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その日、歴史が動いた 鎌倉・室町時代

大内義弘と応永の乱 蜜月だった足利義満との間に生まれた疑心暗鬼が膨らみ、そして弾ける

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よく知られている四字熟語の一つ「疑心暗鬼」。
歴史上でも、用心が度を越して、かえって自ら窮地に飛び込んでしまった……という例は多々あります。
その中には、「当事者同士で腹を割って話せば、ここまでにはならなかったのでは?」と思うようなことも珍しくありません。
本日はその一例になりそうな、とある守護大名のお話です。

応永六年(1400年)12月21日は、守護大名の大内義弘が応永の乱に敗死した日です。

まだ応仁の乱も起きていない時代に、一体何がどうしてそうなったのでしょうか。

 

父の弘世は南朝方で室町幕府とは敵対していたが

戦国時代で「大内家」といえば、毛利元就の出世と引き換えに、歴史の表舞台から消えていく家ですよね。
陶晴賢に裏切られ、その陶が元就に討たれる厳島の戦いがありました。

大内家は渡来人の末裔と称している家の一つですが、同じような伝承がある長宗我部氏ほどハッキリした記録はありません。現在の研究では「たぶん自称だろう」とされています。

それでも、古くから周防(現・山口県)に根ざしていたことは間違いないとみられていて、義弘の父・弘世は南北朝時代に南朝方として働いていました。
つまり、元々室町幕府とは敵対関係だったのです。

しかし、義弘は家督を継ぐ前から幕府への忠誠心があったのか、父に逆らってまで幕府の命令に従ったことがありました。

その態度は早くから認められ、父の死後、弟・満弘と家督争いをしたときも三代将軍・足利義満が味方してくれています。
最終的に、家督と領地の大部分を義弘が、石見(現・島根県)を満弘が相続することで決着しました。はじめから話し合いでそうしろと。
後に満弘は豊前(現・福岡)に国替えしているのですけれども、そのときには揉めていないので、元々話ができる相手だったんじゃないかと思うのですが……若気の至りってやつですかね。

 

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足利義満に帰順した義弘は卑屈なほどの忠誠心っぷり

一方、ときの室町幕府は義満が大なたを振るっている頃でした。
室町幕府は初代・尊氏がアレな感じだったため、鎌倉幕府と比べて将軍の権力が弱く、守護大名からナメられがちだったからです。
義満はこれを何とかすべく、京都・室町に花の御所を作ったり、将軍の直轄軍である奉公衆を拡大したりして、権威拡大に努めました。

義弘はそうした状況の中で、当初から義満に帰順する姿勢を明らかにします。
例えば、厳島神社参詣のために義満がやってきたとき、義弘はお出迎えと随伴をし、さらに帰京時のお供をして上洛しています。ちょっと卑屈なほどの忠誠ぶりです。

義満にとってもこれは願ったり叶ったりというところで、これ以降義弘を幕府の役職に引き立てました。
また、義満が他の広大な領地を持つ守護大名を攻めるとき、義弘を重用するようになります。義弘もよく応え、敵将を一騎打ちで破るという派手な武功も挙げ、領地を増やしてもらいました。

武働きだけでなく、南朝と幕府の折衝を行ったり、国人などの収入を保証してやったり、政治的な働きも少なくありません。
幕府からは大陸方面で悪さをしていた海賊(倭寇)の取り締まりや、高麗・明との貿易も任されており、八面六臂の大活躍というところです。

 

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金閣寺造営をめぐって二人の仲が微妙な空気に

義満はこうした働きを認め、義弘を将軍家に準じる扱いにまでしています。義弘も変わらず忠誠を誓い、義満が出家した際には自分も頭を丸めるほどでした。
どこからどうみても、「改革を進める主とその忠実な部下」という感じですよね。

しかし、義満が北山第(現在の金閣寺)の造営のため、諸大名に工事の人手を出すよう命じると、義弘がただ一人反対したことから、何やら良からぬ空気が漂ってきます。

なぜ、これに限って義弘が拒否したのか?
というと、「武士は武で奉公するもの」というポリシーがあったからです。確かにそれはそうなんですが、「ただ一人」というところも義満の脳裏に引っかかったようです。

それでもその後、少弐貞頼という人が謀反を興した時、義弘が討伐を命じられているので、工事の拒否は大きな問題にはならなかったと思われます。
しかしこの討伐の際、満弘が討ち死にしたにもかかわらず、満弘の息子に恩賞がなかったため、義弘は不満を感じます。義弘は弟の仇討ちとして少弐家を滅ぼし、代わりに当てました。

さらにこの間「義満が少弐家をけしかけて大内家を弱めようとしている」という噂を聞き、義弘は「今度は自分たちがやられる」と恐れるようになります。

そして九死に一生をかけて、義満を討ち家を残すために兵を挙げました。最終的に謀反起こしたら結果同じやろ(´・ω・`)

 

義満も懐柔しようと思ったものの、ついには討伐命令

義弘はかつて義満に勢力を弱められた守護大名やその縁者、比叡山などの寺社勢力、旧南朝方の武士たちと連絡を取り、連携しようとしました。
これに対して、義満の勢力が上回り、うまく行かずに失敗。
義満もやりすぎたと思ったのか、義弘を懐柔しようとしたこともありました。

しかし、義弘はもう後戻りできないと考えており、降伏を拒否します。多少は迷ったようですけれどもね。

懐柔できないと悟った義満は、正式に義弘討伐の命令を出します。
その知らせを聞いて義弘も覚悟を決めました。自身の葬儀と四十九日の法要を執り行い、周防にいる母宛てに形見の品々と手紙を送るほどです。これでは勝って帰ったとしても、自分が生き残るつもりはなかったかもしれません。

最後の闘いは、堺の地で始まりました。
義満は細川・赤松・畠山・斯波家など、室町時代でお馴染みの守護大名らを動員、約3万の兵を率いて大内軍を攻めます。

対する大内軍は士気も高く、よく戦い、何度も足利軍を撃退しながら、火攻めをかけられると劣勢に傾きます。
しかし、家臣の多くが討ち死にし、自ら戦い続けた義弘も、最後は畠山満家に討ち取られました。
義弘とともに堺へやってきていたもう一人の弟・弘茂も後を追おうとしたものの、思いとどまり、義満に降伏することを選びます。

応永の乱/wikipediaより引用

 

義弘の菩提を弔うために瑠璃光寺五重塔を建立

義満は弘茂の降伏を受け入れ、大内家の家督を継ぐことを認めました。
義弘が何を思って兵を挙げたか、義満にはわかっていたんですかね……。

実際、この後、周防に残っていた別の弟・盛見(もりはる)が反対し、今度は家督争いが始まります。
最終的には盛見が弘茂をブッコロして勝利。文字通り骨肉の争いに終止符を打った後の盛見は、義弘の菩提を弔うために瑠璃光寺(るりこうじ)五重塔を建立します。
おそらくや義弘と弟たちの関係は悪くはなかったのでしょう。

瑠璃光寺五重塔(国宝)/wikipediaより引用

現在、これは大内家の文化を象徴するものとして、国宝になっています。
大内家はその後もたびたび家督争いを起こすものの持ち直し、応仁の乱でも一大勢力として関わりました。京がいろんな意味でボロボロになったときには、多くの公家が大内家の庇護を求めてやってきたほどです。

まあ、その後に義隆とダメダメな仲間たちが痴情のもつれやアレコレやった末、元就に滅ぼされてしまうんですが。
義弘が詳しい経緯を知ったら「この軟弱者がッ!!!」とブチ切れそうです。

長月 七紀・記
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参考:大内義弘/wikipedia 応永の乱/wikipedia 今日は何の日?徒然日記

 





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