稲葉一鉄(稲葉良通)

稲葉一鉄(稲葉良通)/wikipediaより引用

斎藤家

稲葉一鉄の生涯|信長に寝返った美濃三人衆の猛将は織田家でどんな働きをした?

2024/11/18

今日用いられている慣用句やことわざの中には、人名や特定の個人に由来する物が少なくありません。

例えば「頑固一徹」。

いかにも手厳しいコワモテオヤジなイメージですが、実はこれ、戦国武将だった【稲葉一鉄(稲葉良通)】からきているのをご存知でしょうか?

一徹(いってつ)

一鉄(いってつ)

名前そのまんまですが、となると気になるのは元ネタになった稲葉一鉄も、さぞかし頑固な武将だったのではなかろうか?というところでしょう。

実はこの一鉄。

美濃三人衆(西美濃三人衆)と呼ばれ、織田信長が美濃へ攻め込むとき、非常に重要な役どころを担った武将でもあります。

大河ドラマ『麒麟がくる』では村田雄浩(むらたたけひろ)さんが演じられ、斎藤高政(斎藤義龍)に色々と陰謀を吹き込む立場でもありますね。

ドラマではなかなか悪人タイプで描かれておりますが、史実では大名として一族は生き残ります。

では、一体いかなる道筋を辿って、子孫にバトンを繋いだのか。

西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄(稲葉良通)/wikipediaより引用

天正17年(1589年)11月19日が命日となる、稲葉一鉄の生涯を振り返ってみましょう。

※「一鉄」は出家後の号ですが、馴染み深いので統一させていただきます

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

六男の稲葉一鉄は幼い頃にお寺へ預けられた

一鉄は永正十二年(1515年)、稲葉通則の六男として美濃で生まれました。

もともとの出自は、伊予国・河野氏の血を引くとされ、祖父の稲葉通貞が何らかの理由で美濃に移り住んだというのが定説であり、伊賀氏の末裔という異説もあります。

いずれにせよ六男ですから、一家を継ぐのは厳しいポジション。一鉄は、幼い頃に崇福寺へ出され、僧侶の道を歩んでいました。

師匠は快川紹喜でした。

あの武田信玄に招かれ甲斐の恵林寺に入った名僧であり、後に「心頭滅却すれば火もまた涼し」というセリフで有名になる御方です。

絵・小久ヒロ

当時のお寺は大学(最高学府)のような機能も有していたので、大名や有力国衆の子息が通うことはそう珍しくありません。

著名なところでは、今川義元もそうですし、足利将軍(義教とか義昭)などもそうですね。

しかし、大永五年(1525年)、突如、一鉄の運命が動き始めます。

【牧田の戦い】で、父と5人の兄達が全員、浅井亮政(長政の祖父)との合戦で戦死してしまうというハードモードに直面したのです。

一鉄は、急遽、実家へ戻ることになり、祖父・通貞と、叔父・忠通に後見されて、家督と曽根城(大垣市)を継ぎました。

このとき満10歳。

つい最近まで寺にいた子供が、武家の当主になるという凄まじい展開です。

 


美濃は土岐家から斎藤家へ

実家に戻った一鉄は、土岐頼芸に仕えていました。

美濃の守護・土岐家の跡取りであり、御家騒動で何かと不運な道を歩まれる方です。

大河ドラマ『麒麟がくる』では尾美としのりさんが演じておりましたよね。

『麒麟がくる』では尾美としのりさんが演じた土岐頼芸(絵・小久ヒロ)

というのも、この頼芸、美濃国内で跡目争いをした後、斎藤道三に下剋上を起こされ、近江へ脱出。

後に快川紹喜を頼って武田信玄のもとへ走るのです。

以降の一鉄は、道三に従うようになり「美濃三人衆(西美濃三人衆)」と呼ばれる重臣の一人にまで上り詰めました。

土岐家から斎藤家へ。

戦国時代の定番である守護の移り変わりで一鉄も浮上していったのですね。しかし……。

 

義龍は甥っ子だったとも……

道三の時代も長くは続きませんでした。

弘治二年(1556年)に斎藤道三と斎藤義龍の親子対立が激化すると、【長良川の戦い】へと発展してしまい、道三が破れてしまうのです。

当然、一鉄も……と思いきや、ここでは義龍の味方をしておりました。

あるいは一鉄という重臣の助力もあったので、斎藤義龍が勝てたという見方もできそうです。

斎藤義龍/wikipediaより引用

ではなぜ、一鉄は義龍に肩入れしたのか?

義龍の母である深芳野が、一鉄の姉だった(つまり一鉄と義龍は叔父と甥っ子の関係だった)ことも影響したという説もあります。

要するに、一鉄からすれば、義兄である道三よりも、血の繋がった甥の高政(義龍)に味方したくなったのでしょう。

 

稲葉山城乗っ取り事件で龍興を見限った

しかし、義龍が亡くなってその息子・斎藤龍興の代になると、雲行きが怪しくなります。

龍興の行状があまりよろしくなかったのです。

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)/wikipediaより引用

一鉄を含む西美濃三人衆(他は安藤守就と氏家卜全)は、たびたび諫言を繰り返し、それでも全く改まりません。

見かねた安藤守就が、娘婿の竹中半兵衛(重治)と共に【稲葉山城乗っ取り事件】というキョーレツな手法で龍興を目覚めさせようとしました。

しかし、それでも何ら効果はありません。

事ここに至り、龍興を見限る決断をした三人衆……。

永禄十年(1567年)に織田信長へ内応すると、電光石火で信長は動き、そして稲葉山城を攻略し、その後は三人とも織田家の家臣となったのです。

織田家での一鉄は、なかなか重宝されたと見受けられます。

足利義昭を奉じて行われた永禄十一年(1568年)の上洛戦に始まり、

永禄十二年(1569年)大河内城の戦い

元亀元年(1570年)金ヶ崎の戦い

元亀元年(1570年)姉川の戦い

など、当時、織田家で行われた主な戦場へ顔を出しております。

 


勇猛と忠誠で知られる三河武士から望まれ

特に【姉川の戦い】では、信長が同盟相手である徳川家康に

「我が家の者も連れて行って構わない」

と言ったとき、家康が一旦断ると、信長が再び加勢を申し出て、

「ならば一鉄殿を」

そう望まれたことがあったといいます。

勇猛と忠誠で知られる三河武士から望まれる――そんな名誉を受けた一鉄を、他の織田家家臣はうらやましがったとか。

話の出典が信憑性の怪しい『名将言行録』ですが、いずれにせよ一定の評価が内外問わず高かったことの現れでしょう。

ちなみに一鉄は、徳川勢と共に果敢に働き、織田勢のピンチにも駆けつけ、信長から勲功第一と賞されました。

織田信長/wikipediaより引用

しかし、そこで「第一は徳川殿です」と譲り、褒美として与えられた”長”の字の偏諱(目上の人が名前の一文字を家臣などに与えること)を断ったといいます。

結局は受け取るのですが、こういうところが「頑固一徹」のタネになったのかもしれませんね。

この後「一鉄」の入道号を用いるようになるので、姉川の戦いの前から出家するつもりでいたのでしょうか。

 

信長に暗殺されそうになった!?

偏諱を固辞したことを恨みに思っていたのか?

信長は数年後、一鉄を殺そうとしたことがあります。

しかしこれは、ねちっこく恨んでいたわけではなく、「一鉄の野郎、裏切ってますよ」というニセの報告があったのでした。

織田信長が伊勢(現・三重県)で長島一向一揆とやりあっていた頃の話です。

偽の報告を聞いた信長は「もし本当なら茶席で成敗してくれる」と一鉄を呼び出しました。

茶室にやってきた一鉄はただならぬ雰囲気を感じ取り、何とか弁明しようとキッカケを探します。

しかし、狭い茶室のこと。

ただ単に申し開きをするだけでは、かえって信長を怒らせかねません。

そこで目に入ったのが、床の間にかけてあった掛け軸でした。

正確に言うと、そこに書かれた漢詩です。一鉄の頭の中に、幼い頃、お寺で学んでいたときの記憶がふっと蘇りました。

彼のお師匠様は「心頭滅却すれば日もまた涼し」の名(迷)言で知られた快川紹喜だったので、脳みそもビシバシ鍛えられていたことでしょう。

漢詩をすらすらと読み上げ、なおかつその意味を解説しながら自分の忠誠を訴える一鉄。

これにはさすがの信長も兜を脱ぎ、「ワシが悪かった。これからも頼む」と疑いを解いたそうです。

芸ならぬ【学は身を助ける】というところでしょうか。

 


東奔西走:凄まじいまでの合戦歴

入道号を名乗るようになったといっても、一鉄はすぐに引退したわけではありません。

信長の上洛(1568年)後、何度も訪れた各地での戦いに参加し続けました。

ざっと挙げていきますと……。

◆元亀元年(1570年)野田城・福島城の戦い→本願寺との戦い

◆元亀元年(1570年)志賀の陣→浅井朝倉との戦い

◆元亀二年(1571年)長島攻め→伊勢一向宗の拠点攻撃

◆元亀四年(1573年)槇島城の戦い→足利義昭を京都から追放

◆天正元年(1573年)一乗谷城の戦い→朝倉義景を滅ぼす

◆天正元年(1573年)長島一向一揆戦→長島一揆勢を攻撃するも織田軍の敗退

◆天正二年(1574年)長島一向一揆戦→長島一揆勢との最後の戦い。信徒2万人を焼き殺す

◆天正三年(1575年)長篠の戦い→武田勝頼との戦いで織田徳川連合軍の快勝

◆天正三年(1575年)越前一向一揆攻め→越前に広がる一揆勢を討伐

◆天正三年(1575年)美濃岩村城攻め→武田に寝返った岩村城の女城主・おつやの方を攻める

◆天正四年(1576年)天王寺の戦い→石山本願寺との戦いで鉄砲の攻撃を受け、信長が脚にケガをする

◆天正五年(1577年)紀州征伐→雑賀衆など紀伊の独立勢力へ攻撃

◆天正五年(1577年)加賀一向一揆攻め→柴田勝家らが100年続いた加賀一向一揆を殲滅

◆天正五年(1577年)播磨国神吉城攻め→三木城の別所氏に続いて神吉氏も秀吉と戦闘

◆天正六年(1578年)有岡城の戦い→信長を裏切った荒木村重を包囲する

凄まじいまでの合戦歴ですよね。

さすが一鉄。名前に負けない働きっぷりですが、彼は武働きだけでなく、軍使を務めたこともあります。

軍使とは、単なるお使いという意味ではなく、場合によっては相手との交渉も行わねばならない重要な役目。

軍使の態度がまずかったせいで、戦や交渉がこじれることもありますから、そういうことも任せられる人物を選ぶものです。

いろいろな方面で、一鉄は信長に見込まれていたんですね。

 

一鉄の孫たちが信長の前で能を披露

どの戦でも一定以上の功績を挙げたため、一鉄は、信長から新たに美濃清水城(揖斐郡)を与えられました。

また、これらの戦の間に、いくつかの逸話が伝わっています。ちょっと微笑ましいものをご紹介しましょう。

天正三年(1575年)7月、信長は京都での政務や公家たちとの交流のため、上洛していました。

その帰り道で、一鉄のもとに立ち寄ったことがあります。

一鉄は喜び、孫たちに能を演じさせて信長をもてなしました。

その中で信長は、一鉄の嫡孫・稲葉典通(当時9歳)を特に褒め、自分が佩いていた刀を与えたといいます。

典通の母=貞通の正室が丹羽長秀の娘ですので、信長も典通のことを我が孫のように思っていたのかもしれませんね。

ちなみに家臣同士に血縁を結ばせるのは織田家の結束を強めるためだと考えられ、例えば明智光秀の娘・明智玉子を、細川藤孝の息子・細川忠興に嫁がせたのも有名でしょう。

明智玉子は後に細川ガラシャと名乗り、戦国の悲劇を迎えております。

 


武田征伐には不参加 本能寺が勃発して……

一鉄は天正七年(1579年)に家督を嫡子・稲葉貞通に譲ると、その後は美濃清水城に移りました。

1515年生まれとすれば、この時点で60代半ばということになります。

当時としては充分長生きの部類ですし、隠居するにはいい頃合いだったでしょうね。

このため、天正十年(1582年)の武田征伐には参加していません。凱旋した信長を自領内で饗応したそうですから、健康には問題なかったようですが。

また、同じ頃に武田領へ逃げていた一鉄の旧主・土岐頼芸が発見されています。

頼芸は一鉄の働きかけにより美濃へ帰ることができ、余命の半年間を過ごしたといわれていますので、この饗応のときにも何か聞いたかもしれませんね。

直接会ったかどうかまではわかりませんが、機会があれば美濃時代の昔語りでもしたのでしょうか。

それから3ヶ月ほど経って、【本能寺の変】が起こります。

『真書太閤記 本能寺焼討之図』(渡辺延一作)/wikipediaより引用

隠居の身とはいえ、一鉄も無関係ではいられません。

美濃の国人衆に呼びかけ、甥の斎藤利堯を擁立し、美濃の独立を試みました。

しかし、これまでの間に信長から追放されていた安藤守就が明智光秀と組み、一鉄らを攻撃してきたため応戦。

守就らを破ります。

光秀は山崎の戦いですぐに敗死したものの、美濃は信長という統制者を失って、混戦状態に陥りました。

こんなところにも本能寺の変の余波が来ていたんですね。

 

最後の合戦は小牧長久手だった

こうした状況のさなか、一鉄は、外孫あるいは姪とされる福(のちの春日局)を稲葉家に引取り、養育しています。

また、のちに福の夫となる稲葉正成は、一鉄の息子・稲葉重通の養子です。

色々と重要な歴史の繋がりを持つ御方だったんですね。

美濃で頑張っていた一鉄は、清須会議の後、豊臣秀吉に従うことを選びました。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

そして天正十二年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは久々に武働きをしていますが、これが最後の戦となりました。

秀吉との特筆すべき逸話はありません。

九州征伐から帰ってきた秀吉を饗応したり、逆に秀吉から大坂城の茶室に招かれたりしているので、まずまず良好な関係だったのでしょう。

その後は特にトラブルもなく、天正十六年(1588年)11月19日に、美濃清水城でこの世を去っています。

享年74。

ドラマチックな相続に始まって、多くの戦に参加した武将としては珍しく、畳の上での往生でした。

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【参考】
国史大辞典
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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