松前崇広/wikipediaより引用

幕末・維新 その日、歴史が動いた

幕末に外様から異例の大出世をした松前崇広は、なぜアッサリ失脚したか

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慶応二年(1866年)4月25日、松前崇広(たかひろ)という大名が亡くなりました。

名前の通り松前藩(現・北海道松前郡)のお殿様で、外様大名でありながら老中に就任したほどの人物です。

しかし、その尖すぎる国際感覚からアッサリ失脚してしまった大名でもあります。

ド派手な幕末の中でヒッソリと消えてしまいがちな松前崇広。
彼の生涯に注目してみましょう。

 

家康「身内と譜代以外は全員ヨソ者」

松前藩が老中になることの何がスゴイのか?
というと、これまでの慣例では、完全に就任できない職でした。

家康が「身内と譜代以外は全員ヨソ者」という方針を掲げたので、江戸幕府では決まった家(基本的に家康の直接の部下だった譜代のみ)の人しか出世コースに乗れなかったのです。

今だったら人権問題になりそうですね。

当時は、どんなに頭が良くてもエラくなれないこともあれば、どこからどう見てもアホな人が”イイ家に生まれたおかげで”出世するということもありました。

老中というとトップクラスの役職です。
江戸幕府の職制については、以下の記事をご参照いただくとして……。

大老・老中・若年寄の違い、ご存知ですか?細分化された江戸幕府の役職

鎌 ...

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そうした慣例が根強い中で、なぜ崇広が老中になれたのかというと、タイミングも良かったんですね。

 

西洋に詳しい人間を幕閣に入れよう

時はまさに幕末。
そのクライマックスとも言える大政奉還戊辰戦争の直前でした。

欧米列強にどう対処すべきか――幕府の中でも意見が割れていたその頃。
「とりあえず、西洋に詳しい人間を幕閣に入れよう!」という方針が掲げられ、その一人として松前崇広が選ばれたのです。

松前崇広は、松前家の六男。
本来であれば藩主の座に就く可能性すら難しい、とても低い立場の人物でした。

偶然、跡目を継ぐ人がまだ子供だったので、中継ぎ的な立場で松前藩主になっていたのです。

しかし彼は、腐ることなく幼少期から武芸や学問に打ち込み、その中で西洋の文物や機械についても学んでおりました。
先日とりあげた大モルトケ同様「芸が身を助けた」例といえそうですね。

大モルトケのお陰でビスマルクも活躍!? 国家統一に身を捧げた知性のドイツ軍人

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時間がない!兵庫を開港だ!

松前崇広は、ときの将軍・十二代徳川家慶から正式に任官を受け、北方防備のための築城など地道に仕事をしました。

途中で「今まで蝦夷地についての仕事は松前藩にやってもらってたけど、今度から幕府がやるからお役御免な^^」というトラブルなどもあったのですが、それでも崇広を老中にしたのですから、揺るぎがない信頼を得ていたのでしょう。

こうしてすったもんだの末、崇広は外様大名でありながら異例の出世コースを歩み、第二次長州征伐の際には十三代・徳川家茂のお供を勤めます。

が、たった一つの失敗により呆気なくクビになってしまいます。

原因は、もう一人の老中・阿部正外(まさとう)と勝手に兵庫を開港してしまったことでした。

阿部正外/wikipediaより引用

当時、幕府は、イギリス・フランス・オランダ各国からこんなプレッシャーをかけられておりました。

「兵庫と大坂で貿易できるようにしてくれないと、何するかわかんないよ?www」

既に下関戦争や薩英戦争で欧米の火力は充分わかっています。
ここで対応が遅れれば【欧米vs幕府】の全面戦争も考えられるワケで、悠長なことは言ってられませんでした。

なんせ朝廷の許可を取ろうにも、皇族公家は国際事情をまったく把握できておらず、とにかく攘夷を主張するばかりです。

そこで崇広と正外は朝廷の許可を待つことなく、開港を決めてしまったのです。

 

先延ばししとけよ、と慶喜ブチ切れ!

むろん、こんなことスグにバレます。

翌日、一橋慶喜(後の十五代将軍・徳川慶喜)に「何勝手なことしてんだバカヤロー!朝廷から許可が出ないって先延ばししとけばよかっただろうが!」(超訳)とこっぴどく叱られます。

しかし老中二人は
「いやいやいや、アイツら”今許可してくんないと、ウチら直接天皇さんと交渉しますけどそれでいいんですね^^” とか言ってるんですよ! そんなことしたら危なさ過ぎるじゃないですか!!」(超訳)と反論しました。

両者とも100%間違っているとは言い切れず、まさに口角泡を飛ばしあう状態。
若き将軍・徳川家茂が泣き出してしまったほどだといいます。

徳川家茂/wikipediaより引用

結局、朝廷から
「アンタさんたち、こっちの許可も取らんと何してはるんですか?責任を取ってもらいますえ」(超訳)
とお咎めを受け、家茂は不本意ながらに崇広と正外を免職させ、国許での謹慎を命じたのでした。

そして慶応二年(1866年)の初めに帰国した崇広は、その3ヵ月後、熱病を得て亡くなってしまったのです。

崇広の写真を見る限り、いかにも身体頑健な人のように思えます。
この”熱病”というのはかなりアヤシイ気がしますが……それは言わないお約束ですかね。

当時、日本ではコレラの流行が度々起きていましたから、まったくありえない話ではないのですけれども。
デキる人が正しく評価されないというのは現代でもままある話ですが、なんとも後味の悪い結果です。

長月七紀・記

【参考】
国史大辞典
松前崇広/wikipedia

 



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