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杉原千畝の自筆ビザ/Wikipediaより引用

明治・大正・昭和時代 その日、歴史が動いた WWⅡ

杉原千畝はユダヤ人1万名をどう救った?命のビザを発給し続けた異例の外交官

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こと日本人の悪い癖の一つに、「一度決まったことをなかなか変更しようとしない」というものがありますよね。
予定や方針、ただの慣習など、その例は枚挙に暇がありませんが、ときには“決まりよりも優先”せねばならないこともあります。
本日はその中でも最大といっても良さそうな偉業を成し遂げた人のお話です。

昭和六十一年(1986年)7月31日は、第二次世界大戦中にユダヤ人に「命のビザ」を発行し続けたことで有名な杉原千畝が亡くなった日です。
どうでもいい話ですが、誕生日が明治三十三年(1900年)1月1日という実に覚えやすい人だったりします。へぇへぇへぇ。

一番有名なエピソードが「命のビザ」ですので、さぞ若い頃からデキた人だったのだろうと思いきや、意外とそうでもありません。
本日はあまり知られていないプライベートな面も含めて、この方の人生を追いかけてみましょう。

杉浦千畝/Wikipediaより引用

杉原千畝/Wikipediaより引用

【TOP画像】杉原千畝の自筆ビザ/Wikipediaより引用

 

南方や白洲にも似た奇抜な言動

杉原は、12歳の頃には現在のオール5にあたる成績で旧制小学校を卒業しています。

つまり間違いなく頭は良い人なのですが、言動がそぐわないというか頭が良すぎて常人に理解できないことがままありました。
例えば、父に「お前は頭がいいんだから医者になれ」と言われても嫌がり、ただ拒否するのではなく「答案を白紙のまま出した上、弁当だけ食べて帰ってきた」という話があります。よくその時点で勘当されなかったものです。

そうまでして本人は何になりたかったのかというと、英語の教師でした。
そこで早稲田大学の英語科(現在の同学教育学部英語英文学科)を受験し、見事合格。しかしそこでも「破れた羽織にノートを突っ込み、ペンを帽子にはさんで肩で風を切って歩いていた」そうです。
「こうしておけばいつでもメモが取れて合理的だから」という理由だったそうなのですが、その発想はどこから来たのかぜひご教授いただきたいものです。

早稲田大学の英語教師といえば夏目漱石ですが、もし漱石が杉原の姿を見たら、さらに胃を悪くしていたかもしれません。
※杉原が入学する二年前に漱石は亡くなっています。

にしても、南方熊楠といい白洲次郎といい、ナゼ、この時代の秀才たちはやたらと奇抜な言動をするんでしょうかね。近い時代だから記録がはっきりしているだけで、本当はもっと昔からこういうタイプの人はいたのかもしれませんが。
奇抜かつ優秀なそのお二人については以前取り上げていますので、以下の記事でぜひ。
過去記事:キテレツな大天才!南方熊楠(みなかたくまぐす)先生の面白人生【その日、歴史が動いた】
欧米よ!これが日の本の野蛮な紳士だ!白洲次郎の5つの名言【その日、歴史が動いた】

 

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学費工面のため猛勉強→見事、外務省の試験をクリアする

まあそんなわけでいろんな意味で目立ちながらも、杉原は勉学に励みました。

ただし、父に徹頭徹尾逆らっての進学でしたので、学費や生活費は牛乳配達などで稼ぐなど、お金には大いに苦労。それでも全額を工面するのは難しく、困っていたところにとある新聞記事が目に飛び込んできました。

外務省が留学生を募集していたのです。

受験資格は旧制中学卒業者&満18~25歳以上という比較的ゆるいものでしたが、受験科目には国際法を含めた法学や経済学などが規定されていて、大学もしくは旧制高等学校の卒業者でもなければ不可能な試験でした。
これに「やってやろうじゃないか!」と燃えた杉原は、図書館にこもってロンドンタイムズなどの英字新聞やアメリカの雑誌から生きた英語を学び取り、見事合格を果たします。

そして早稲田大学を中退し、ハルビン(現在の中国東北部・黒龍江省)にあった日露協会学校へ留学しました。
このあたりはロシアとの繋がりも深かったため、杉原もロシア語を学んでいます。
「ポケット露和辞典を二つに割って服の左右のポケットに入れ、少しでも時間があれば1ページずつ暗記して捨てていく」というこれまた奇抜な学習方法だったようです。
いくら”ポケット”とついていても、実際に辞典をポケットに入れて勉強した人はそうそういないでしょうね。しかし、これが後々大きな財産となりました。

 

ロシア人と間違えられるほどロシア語が上手だった!?

その後、時勢が時勢ですので、杉原も志願兵として一時陸軍に入っていました。

上記の猛勉強振りのおかげで、特にロシア語の成績は素晴らしく、「現地への留学生と同等かそれ以上」とまで評価。後年、杉原がロシア人と話しているところを聞いた人が「ロシア人同士の会話かと思った」と言っているほどですから、才能と努力が見事マッチしていたのでしょうね。
このため、杉原はロシア語の教師を数年間勤めたあと、外務省に採用されてハルビンの日本領事館で働くことになりました。
弱冠26歳にして、外務省のお偉いさんから「杉原の書いたロシアの資料はとても役に立つので、出版します」(意訳)とまで評価されています。

ソ連との交渉もしており、帝国時代にロシアがハルビン近辺に建設していた鉄道の譲渡をめぐっては、当初要求された額を約1/4に値切っています。
これだけでもすごいですが、当初の値段が日本の国家予算の1割くらいだったらしいので、ソ連の出鼻を見事へし折ったことになりますね。実に痛快です。

 

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いったんは領事館で働くものの飛び出し、再び外務省へ

が、そのままロシア関連の役職に就くかと思えばそうでもなく、自ら退任してしまいました。
日本が大陸へ進出するのを快く思っていなかったからです。
ついでに言うと、当時ロシア系の女性と結婚していたのですが、彼女のことを軍が「ソ連のスパイ」と疑ったために離婚しています。妻を嫌いになったわけではなく、日本の事情に無関係な人を巻き込みたくなかったのでしょうね。

その証拠といえるかどうかはわかりませんが、ハルビンで勤めていた頃の収入はほとんど妻に渡してから別れています。
まさに無一文状態で帰国したらしいので、家族はさぞ驚いたでしょう。

帰国後は知人の妹である日本の女性と再婚し、外務省で再び働き始めました。
杉原に能力があることは外務省のお偉いさんもわかっていたので、この時点ではお咎めもなく復帰し、次はフィンランドの首都・ヘルシンキの日本公使館に任じています。
杉原はソ連・モスクワの日本大使館に行きたかったようですが、ソ連側が「ソイツなんか怪しいからヤダ」(超訳)とゴネたために適いません。
二年ほどヘルシンキで働いた後、リトアニア・カウナスの日本領事館で領事代理となります。
ここが「命のビザ」の舞台になった場所ですので、ご存知の方もいらっしゃるでしょうかね。
ちなみに、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まったのは、杉原がカウナスに着任した4日後のことでした。ちょっとでも遅れていたら、「命のビザ」もなかったかもしれませんね。

カウナスに残る旧日本公使館/Wikipediaより引用

 

積極的に救うとヤバい……されど通過は許可しないこともない

カウナスは当時、諸々の事情でリトアニアの暫定首都になっていました。が、日本人は一人もおらず、着任直後の杉原に「日本や日本人について教えてほしい」とインタビューをしに来るマスコミが多々いたとか。

とはいえ、第二次世界大戦、そしてヨーロッパ戦線といえばユダヤ人への迫害。そして戦争につきもの避難民をなしに語ることはできません。
これは杉原の着任時点でも水面下で問題になっており、当時の外務大臣から「ユダヤ人を積極的に救おうとすると角が立つから、あくまで“避難民”と呼ぶように」、「わが国の本土や外地へ入るのは好ましくないが、通過は許可しないこともない」(意訳)といった指示が出されていました。

そんな中で、ユダヤ人を取り巻く状況は徐々に厳しくなっていきます。




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当時のポーランドやリトアニアには有名なユダヤ教の学校があり、ヨーロッパ各地からユダヤ人が集まっていたため、真っ先に目をつけられるのは明らかでした。また、母国がドイツへ降伏したために、知らない間に難民になってしまっている人もたくさんいたのです。
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