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その日、歴史が動いた ロシア 明治・大正・昭和時代 WWⅡ

真岡郵便電信局事件の悲劇 ソ連の対日参戦で樺太に散った哀しき乙女たち

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歴史は日々作られるものです。
よくよく考えれば当然ともいえますが、なかなか実感がわきませんよね。スポーツや科学技術の世界では「歴史に残る記録」という話題が出やすい気がしますけれども。
それだけに、ごく近い時代の事件、特に第二次世界大戦時下の事件についてはあまりにも生々しく、これまで当コーナーでは取り上げるのを控えておりました。

しかし、戦後70年を迎え、当事者や近しい方々が世を去りつつある時代になってきたからこそ、戦勝国も敗戦国も関係なく、互いに事実を冷静に受け止め、次代に伝えていくことが肝要と考えます。
真実が隠されることは、ときに感情を爆発させ争いを呼ぶ原因になってしまうと思いまして。

昭和二十年(1945年)8月20日は、真岡郵便電信局事件が発生した日です。

この事件は映画「樺太1945年夏 氷雪の門」やドラマ「霧の火 樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち」などで扱われて多少知名度が上がりましたが、生存者への配慮等からいくらかの脚色がなされています。
以下、より事実に近いと思われる内容を述べていきますが、生存者の方、ご遺族の方、並びに関係者の方への責任追及・誹謗中傷等の意図は全くございません。そのため、個人名を挙げることは控えさせていただきます。

先に、この事件において要点となる「電話交換手」という仕事についてお話しておきましょう。

【TOP画像】ソ連対日参戦/wikipediaより引用

 

女性憧れの職業だった電話交換手

戦後間もない当時の電話は、直接相手の番号に書けることが出来ず、一度電信局へかけてから「この人に繋いでください」と頼まなければなりませんでした。
このとき、必要に応じて「電話」の線を「交換」する仕事が電話交換手です。
力が要らないことから女性の仕事として非常に人気が高く、憧れの職業でもありました。

現在はこの仕組みが完全に自動化されているのですが、まだ交換手を介して電話をかけることもできるそうです。人が関わる分通話料が割高になるので、おそらくほとんど使われていないのでしょう。一部の国への国際電話についても、わずかながら交換手を介する場合があるとか。

このため今も「電話交換手」で検索すると求人が出てきますが、こちらは企業の代表電話をそれぞれの担当部署へ繋ぐ仕事のことです。メーカーのサポート担当やカスタマーセンターを想像していただけるとわかりやすいでしょうか。

さて、それでは事件のあらましをもう少し前から見ていきましょう。

 

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彼女たちは自ら残留を志願した

樺太については、幕末から帝政ロシアとの間で領有権を巡って対話や紛争が起きていました。
そして、1945年8月9日にソ連軍が参戦を表明し、11日に樺太へ侵攻してきたのは既に以前の記事(過去記事:ソビエトを信用しすぎて対応が遅れた!? 太平洋戦争が終わるまで【その日、歴史が動いた】)でも述べた通りです。
しかし、14日にポツダム宣言受諾が決まり、15日に玉音放送で正式に敗戦が決まった後も、ソ連軍の侵攻は止まりませんでした。

16日に婦女子の引き揚げが決まり、郵便局の職員についても順次引き揚げるよう局長から命令が出ています。
局長は「残ればどうなるか」、つまり略奪・殺害・性的暴行の可能性を説いたが、電話交換手という自らの職務に絶対の責任を感じていた彼女らは自ら残留を志願しました。
感情的になると冷静な判断ができなくなるということをわかっていた上長たちは、その場では決めず、一度家に帰って家族と相談するようにといいつけてこの日は終えています。

家族との相談の結果、引き揚げることになった交換手もいました。
しかし、残留を決めた交換手は、引き揚げる者たちへ恨むどころか励ましの言葉を送ったそうです。
結果的に、19日の時点で12名の交換手と他の郵便職員7名が残りました。


霧の火-樺太・真岡郵便局に散った9人の乙女たち- [DVD]

 

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ついにソ連軍が侵攻開始 防空壕で亡くなった人も…

そして20日早朝、ついにソ連軍が真岡に侵攻を始めました。このとき、郵便局へ向かう途中で射殺された職員や、防空壕に避難しているところへ手榴弾を投げ込まれて亡くなった人もいたといわれています。
局長は郵便局へ向かおうとしたが、射撃により負傷したため、白旗を揚げて降参しました。その後、他の一般人と共に港の倉庫へ連行されています。

この局長の行動を責める向きもあるようですが、個人的には少し違うように思います。

もちろん局長も人間ですから、命が惜しかったというのはあるでしょう。しかし、もし生き残れた人が他にもいたら、そうした人々をまとめるためにも、直接の上長、あるいは「町内の人にそれなりに顔が知られていて、ある程度の職責を持つ人」の存在はとても重要です。
彼の行動を卑怯者だと謗るのは非常に簡単ですが、もしかしたら背景にはそういう考えがあったのではないでしょうか。

一方、真岡郵便電信局ではいよいよ「そのとき」が近づいていました。

 

12人中9人が青酸カリなどの自決で亡くなられた

当時、真岡郵便電信局は本館と別館に分かれており、電話交換業務は別館で行われておりました。

が、市街戦の激化により、電話交換手たちは孤立化。いよいよと覚悟を決めた交換手の班長が北海道の郵便局に電話し、最後の言葉を伝えた後、青酸カリやモルヒネによる自決が始まりました。
結果、12人中9人が死亡。他3名は後からやってきた男性職員に救出され、郵便局本館でソ連軍に投降します。
本館でも当初交換手たちを含む女性職員は押入に隠れ、男性職員がソ連兵に対応して何とか命が助かったといわれています。金品は奪われたそうですが、致し方ないことですね。

交換手たちを救出した人とソ連兵に対応した人が同一人物であるかどうかは不明ですが、この男性職員についてももっと知られるべきではないでしょうか。
全員を助けることはできなかったにしても、自分を含めてその時点で生きている人が全員助かっているのだから、有り体に言えば勲章ものの働きだと思うのですが、何故かほとんど記録がないのは解せないところです。

ちなみに、他の終戦前後の事件についても、女性の安否を確かめるために、危険な状況下で様子を見に行った男性たちの話はいくつかあります。残念ながら、全ての結果が良かったわけではないのですが……。

どちらがどうという話でもないですけれども、沖縄のことが知られているのに対し、真岡郵便電信局事件や上記の引き揚げ船沈没などについてはあまりにも知られていません。

時には見るに忍びないという言葉では足りないような写真も数多く出てきますが、平和を願う上で一度は真正面から向き合ってもよいのではないでしょうか。私のような名も無き書き手としては大変おそれ多いことながら、そんな風に考えてしまうことがあります。

長月 七紀・記

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参考:真岡郵便電信局事件/wikipedia

 

 





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