真岡郵便電信局事件

九人の乙女の像/photo by 100yen wikipediaより引用

明治・大正・昭和

真岡郵便電信局事件で散った乙女たち ソ連軍の侵攻前に集団自決

昭和二十年(1945年)8月20日は、真岡郵便電信局事件が発生した日です。

映画『樺太1945年夏 氷雪の門』やドラマ『霧の火 樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち』などで扱われて多少知名度が上がりましたが、生存者への配慮等からいくらかの脚色がなされています。

以下、より事実に近い内容に触れていきますが、生存者の方、ご遺族の方、並びに関係者の方への責任追及・誹謗中傷等の意図は全くございません。

そのため個人名を挙げることは控えさせていただきます。

先に、この事件において要点となる「電話交換手」という仕事について見ておきましょう。

 


女性憧れの職業だった電話交換手

戦後間もない当時の電話は、直接相手の番号に書けることが出来ません。

一度、電信局へかけてから「この人に繋いでください」と頼まなければなりませんでした。

このとき必要に応じて「電話」の線を「交換」する仕事が電話交換手です。

力が要らないことから女性の仕事として非常に人気が高く、憧れの職業でもありました。

現在はこの仕組みが完全に自動化されておりますが、まだ交換手を介して電話をかけることもできるそうです。

人が関わるぶん通話料が割高になるので、おそらくほとんど使われていないのでしょう。

一部の国への国際電話についても、わずかながら交換手を介する場合があるとか。

このため今も「電話交換手」で検索すると求人が出てきますが、こちらは企業の代表電話をそれぞれの担当部署へ繋ぐ仕事のことです。

メーカーのサポート担当やカスタマーセンターを想像していただけるとわかりやすいでしょうか。

さて、それでは事件のあらましをもう少し前から見ていきましょう。

 


彼女たちは自ら残留を志願した

樺太については、幕末から帝政ロシアとの間で領有権を巡って対話や紛争が起きていました。

そして1945年8月9日にソ連軍が参戦を表明、11日に樺太へ侵攻してきたのです。

14日にポツダム宣言の受諾が決まり、15日に玉音放送で正式に敗戦が決まった後も、ソ連軍の侵攻は止まりませんでした。

16日に婦女子の引き揚げが決まり、郵便局の職員についても順次引き揚げるよう局長から命令が出ています。

局長は「残ればどうなるか」、つまり略奪・殺害・性的暴行の可能性を説きました。

しかし彼女らは、電話交換手という自らの職務に絶対の責任を感じ、残留を志願するのです。

感情的になると冷静な判断ができなくなるということをわかっていた上長たちは、その場では決めず、一度家に帰って家族と相談するようにと言いつけてこの日は終えています。

家族との相談の結果、引き揚げることになった交換手もいました。

しかし、残留を決めた交換手は、引き揚げる者たちへ恨むどころか励ましの言葉を送ったそうです。

結果的に、19日の時点で12名の交換手と他の郵便職員7名が残りました。

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