江戸時代 その日、歴史が動いた

江戸時代のバカ殿騒ぎ代表はコレ!生駒騒動の原因は藩主・高俊の男色?

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万治二年(1659年)6月16日は、生駒高俊という大名が亡くなった日です。

本人よりも、この家で起きた「生駒騒動」という事件のほうが有名でしょうか。その名の通りお家騒動なのですが、生駒家の場合はよくある「家督相続がもめにもめて」という話ではありません。

では、何がどうして大騒ぎになったのか。まずは簡単に生駒家のことから見ていきましょう。

 

関ヶ原で親正は西軍につくも、その息子一正は東軍に

高俊は、秀吉時代に「三中老」の一人だった生駒親正いこまちかまさという人のひ孫にあたります。

三中老というのは、五大老(家康たち)と五奉行(三成たち)の仲裁をする仕事。

他の2人のメンバーは、
・「仏」と呼ばれるほど温厚だったという堀尾吉晴
・「蛸地蔵伝説」という戦国屈指の奇天烈エピソードを持つ中村一氏
だったといわれています。

残念ながらキャラクターの強烈さでは
徳川家康vs石田三成】の対立を止められなかったわけで。

そもそも「三中老」という呼称があったかどうかがアヤシイともいわれています。

親正は関が原のとき大坂にいたため西軍に属することになってしまったのですが、息子の一正(高俊のジーチャン)が東軍だったので、所領は高松藩として安堵されました。

そして時は流れ、一正の跡をその長男・正俊が、そしてその次に高松藩の主となったのが、本日の主役である生駒高俊です。

 

極度のBL好きに嫁がキレる

彼は10歳のときに父を亡くして急遽家督を継ぎました。

そして義理の祖父であり、戦国の転職王として知られる藤堂高虎に後見されて育ちます。
母親が高虎の養女だったんですね。

藤堂高虎/wikipediaより引用

高虎はこの義理の孫の器量がよほどアレだと思ったのか、自分の家臣を高松へ派遣して藩政を行わせました。

生駒家の家老の力を抑えるためともいわれていますが、そこまでして高虎が高松にこだわる理由がよくわかりません。
爺バカとかそんなアホな理由じゃないですよね、まさか。

そして高俊19歳のときに高虎が亡くなると、高虎の嫡男・高次が引き続き高俊の後見役を務めることになりました。

このくらいの歳で、自分のところの家老もきちんといるのであれば、藤堂家はそろそろお役御免になってもおかしくないのですが……やはり高俊が相当ヤバかったのでしょうね。

というのも、高俊は極度のBL好きだったのです。

土井利勝の娘を正室にもらっていながら放置して遊び呆けていたため、正室がキレて実家にチクったほどでした。
高虎も、夫婦の仲に関するスキルは持ち合わせていなかったのでしょうか。

そして、この後、事件が起こります。

通称「生駒騒動」と呼ばれているお家騒動の始まりでした。

 

藤堂家の家臣たちも段々態度がデカくなってしまい

主の乱れっぷりと同様、この頃の生駒家の家臣たちも荒れに荒れていました。

高虎は上記の通り、自分の家臣を生駒家の家老や家臣にしていたのですが、そのうちの前野助左衛門と石崎若狭という二人がだんだん天狗になってきたのです。
生駒家代々の家臣よりもデカイ態度を取るようになったといいますから、そりゃあ家中が割れるのも無理はありません。

現代の会社でも、転職した後や定年後に「俺は前の会社で(若い頃)エラかったんだからな!w」とやたらめったら威張り散らす人がいますよね。
多分そんな感じだと思われます。

藤堂家の代替わりのときに、引っ込ませなかったのがマズかったんだろうなぁ。

 

「何とかしないと生駒家自体がヤバいぞ」

そんな空気の中、幕府から生駒家へ「江戸城の修理手伝ってよ」という命令が来ます。

木材が急遽必要となりましたが、高俊の散財その他諸々によって、早くも財政難に陥っていた生駒家。
お金が足りません(ノ∀`)

そこで江戸の材木商から借金をして何とか修理に参加したのですが、この後の対応で前野と石崎がしゃしゃり出てきます。

なんと、親正が「ここの山はいざというとき敵を防ぐために、木を切ってはならん」と言い残していた山の木を、借金のアテに伐採してしまったのです。

当然のことながら、生駒家譜代の家臣はブチキレます。

彼らは比較的温厚だったため、いきなり刀を抜いたりはしません。
生駒家の血を引く家老・生駒帯刀へ「もうアイツら我慢できません! 藤堂家に引き取ってもらってください!!」と訴えます。

帯刀も「これはなんとかせなアカン」と思い、藤堂家の江戸藩邸へ出向いて「かくかくしかじかでウチの若いモンがブチキレ状態なので、あの二人をお引き取りください」という旨を伝えました。

某名コメディアンさんのバカ殿でもそうですが、ホントご家老って大変ですね。

伐採事件のとき帯刀は高松にいたようなので、わざわざ四国から江戸まで出てきたことになりますし。いつの時代でも中間管理職の悲哀は変わらないようです。

これを聞いた高次もただならぬ事態であることを理解し、前野と石崎を呼びつけて「後見をしろと言ったのに出先でやりたい放題とは何事か! 真面目に仕事をしろ!!」と厳しく言いつけます。

が、一度調子に乗った人がちょっと叱られたくらいで態度を改めるなんて事がないのも、古今東西よくある話。

生駒家では家臣同士で火花を散らす状態が続き、帯刀は何度も高次の元へお使いに行くハメになり、その度に「何とかしないと生駒家自体がヤバいぞ」と言われては帰ってくるというgdgdが続きました。

 

家光に伝わりゃ大ピンチ すわ改易か

そして寛永十六年(1639年)春、高次はついに土井利勝へ話を持ちかけます。

ときの将軍は三代・家光。
つまり、まだまだ武断政治=「自分の家もまともに治められないヤツは改易だ改易!!」というスタンスだった時代です。

もしこれが家光にバレれば、生駒家が取り潰されることは明白。
浪人がまた増え、治安が乱れる元になってしまいます。

そうなる前に利勝へ相談して、できるだけ穏便に事を収めようとしたのです。

二人の間で話がまとまり、武家のルールである「喧嘩両成敗」の下、「両派閥の主軸になっている数名ずつを切腹させよう」ということになりました。
つまり、譜代の側からは帯刀+数名、出向した側からは前野と石崎+数名ということです。

……あれ、一番かわいそうなの帯刀じゃね?

 

なぜ藩主の高俊が何も知らんのだ

彼らも武士ですから、お家を乱した原因だといわれれば腹を切ることに異存はなかったようです。
しかし、この知らせを聞いた譜代の家臣たち、つまり帯刀派は納得できません。

「前野と石崎はともかく、帯刀様は俺たちの訴えを聞いて骨を折ってくださったのに、何で腹を切らなければいけないんだ!!」

そりゃそうだ。
ここで笑おうにも笑えないのが、この時点まで藩主である高俊に話を通した人が誰一人いなかったということです。

当然、高俊は激おこになりましたが、そりゃアンタ……常日頃から遊びほうけてれば誰も頼りにせんだろうよ……。

高俊にとっても帯刀たちは大事な家臣ですから、「切腹させてたまるか!」と急いで藤堂家の藩邸に向かい、高次へ直談判しました。
普段からそのくらい真面目に仕事してれば、そもそもこんなことにならなかったでしょうにね。

 

なぜもっと早く引き上げさせなかった!?

我慢強い高次は、親戚のバカ殿・高俊を根気強く説明します。
が、あまりにもゴネるので今度は高次のほうがキレてしまいます。

「もう知らんわ! うちは手を引くから勝手にしろ!!」

そう言って生駒家に出ていた藤堂家の人間を全て引き上げさせてしまったのです。

それをもうちょっと早くやってれば、そもそもこんな大騒動にならなくて済んだんじゃ……とか言ったらいけませんね。
親戚とはいえ別の家がここまで面倒を見なくてはいけないほど、高俊がアレだったということなのですから。

こうして帯刀は命を拾ったのですが、江戸で切腹の日取りを待っていた前野と石崎は唖然とします。
そりゃそうだ。(二回目)

「覚悟の決め損かよ! こうなったら幕府に直接訴えてやる!!」
かくしてブチキレ、幕府に訴状を出すと同時に、高松にいる家族や同志たちに「かくかくしかじかだから、今すぐそこを出るように!!」という手紙を書きました。

高松ではこのとき、武士とその家族・家臣の一団2,300人が武装して引っ越すという前代未聞の大騒ぎになっています。

ちなみに、これはだいたい加賀藩の大名行列に匹敵する人数です。
高松藩の場合はどのくらいの人数だったのかはっきり調べられませんでしたスイマセン。

でも、だいたい似たような石高の秋田藩が1,300~1,400人くらいだったそうなので、これとほぼ同等だと思われます。

つまり、いつもお殿様が国許から江戸へ行くときの1.8倍近い人数が、お殿様もいないのにいきなりフル装備で動き出したわけで……。
そりゃインド人もビックリだわ(古い)女性も子供もいたでしょうしね。

 

やっぱり改易、そして流罪!

江戸でもここまでの規模ではないながらに立ち退き騒動が起き、とうとう幕府……というか家光にバレました。

自分で「家中の統治もできないヤツは改易!」という態度を取っておきながら、膝元の江戸で起きたことに気付けないなんてわけがありませんものね。

この間に一方の当事者である前野は病死してしまいましたが、帯刀と石崎をはじめとした両派の主だった人物が江戸城に呼びつけられます。
そして三回も審議が行われました。
結果は……。

「帯刀派は忠義者だから、クビにはするけど命は助けてやろう。それぞれ他の大名家で神妙に暮らすように」

「前野・石崎派はけしからん! 後見を任された先で暴挙を働くとは何事か!! 切腹!!!」

という採です。
江戸時代というか武家のならいで、前野・石崎派に属した人物の息子たちも切腹や死罪になりました。可哀相に……。

ついでに藩主・高俊については「家中監督不行き届きである! 改易!!」ということで、案の定、流罪になりました。
ただし、途中まで事の経緯を知らなかったからか、当面の生活費として出羽矢島で1万石を与えられています。

これは堪忍料かんにんりょう」という制度で、武士の遺族や改易された大名に与えられる年金のようなものでした。
他にも福島正則や、加藤忠広(加藤清正の息子)が改易されたときに付与されています。

「路頭に迷わせるほどの罪ではないが、そのままにしておいては他家への示しがつかない」といった場合に「武士の情け」として適用されるものだったようですね。

その後の高俊はさすがに反省したらしく、出羽で大人しく暮らしていたようです。

生駒家自体は息子の高清の代になって許され、旗本として残っております。
幕末には明治新政府側につき、大名に返り咲いたり知藩事になったりしました。

たびたび養子を迎えているので、直系の血が続いているわけではないようですが、これだけの大騒ぎになって家がしっかり残ったというのはスゴイですよね。

ムリヤリまとめると、「小さいときの教育は大事である」ということと、「引き際を間違えるな」ってところでしょうか。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
生駒高俊/Wikipedia
生駒騒動/Wikipedia

 



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