天下人として広く知られる織田信長。
その後、豊臣秀吉を経て徳川家康と続き、戦国時代に終わりを告げるわけですが、実は信長の前に「天下人だったのでは?」と評価される人物がいます。
三好長慶(みよしながよし)です。
この長慶、なんと11歳の若さで政局に引っ張り出されると、あれよあれよと出世を果たし、畿内に勢力を築きました。
大河ドラマ『麒麟がくる』で吉田鋼太郎さんが演じて話題となった、松永久秀を家臣に従えていたことでも知られます。
では、史実の三好長慶はいかなる人物だったのか?

三好長慶/wikipediaより引用
大永2年(1522年)2月13日に生まれた長慶の足跡を追ってみましょう。
之長~元長に続く三好長慶
三好長慶は大永2年(1522年)、三好元長(もとなが)の子として生まれました。
三好家はもともと阿波に拠点があり、元長の父である三好之長(ゆきなが・長慶の祖父)が細川澄元を支えたことで一躍名を馳せます。
この澄元が細川京兆家(ほそかわけいちょうけ)のトップであり、上洛して権勢を振るうのに、之長も尽力したのですね。
細川京兆家は、室町幕府内の最有力ポスト「管領」を代々歴任してきた名門一族でした。
ここに付き従うことで三好家も勢力を拡大させてきたのです。
しかし……。
之長自身の粗野な振る舞いもあり、主君の澄元と共に権力争いに敗れると、再び阿波へ逃亡。
最終的に之長は権力争いに敗れ、自害へと追い込まれています。
その子であり、長慶の父である三好元長は「敗者の息子」として長く潜伏を強いられました。
いったんは沈んだ三好家ですが、すぐにチャンスはやってきます。
なんせ当時の畿内は【応仁の乱(応仁・文明の乱)】以来、

応仁の乱を描いた『真如堂縁起絵巻』/wikipediaより引用
政治情勢が極めて不安定であり、足利氏やら細川氏やら、常に幕府の有力者たちが権力を巡って争い続けていました。
元長も、澄元の息子・細川晴元らと共に立ち上がり、商業都市として知られる堺を制圧。
近年では「堺幕府」とも呼ばれる新たな政治体制を樹立し、三好氏の立場も安泰になるかと思われました。
しかし、そう容易く収まらないのが戦国乱世の常です。
一向宗も敵に回し父・元長は敗死
三好元長と細川晴元はやがて軋轢を深め、天文元年(1532年)には堺幕府の内紛も相まって戦に発展します。

三好元長/wikipediaより引用
晴元は元長を倒すべく山科本願寺と結託。
一大勢力である一揆衆をも敵に回してしまった元長は、10万とも20万とも言われる大軍によって本拠・堺を包囲されてしまいました。
「もはやこれまで……」
敗北を悟った元長は、妻と千熊丸(後の三好長慶)を地元であった阿波へと逃がします。
そして最期の一戦を遂げて自害。
このとき、長慶はまだ11歳でした。
普通に考えれば、長慶もまた父が置かれていた状況と同じ「敗者の息子」として、雌伏の時を過ごすと流れになる場面でしょう。
しかし、当時の京都はそんな状況はお構いなしに荒れておりました。
長慶自身がかなり聡明な少年だったとされ、驚異的な若さで畿内の政局へ引っ張り出されていくことになります。
大変だ 一揆勢が暴徒化し止められない
なぜ、さほどなまで急速に、長慶は復権できたのか?
そこには細川晴元の判断ミスがあったことが要因として挙げられます。
先ほど「山科本願寺をけしかけて一揆を引き起こさせた」と記しましたが、問題は元長を追い落とした後でした。
戦に駆り出した一向宗が完全に「暴走化」してしまい、晴元にも止められなくなってしまったのです。

山科中央公園にある山科本願寺の土塁跡/wikipediaより引用
それどころか一向宗のトップである本願寺証如でさえも暴徒たちを治めることができず、いつしか晴元自身が生命の危機にさらされてしまいました。
一向一揆は本当に恐ろしい集団です。
例えば【越前一向一揆】なんかも、非常によく似た展開で大きなトラブルに発展しております。
簡単に説明しておきますと……。
越前では、朝倉家滅亡の後、旧朝倉家臣団の内紛が起き、助っ人に呼ばれた加賀の一向宗徒たちが暴徒化。
越前の一揆勢を巻き込んで武士勢力を追い出し、一時は「百姓の持ちたる国」になっていたのです。
この越前一向一揆を鎮圧するため、後に織田信長は5万の織田軍全力で取り掛かるほどでした。
畿内で細川晴元を追い込んだ一揆勢も同様に恐ろしい集団だったのでしょう。
天文2年(1533年)、一揆衆に押された晴元は、ついに淡路島まで逃亡することを余儀なくされ、その後は晴元派の家臣や法華一揆衆の力も借りてようやく戦況を五分に戻せるような状態。
ようやく一息ついたところで新たな懸念が浮上します。
同じ頃、京都にほどちかい丹波国で、細川晴国が台頭しつつあったのです。
12歳の若さで晴元と一揆勢の和睦をまとめる
細川晴国は、かつて晴元が権力の座から引きずり落とした細川高国の弟です。
高国は一時期、畿内で政権運営を担っていたほどのヤリ手であり、晴国がその勢力を率いているとあらば、今後の難敵になりかねません。
「もはや一揆衆と争っている場合ではない!」
そう考えた晴元は、ある人物の仲介によって、無事、講和を結ぶに至ります。

細川晴元像/wikipediaより引用
ある人物とは、他でもありません。
三好長慶です。
このとき長慶、弱冠12歳という若さながら、和睦の仲介人として交渉をまとめたと伝わります。
いくらなんでも12歳で交渉の全権を担うのは異例のことであり『本当に長慶が交渉したのか? 単なる逸話ではないのか?』と思ってしまうかもしれません。
しかし、仲介人として史料に名が残されており、少なくとも名目上は彼が和睦のキーパーソンであったことは間違いない様子。
近年の研究でも「本願寺側は父の仇として自分たちを強く憎んでいるであろう長慶との関係改善を望んでいた」という可能性が指摘されており、若年とはいえ長慶の存在は大きかったのです。
かくして交渉をまとめた長慶は、元服して晴元の家臣に舞い戻ります。
もちろん、その感情は少なからず複雑だったことでしょう。
そもそも長慶の父が一揆衆相手に敗死したのも、細川晴元が仕掛けたからです。その晴元のトラブルを自らが解決せねばならないなんて、そんな理不尽な話なんてありません。
長慶は、それでも交渉をまとめたのでした。
晴元との対立が表面化! ついに近江へ追い出す
晴元に仕えてから、長慶は何度も合戦や政争に巻き込まれました。
高国の後継者を名乗る細川氏綱や旧高国系の国衆、さらには足利義晴・足利義輝親子らを相手に奮戦を重ね、ギリギリのところで晴元政権を支えたのです。

足利義晴/wikipediaより引用
これらの勝利は、紛れもなく長慶を含めた三好一族の軍事力によるもの。
権力の座に就く晴元本人の実力ではありません。
長慶は、自身と主君の力量を冷静に比較しつつ、虎視眈々と「反逆」の機会を窺っていたことでしょう。
そんな天文17年(1548年)のこと、ある事件が勃発します。
いささか複雑ですので、順を追って説明しますと……。
まず細川晴元が、「細川氏綱に協力した」という理由で池田信正を自害へ追い込みました。
その後、長慶と同じ三好一族ながら関係の冷え込んでいた三好政長が、池田家の後継者として自身の孫を擁立。このゴリ押しが、池田家に内乱を生じさせます。
長慶は晴元の側近らに相談しました。
「政長とその息子・三好政生(まさなり)は池田家を我が物にせんとしております。我々の手で成敗いたしましょう」
これに対し晴元は、まともに取り合おうとしなかったので、長慶はついに自身の判断で挙兵。
表向きは「政長親子を討つ」という名目で出陣します。
しかし、実はこれこそが「父の仇」への復讐でした。
強大な軍事力を誇る長慶軍は、まず三好政長らを圧倒。
特に長慶の弟である安宅冬康(あたぎふゆやす)と十河一存(そごうかずまさ)らの猛攻は激しく、

安宅冬康/wikipediaより引用
最終的に【江口の戦い】で三好政長以下、多数の重要人物を討ち取り、大勝利を収めます。
当時の将軍であった足利義晴(と義輝の親子)を追い出し、さらには敵対した主君・細川晴元を近江の坂本へと追いやったのです。
かくして晴元勢力からの独立を果たした長慶。
もはや恐れるものは何もありません。
彼は同じく「反晴元派」として戦った細川氏綱とともに上洛し、政治の中枢にどっかりと腰を据え、権力奪還を試みる晴元一派との戦いに挑みました。
義晴・義輝親子が挑んできた
政治の中枢を追われた晴元一派は、すぐに反攻作戦を立てました。
中でも中心として活躍したのが足利義晴・足利義輝親子で、天文19年(1550年)には銀閣付近に中尾城という対長慶用の城郭を建築。
すでに鉄砲を実用化していた長慶軍に対して、防御を万全にして備えます。

剣豪将軍と呼ばれた足利義輝/wikipediaより引用
将軍側も実戦での鉄砲運用には取り組んでおり、さながら大河ドラマ『麒麟がくる』のような争いが行われていたのです。
しかし、軍事に関しては長慶の方が一枚も二枚も上手でした。
義晴の死後に跡を継いだ義輝は、長慶軍に押されると中尾城をアッサリ破棄して、近江・朽木の地へと逃亡します。
当時、畿内の国衆たちは義輝よりも長慶を支持する勢力の方が強く、将軍家にもかかわらず数多の家臣らに見限られてしまったのです。
「力押しでは到底かなわない。ならば……」
そこで起きたのが長慶暗殺未遂事件であり、以下のような内容です。
長慶暗殺未遂事件 黒幕は将軍義輝か!?
天文20年(1551年)3月。
長慶は幕臣である伊勢貞孝の招きに応じ、彼の邸宅で酒を飲み交わしました。
その返礼として長慶が貞孝を自身の拠点である吉祥院に招いたところ、第一の事件が発生します。
まず、吉祥院に忍び込んで火を放とうとする少年がおり、彼を捕縛しました。
少年がやったことは単なるイタズラではなく、捕縛から数日後には、他に2人の共犯者がいたことが判明。
すぐに3人を処刑したのですが、調べていくと事件の関係者は実に60人にも膨れ上がります。
計画性のある組織的犯行ということは明らかでした。
第二の事件は、ふたたび伊勢邸に招待された長慶が、舞の鑑賞などを楽しんでいた時に発生します。
その場にいた進士賢光が長慶を三度も切りつけるという暴挙に出ました。
長慶は、傷こそ負ったものの命に別状はなく、賢光はその場で自害。
『麒麟がくる』第6話のタイトルにもなり、見せ場としても描かれた「三好長慶襲撃計画」は、おそらくこの内容をもとにしたものでしょう。
しかし、ドラマの展開は史実と大きく異なります。
「光秀が奮戦して長慶や松永久秀を救った」部分が創作なのは言うまでもないですが、一連の事件を引き起こした黒幕はドラマのように細川晴元ではなく、将軍【足利義輝】ではないか?と考えられているのです。
事件が連続しているさなか、義輝派の諸将らは活発な軍事行動に出ました。
第二の事件勃発が3月14日で、その一日後には三好政生や香西元成らが京都の東山一帯を焼き払っています。
タイミングや状況を考えると、黒幕は義輝で間違いないでしょう。
ドラマでは別室で明智光秀の熱い思いを耳にし、家臣らに後を追わせた義輝が史実ではなぜこのような手に出たのか。
答えは単純で「真正面から戦っては、長慶に太刀打ちできない」から。
卑怯者と噂されようが何だろうが、当時の義輝に手段を選ぶ余裕などありませんでした。
長慶と義輝が和睦 かと思ったら再び対立
三好長慶にしても、自身の命を狙っている者の背後に義輝らがいることは重々承知していたでしょう。
しかし、将軍を殺すことはありませんでした。
むしろ、自分の政治運営に口出しをしないで大人しくしてくれていれば、危害を加えることさえなかったと思います。
これは当時の武士たちに「将軍を殺す」という発想が存在しなかったためで、長慶が「優柔不断なだけ」という批判は的確ではありません。
その後は長慶・義輝ともに和睦へ向けて動き出しており、近江守護・六角義賢の仲介もあって天文21年(1552年)に両者は和睦。

六角承禎(六角義賢)の錦絵/wikipediaより引用
長慶は晴元の家臣から正式に将軍の直臣として位置づけられ、両者の間には主従関係が生まれました。
それでも、長慶はすべての権力を将軍に譲り渡しはしませんでした。
当然ながら義輝には不満が募ります。
そうした状況の中で、義輝は主戦派家臣による進言を受け入れてしまい、再び長慶との対決を決意、京都の霊山城に入ったことで和睦は事実上の破綻を迎えます。
隙をうかがうようにして細川晴元も長慶に兵を向けますが、ほとんど相手にされることはなく一蹴されて終わり。
晴元と義輝の一派は、明確に長慶の打倒を意識し、今度は長慶方の西院城へ攻め込みました。
「義輝に味方する人間は知行を没収だ!」
勢いよく挙兵した義輝。
現実問題、2万5千とも言われる長慶の強大な軍勢に全く歯が立たず、義輝は再び近江の朽木へと逃げていきます。
幾度も顔に泥を塗られた長慶も、さすがに腹を立てたのでしょう。
「公家・武家のいかんを問わず、義輝に味方する人間の知行(給料)を没収する!」
そんな極めて厳しい通達を出しました。
結果、義輝は約5年もの間、朽木の地で潜伏を余儀なくされてしまうのです。
※以下のマップは朽木氏が江戸時代に建てた朽木陣屋跡になります
この一連の対立は一般的に
「将軍なのに都を追われて頑張る健気な義輝と、彼をイジメる悪逆非道の長慶」
という図式で描かれがちです。
しかし実態は
「将軍という地位にいるだけで滅茶苦茶やっても許される義輝と、彼のワガママをひたすら耐え忍んだ長慶」
という構図に思えて仕方ありません。
事実、義輝家臣の多くが『長慶と和睦すればいいじゃないか。どうせ勝てないんだし……』と考えていたようで、義輝自身が周囲の人々から信頼を失っていった模様です。
「剣豪将軍」のイメージから華々しく描かれがちな義輝。
政治力不足という負の側面があったことは間違いなさそうです。
畿内を制して「三好政権」を確立
義輝を追放して以降、自身の兄弟衆や松永久秀の活躍もあり、畿内の実権を握ることに成功した長慶。
ところが、この時期はまだ「細川氏綱の家臣」という位置づけです。
勢力としては他に並ぶ者がいなかったとはいえ、思うように動けない場面もありました。
そこで長慶は徐々に「細川氏綱抜きでの支配体制」を進め、その結果、例えば「四職」の一角・赤松晴政という幕府の重臣ですら傘下に置くような権力を確立してきます。
天文24年(1555年)には、父・三好元長の二十五回忌も実施。
同時期に長慶は「摂津・山城・和泉・丹波、播磨東部」を支配するまでのほぼ天下人に急成長を遂げておりました。
弟たちの勢力圏を加えると「阿波・讃岐・淡路・伊予東部」まで拡大します。
弘治年間(1555~1558年)は大きな戦は発生せず、長慶は「幕府支配」の世から「三好支配」の時代を作るべく、各地の問題解決に奔走して支配力を誇示しました。
その甲斐あって、長慶の名声は朝廷にも響き渡ることになります。
「これからは足利将軍より三好の時代か……」
近衛家や九条家といった名門の公家たちは「これからは足利将軍より三好の時代か……」と考え、義輝との関係を解消、長慶への接近を図ります。
清々しいほどの露骨さですが、長慶自身もこの動きには好意的。
「オレが朝廷を守ってやるぜ!」と言わんばかりに、庇護者として振舞うようになります。
当時の公家たちは、武士の庇護なしには生きられない存在でしたから、公家を飛び越え天皇自身からも頼りにされていたと考えるべきでしょう。
実際、弘治から永禄への改元についても、本来相談すべき相手の義輝ではなく、長慶に連絡が入りました。
しかし、当然ながら、この一件は義輝のプライドを刺激します。
義輝は、自身の権威低下をまざまざと見せつけられ、我慢がならずに近江・朽木で挙兵!
具体的な勝算もないままに立ち上がったのは、このままでは「将軍抜きの政治体制が完全に確立されてしまう」と悟ったのでしょう。
何かせずにはいられない――そんな窮地だったように思います。
長慶が賢いのは、事ここに至っても将軍を無下に扱わなかったことでしょう。
諸大名が「武家秩序の崩壊」を意識して危機感を抱いた影響もあってか。永禄元年(1558年)にまたもや和睦が成立し、義輝は京都に舞い戻ってきます。
長慶にとっても、この和睦は大きな収穫をもたらしました。
「足利将軍の名」を外交で用いられるようになったのです。
いくら権威が低下しているとはいえ、決して存在感が皆無でもない将軍の肩書には利用場面があり、例えば畿内から離れた地方の戦乱を自身に優位な形で進めるためには効果的でした。
しかも長慶は、以前から「将軍権威の切り崩し」に取り組み、実質的支配も強めています。
義輝らはほとんど傀儡に過ぎず、都での生活は以前と比にならないほど窮屈になっていたでしょう。
近親の死が相次ぎ、三好政権にほころびが見え始めると…
将軍との和睦を済ませた長慶は、ここから各地の戦に触手を伸ばし、急激な領土拡張戦争に明け暮れるようになりました。
三好実休をはじめとする兄弟衆の活躍もあり、畠山氏の内紛に介入して河内を支配すると、続けざまに松永久秀の働きで大和をも平定、長慶政権としては最大の版図を築き上げます。
ところが、この頂点に立った頃から少しずつ綻びが見え始めます。
これまでは旧細川領地や細川晴元や足利義輝に味方する――要は自分に敵対する勢力の領土を奪っていくという流れでした。
最初に戦があり、その結果として土地の支配がついてきたのですね。
しかし、新しく始めた合戦は「三好氏に縁もゆかりもない地域を無理に奪う」というものです。
当然、近隣の諸大名は強い危機感を抱きます。
そんな状況下だった永禄4年(1561年)、長慶政権を軍事的に支えていた弟・十河一存が死去してしまいました。
長慶にとっては痛恨の極み。
一存の死は、瞬く間に周囲へ伝播してしまいます。
結果、六角氏や畠山氏は、もはやお馴染みとなった細川晴元を担ぎ出し、長慶に敵対する構えを見せ始めました。
長慶は、両者との間で展開された「(六角&畠山の)二面作戦」の負担に苦しんでいきます。
もう一人の片腕・実休が戦死してしまう
永禄5年(1562年)、三好実休と畠山高政らの軍勢が【久米田の戦い】で激突しました。
緒戦は終始三好方の優勢でしたが、好事魔多し、肝心の総大将・実休が戦死してしまいます。
まるで【桶狭間の戦い】のごとく、トップを失った三好軍は総崩れとなって大敗。
十河一存と並び長慶の片腕だった実休を失うと、待ってましたとばかりに各地で反三好勢力が活気づきます。
程なくして再び畠山高政と【教興寺の戦い】でぶつかり、辛くも勝利こそ得ますが、このとき敵対勢力の黒幕が誰なのか、ハッキリしました。
足利義輝です。
三好家中には、さぞかし不穏な空気が流れていたことでしょう。
このころ三好家の家格はぐんぐん上昇しておりましたが、同時に「分不相応だ」として諸大名の猛反発を招いています。
そんな状態で迎えた永禄6年(1563年)、長慶が期待していた嫡男の三好義興が病死。
長慶が悲しみに暮れたのはもちろん、同等の悲しみを表現したのが松永久秀でした。
「とても不憫で心も消え入りそうだ」
彼にそう同情し、改めて長慶への忠誠を誓ったといいます。

2020年3月に高槻市の市立しろあと歴史館が発表した松永久秀の肖像画/wikipediaより引用
今まで世間に広まっていた悪辣な「松永久秀像」からすると「内心ほくそ笑んでいたのでは?」と疑いたくなりますが、実は当時の史料から「悪名高い奸臣ぶり」を読み取ることはできません。
また、永禄7年(1564年)に起こった安宅冬康の殺害についても、「久秀の讒言を信じた長慶の手によるもの」という説もありますが、断言まではできません。
実際のところは「義興の死による後継者選びのドタバタ」から生じた流言の類と考えるのが自然で、長慶がお家騒動を未然に防ぐべく冬康を殺害した可能性だってあるのです。
真相は闇の中ですが、いずれにせよ正しい松永久秀像が変化しているのは間違いありません。
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松永久秀の生涯|三好や信長の下で出世を果たした智将は梟雄にあらず
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よろしければ上記の記事も併せてご覧ください(記事末にリンクを掲載しておきます)。
当代屈指の文化人でもあった長慶
一時は天下を手中に収めるかと思われた三好一族。
その悲劇はついに三好長慶を襲い、永禄7年(1565年)、彼は極秘裏に生涯を終えました。
享年43。
一説には冬康を斬らねばならなかったことを気に病んだ結果の病没だとされ、この一件を期に「重度のうつ病」を発症したという見解も存在するほど。
仮にそれが真実であれば、非情になり切れない「甘い人」という人物評に落ち着くかもしれません。
ただ、長慶が、当代随一の文化人だったのは間違いありません。
彼はとくに連歌を好んだといい、身分の貴賤を問わず数多くの人々と連歌で交流を図りました。
さらに連歌好きが高じて『古今和歌集』をはじめとする古き世の短歌研究にも熱心であったといい、清少納言や紫式部といった女流作家にまで興味を示していたといいます。
一方で武家法や刀剣の収集にも力を入れており、彼らが文武を極めようとしていた様子が伝わってきます。
彼の文化に対する姿勢は「戦国のスーパーマン」としてお馴染みの細川藤孝(細川幽斎)にも多大な影響を与えたようで、「私も彼を見習って彼のように振舞った」という話が伝わるほど。

細川藤孝/wikipediaより引用
藤孝は義輝復権のため各地を駆けずり回った男ですから、長慶は敵にあたります。
にもかかわらず藤孝から敬われていたとなれば、長慶は「敵からもホレられる男」だった可能性もありますね。
そして、彼の教養人ぶりが朝廷からの支持を集めるに至ったのも事実だと思います。
確かに、当時の朝廷は「実力者」に媚びざるを得ないほど衰退していたのは間違いありません。
しかし、都のルールを知らずに増長してしまえば、長慶の祖父・三好之長のように反対勢力によって没落へ追い込まれた可能性もあります。
長慶も「家格の上昇」を急いだ結果として敵を増やし、三好政権崩壊のキッカケを作ってしまいました。
これは自身の権力に増長したというより「義輝を殺さず、かつ三好の権力を確立するためにはどうしたらよいか」を考え抜いた末の政治的判断だったようにも思えます。
こうした教訓は後に同じく権力を握ろうとした織田信長の方向性にも影響を与えたのではないでしょうか。

織田信長/wikipediaより引用
その意味でいえば、長慶の存在は日本史全体を俯瞰したとしても、非常に重要な存在と位置付けられることになります。
長慶最大の功績は「足利将軍抜きの政治体制」
長慶という人を評する言葉として一般的なのは
「優柔不断」
「ツメの甘い男」
あたりでしょうか。
しかし、近年では「長慶の行動は当時の常識に沿ったものであり、性格的な弱さを象徴するものではない」という見解もあります。
個人的には、長慶には「優柔不断と決断力、どちらの側面もある」と思います。
義輝の処遇については最大限の譲歩を提示し、優しさ甘さを見せる一方で、最終的には「足利将軍抜きの政治体制を目指していた」というのは最大の功績ではないでしょうか。
実際、彼以前にも「将軍ではないが幕府で実権を握ろう」と考えた人物は数多くいました。
古くは鎌倉幕府の執権・北条氏がそうですし、生涯にわたって長慶を苦しめた細川晴元もその一人です。

江間小四郎義時こと北条義時/国立国会図書館蔵
彼らのゴールは、あくまで「将軍」のもとで実権を握ること。
名実ともに自身を中心とした新しい政治体制の構築には至っておりません。「自分たちは臣下で、誰かに仕えるのが当然」という常識があったのでしょう。
長慶も、おそらく都に進出してきた当初はここで考えが止まっていたハズです。
しかし、幕府権力の失墜と自身の強大な力を考えたとき「あれ? 別に将軍っていらなくない?」と閃いてしまったのではないでしょうか。
だからこそ彼は将軍候補を担ぎ出すことなく、自分を中心とした政治体制を目指したのです。
この点に関して言えば、長慶は織田信長よりも先鋭的だったと言えるでしょう。
信長は上洛を試みた際、あくまで「足利義昭」を担ぎ出し、彼のもとで実権を握ろうとしました。まだ保守的です。
それが最終的に自身が権力を握ろう――と思い至ったのも、実は長慶という「先例」があったからではないでしょうか。
実際、信長も義昭を殺すことはせず、あくまで追放処分にとどめています。
長慶はもしかしたら「中世から近世への道を切り開いたパイオニア」かもしれません。
いつかは大河の主役を――そんな風に願ってしまいます。
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【参考文献】
『国史大辞典』
天野忠幸『三好長慶:諸人之を仰ぐこと北斗泰山 (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon)
天野忠幸『三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争 (中世武士選書シリーズ第31巻)』(→amazon)
今谷明/天野忠幸『三好長慶:室町幕府に代わる中央政権を目指した織田信長の先駆者』(→amazon)








