・忠義父子に手紙が送られるなど、両者の関係性は急速に良化するのでした。

毛利敬親/Wikipediaより引用

かくして迎えた1866年1月。
長州藩の木戸孝允が、薩摩との会談に向けて上洛します。

話し合いが行われたのは、小松帯刀が京都の宿舎にしていたという「御花畑」でした。

が、いざ会談が始まると、これが残念なことに全く上手くいきません。
木戸孝允と西郷隆盛が向かい合うと、かつての遺恨やプライドが邪魔して、自分たちから折れるような真似ができなかったのです。

「長州がお願いするなら、まぁ、受けてもいいけど」
「いやいや、そんなこと言ってねーわ!」
「んじゃ、どうしたいワケ?」
「ダメだこりゃ、帰るわ!」
とまぁ、超訳するとこんな感じで、互いに引けなくなっていたのです。

見かねたのが坂本龍馬でした。

「いい加減にせい!」ということで両者に熱弁を奮って態度を軟化させ、難しい局面を乗り越えます。
いかにもドラマチックで、そりゃあ幕末No.1の人気キャラになりますよね。

ともかくも、これにて薩長同盟が成立。

しつこく申しておきますと、あくまでこの時点では倒幕の約束はしておりません。
主目的は、お互いを助け合う――というものでした。

 

薩長同盟その後と慶喜

犬猿の仲である薩摩と長州が密約を交わしていた――。

いくら幕府が催促しようとも、薩摩は一向に重い腰を上げず、ついには1866年4月、大久保利通から「薩摩は長州征伐に参加しない」という建白書が提出されてしまいます。

そして薩摩不在のまま長州へ攻め込み、幕府軍は連戦連敗。
1866年7月には将軍・徳川家茂が大坂城で亡くなってしまい、慶喜は強引に休戦を推し進めて、第二次長州征伐は幕府の事実上敗北となるのでした。

と言っても、スグに幕府が滅びるようなことにはなっておりません。

1867年5月に開かれた四侯会議では、島津久光・松平春嶽伊達宗城らと、15代将軍となった徳川慶喜が対面。
影響力を持とうとした彼らを蔑ろにするかのようにして会合を潰し、同年10月にはあっと驚く大政奉還をやってのけ、明治天皇に政権を返上するのです。

たとえ政権を手放したとしても、徳川一門の経済力は圧倒的です。
さらには長らく政権運営を担ってきたという自負もあり、徳川のチカラなくして政府の運営を行っていくのは無理――という判断をしていたとも伝わります。

しかし、その後の行動は、幕府サイドの人々を落胆させるものでした。

1868年に鳥羽伏見の戦いが始まるや、途中で大坂からトンズラ。
一連の戊辰戦争となり、幕府サイドの藩は、薩長を中心とした新政府軍に敗戦を喫するのです。

かくして薩長を中心とした明治の世が明けるのでした。




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文:五十嵐利休

【参考】
国史大辞典
さつま人国誌 幕末・明治編 3
維新を創った男 西郷隆盛の実像 明治維新150年に問う (扶桑社BOOKS)

 




1位 薩長同盟
倒幕のためじゃない!


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