北条時宗/wikipediaより引用

鎌倉・室町時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

北条時宗34年の生涯をスッキリ解説!元寇のストレスどんだけキツい……

投稿日:

鎌倉時代に入って実権を握った北条氏。
将軍の補佐役「執権」として政治を主導しつつ、次第に一族の長である「得宗家」でも政権運営を担うようになります。

ややこしいことに、執権と得宗家は必ずしも一致しなかったんですね。

こうした状況が鎌倉中期あたりまで続きまして、なんとか国内の政治を乗り切っていた頃、

ズドン
と、大きな衝撃がやってきます。

元寇です。

国立国会図書館蔵

相手は、アジアどころか、ユーラシア大陸全てを飲み込もうとしていたモンゴル帝国(=元)のフビライ・ハーン。
対するは、まだ年若い八代目執権・北条時宗

本日は、この北条時宗がどのように生まれ育ち、未曾有の国難に対応したか。見てみましょう。

元寇そのものの詳細記事は後日掲載いたします。

 

北条一族のサラブレッド

北条時宗は1251年に生誕。

父は、五代執権・北条時頼です。
母は当時連署(執権の補佐役)を務めていた北条重時の娘・葛西殿でした。

北条一族のサラブレッドといいましょうか。
鎌倉幕府の内部では、まさに「執権になるべく生まれてきた」ような血筋です。

ただ、時頼が病のため出家したとき、時宗はわずか5歳です。
将軍であれば、ぶっちゃけお飾りなので、実年齢が何歳でも関係ありませんが、即戦力にならねばならない執権は話が違います。

そこで時頼は、自分の義兄(妻の兄)にあたる長時を六代執権としました。
もちろんこれは、「ウチの倅がでかくなるまでよろしくな^^」(超訳)という意味であって、長時には大した期待はされていませんでした。

また、時頼の体調が回復してから亡くなるまでの数年間は、再び時頼が実験を握っています。
この辺のお話は先日取り上げましたので、詳しく知りたい方は以下の記事をご参照ください。

【関連記事】
北条時頼
北条長時

時頼は、自分の目の黒いうちに安心したかったのか。
時宗を満6歳で元服させています。

元服=現代の成人式ですから、当時の基準としても、これは相当に早いといえます。

庶兄である北条時輔との差別を明確にするという意味もありました。
この時代、「相続は正室の息子が優先」という慣例が広まりつつありましたが、まだ確定していたわけではありません。

平たくいうと、
「時輔がヘンな気を起こさないように、時宗をさっさと成人扱いにした」
わけです。

北条氏の通字(代々名付けに使う字)である「時」と、ときの将軍・宗尊親王から賜った「宗」の字を合わせて名乗っていることにも、それは現れています。

大人になったからには、仕事にも取り組まなければなりません。
さすがに元服直後からではありませんでしたが、9歳のときには小侍所(こさむらいどころ・鎌倉幕府における将軍親衛隊のような部署)に入り、実務に携わるようになりました。

 

スポンサーリンク

鎌倉幕府の出世コースは引付衆から評定衆へ

当時、この別当(長官)を務めていたのは、北条氏の中でも勉強家で知られていた北条実時(二代執権・義時の孫)です。
彼は若い頃から真面目で信頼されていたようで、引付衆や評定衆などの要職を歴任していました。

引付衆は、御家人たちの領地に関する訴訟を直接取り扱う部署。
評定衆は、二代将軍・頼家時代に作られた十三人の合議制を原型とする議会のようなものです。

鎌倉幕府で出世するためには、まず引付衆の一員となり、評定衆に入るのを目指すのがセオリーでした。

いわば実時は、当時の幕府における政務のエキスパートであり、時宗を実地でビシバシ鍛えるにはうってつけの人材だったということです。

また、実時は和書漢籍にも広く通じ、隠居後に金沢文庫を創設した人でもあります。

彼はその知識を惜しみなく時宗に教示したようで、時宗が成長後、禅宗に帰依したり、中国から僧を招いたりしたのは、おそらく実時の影響によるものと思われます。

仕事が出来て教養もあり、野心もない実時。
幼い時宗にとって公私両面で良いお手本だったでしょう。

北条実時/wikipediaより引用

実地教育中にあたる10歳のときには、正室の堀内殿を迎えています。
彼女は安達義景の娘で、宝治合戦でアレコレやった安達景盛の孫にあたる人です。

とはいえ決して荒っぽい人ではなく、時宗の死後仏門に入り、東慶寺を開いたといわれていますので、慈悲深い感じの女性だったと思われます。

東慶寺は後年、大坂落城後に豊臣秀頼の娘・天秀尼が入ることになるお寺であり、江戸時代には女性の駆け込み寺となったことでも有名ですね。
確たる史料はないものの、堀内殿が夫の暴力等に苦しむ女性の味方をしたのが由来だともいわれています。

こうして、少しずつ公私共に成長していく時宗。

その様子に安心したのか、父・時頼は時宗が12歳のときに亡くなりました。
それから一年も経たずに長時も亡くなり、連署を務めていた政村(二代執権・北条義時の五男)が七代執権となり、もうしばらく中継ぎを務めます。

そして13歳になった時宗が、連署として、いよいよ幕府中枢に入るのです。

 

時宗17才 元から服従を迫る文書を受け取る

この代替わりがあったためか、それまで良好な関係を築いていた将軍・宗尊親王が廃位され、京都に送還されました。

親王の正室・近衛宰子と、彼女の出産の際に護持僧を務めた良基という僧侶が密通したのがキッカケだとされていますが……ぶっちゃけイチャモンにしか見えません(´・ω・`)

この二人の間に生まれた惟康親王が、七代将軍になっていますしね。
なんだかスッキリしない顛末です。

それから一段落した文永五年(1268年)正月。
時宗は17歳になりました。

ここで鎌倉幕府は、「元」から服従を迫る文書を受け取ります。
が、返事はしません。

朝廷としては「こんな感じで返事して」(超訳)という指示をしたかったようですが、鎌倉幕府は最初から「よろしい、ならば戦争だ」(※イメージです)と方針を決めていました。
文書を受け取って二ヶ月後に時宗が執権に就任していましたし、並行して幕府中枢では戦支度を始めているからです。

また、時宗にとっては心強いことに、政村がまだ存命中だったため、連署として後見役を務めました。
政村はその後政治的野心を出さず、文永の役の前年まで幕府を支えています。

 

スポンサーリンク

合戦準備中に内輪揉め【二月騒動】起きる

こうして幕府は、各地の田畑に関する台帳を作って兵糧の準備をしたり、前線になるであろう九州の沿岸警備(異国警固番役)を強化したり、来るべき日に備えます。

元への返事を出さなかったのは、断固として服従を拒む意志を見せるとともに、曖昧な状態を長くしておくことで、準備のための時間を稼ぐのが目的だったのかもしれませんね。

が、その準備中に鎌倉幕府の内部でドンパチが起きてしまいます。
【二月騒動】と呼ばれる、北条氏の内紛です。

「外国が迫っているときに仲間割れしてる場合か!」
とツッコミたくなりますが、そもそも歴史を辿れば、幕府の創設者・源氏からして……ねぇ(´・ω・`)

二月騒動の中心になったとされるのは、時宗の庶兄である北条時輔です。

彼は六波羅探題南方を務めていました。
しかし、同職北方に就いていた北条時茂(二代執権・義時の孫/極楽寺流)が文永七年(1270年)に亡くなって以降、後任が来なかったため、京都では時輔の勢力が強まっていたのです。

さらに、得宗家への反発心が強かった北条教時(二代執権・義時の孫/名越流)という人が恨みをつのらせていました。
名越流は九州の守護職を多く務める家でしたが、かつて宮騒動の際に長兄・光時が伊豆に配流されていたことなどをきっかけとして、得宗家に恨みがあったようです。

また、教時は前将軍・宗尊親王の側近でもあったため、余計に得宗家に対する不満が溜まっていました。

彼らの謀反を事前に察知した……として、時宗が御内人(得宗家に仕えている武士)を派遣し、誅殺したといわれています。

が、無関係だった教時の兄・時章までブッコロしてしまっているあたり、どちらかというと謀反云々ではなく、
「元を相手に戦をしないといけないのに、身内の不穏分子をほっといたら何されるかわからん。いっそブッコロしてスッキリさせよう」
という考えのようにも思えますね。

あまりにもその死があっけなかったためか、時輔には生存説もあったようです。

大河ドラマ「北条時宗」では生存説を採用し、元との対立を平和的に解決するため暗躍する、という役回りになっていましたね。
源義経真田幸村など、生存説はだいたいヒロイックな話になりますが、大河ドラマでの時輔はなかなか特殊で斬新でした。

 

朝廷でも皇太子問題ががが……

こうして、内部の憂いがほぼなくなった鎌倉幕府でしたが……。
京都では別の問題を作り出すことになります。

この頃、鎌倉幕府にとっての前将軍・宗尊親王の父、後嵯峨法皇が崩御しました。
後嵯峨法皇には数多くの子女がおり、中宮生まれの皇子も二人成人していたため、皇位継承には問題ないかに思われたのですが……。

後嵯峨天皇/wikipediaより引用

後嵯峨法皇が、長子である後深草天皇よりも、次男である亀山天皇を何かとひいきし、次の皇太子を亀山天皇の皇子・世仁親王としてしまいました。
後深草天皇には、世仁親王より年長の皇子がいたにもかかわらず、です。

当然、後深草天皇は後嵯峨法皇を深く恨みました。
その恨みが解けないまま、後嵯峨法皇が崩御してしまったものですから、さあ大変。

しかも、世仁親王以降の皇位継承のことや、治天の君の座をどうするか、については
「幕府に任せるからヨロシク^^」(※イメージです)
と丸投げしただけで、何の意思も示しませんでした。
これはひどい。

これには、朝廷も幕府も大いに困りました。

 

スポンサーリンク

おまけに日蓮宗の開祖・日蓮までややこしや

まずは朝廷から幕府へ連絡が送られますが、幕府としても勝手な判断はできません。

そこで後嵯峨法皇の中宮であり、後深草天皇・亀山天皇両者の母親でもある大宮院(おおみやいん)にお伺いを立てることにしました。
……最初から、朝廷のほうで大宮院の意向を確認して、それから幕府に連絡したほうが無駄がなかったんじゃ?……とツッコミたくなるのは野暮ですかね。

大宮院はやはり、
「亀山天皇の血筋を続けていくのが故院の意思かと思います」
との返事。

こうして幕府は亀山天皇側につき、世仁親王が後宇多天皇として即位。
亀山天皇は上皇となり、治天の君として政治を執り行うようになります。

まあ、これで後深草天皇側が黙っているわけがないのですが……。
次に事態が大きく動くのは元寇の後のことなので、ここで一区切りとしましょう。

ついでにいうと、ほぼ同時期に日蓮宗の開祖・日蓮
「今の仏教と世の中はここがなってない!!」(超訳)
というようなことを立正安国論などで主張し、世間を(いろんな意味で)賑わせていました。

日蓮/wikipediaより引用

時宗からすれば
「この忙しいときに人心を惑わすんじゃねぇよクソ坊主(#^ω^)」(※イメージです)
としか思えなかったでしょうね。

時宗は禅宗に帰依していましたので、自分の信じる宗派を否定されて気分を害したでしょうし、ただでさえ元軍の迎撃体制を整えたり、上記の皇室がらみでバタバタしていたところですし。

それでなくても、歴代の執権は激務のせいで早死にしたといわれています。
こんな歴史に残る大事件を、ほぼ同時に複数処理しなければならなかった時宗の心身に、どれほどの負担がかかったかは想像を絶する……といっていいでしょう。

時宗に子供が少なく、側室がいないのも、それどころではなかったからなのでしょうね。
忙しいからこそ癒しを求めて……というタイプの人もいますが、時宗はそうではなかったようです。

 

クビライ・カーン、いよいよ

さて、話を元寇関連に戻しましょう。
戦闘の経過などはまた後日扱いますので、ここではざっくりとした流れをお話しますね。

最初の数回は元から
「ウチの傘下になれよ。ならないとどうなるかわかってるよね?^^」(超訳)
という手紙を無視していた幕府ですが、あまりにもその回数が多いため、日本からも元の都・大都へ使者が立てられました。

元の皇帝であるクビライ・カーン(フビライ・ハーン)に謁見し、その意志を確かめようとしたのです。

クビライ・カーン(フビライ・ハーン)/wikipediaより引用

しかし、これまで返書をしなかった鎌倉幕府に対し、元のほうでは相当に不審感がつのっていました。
そのため、せっかく無事に海を渡れたというのに、日本の使者は謁見できずにトンボ返りすることになります。

この時点で、既に元の出兵が決まっていたのかもしれません。
実際、元は日本からの使者を追い返した翌年から、本格的に日本侵攻の準備を始めています。




スポンサーリンク


そしていよいよ文永十一年(1274年)10月。
元の大軍が数百隻の軍船が、対馬・壱岐に襲来しました。
※続きは次ページへ

次のページへ >



-鎌倉・室町時代, 日本史オモシロ参考書, その日、歴史が動いた

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.