こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【生駒騒動と生駒高俊】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
「何とかしないと生駒家自体がヤバいぞ」
そんな空気の中、幕府から生駒家へ「江戸城の修理手伝ってよ」という命令が来ます。
木材が急遽必要となりましたが、生駒高俊の散財その他諸々によって、早くも財政難に陥っていた生駒家。
お金が足りません……。
そこで江戸の材木商から借金をして何とか修理に参加したのですが、この後の対応で前野と石崎がしゃしゃり出てきます。
「ここの山はいざというとき敵を防ぐために、木を切ってはならん!」
親正がそう言い残していた山の木を、借金のアテに伐採してしまったのです。
当然、生駒家譜代の家臣はブチキレます。
彼らは比較的温厚だったため、いきなり刀を抜いたりはしません。
生駒家の血を引く家老・生駒帯刀へ「もうアイツら我慢できません! 藤堂家に引き取ってもらってください!!」と訴えました。
帯刀も「これはなんとかせなアカン」と思い、藤堂家の江戸藩邸へ出向いて「かくかくしかじかでウチの若いモンがブチキレ状態なので、あの二人をお引き取りください」という旨を伝えます。
故・志村けんさんのバカ殿でもそうでしたが、ご家老って大変ですよね。
伐採事件のとき帯刀は高松にいたようなので、わざわざ四国から江戸まで出てきたことになりますし、いつの時代でも中間管理職の悲哀は変わらないようです。
これを聞いた高次もただならぬ事態であることを理解し、前野と石崎を呼びつけて「後見をしろと言ったのに出先でやりたい放題とは何事か! 真面目に仕事をしろ!!」と厳しく言いつけます。
しかし、一度調子に乗った人少し叱られたぐらいで態度を改めるなんて事がないのも、古今東西よくある話。
生駒家では家臣同士で火花を散らす状態が続き、帯刀は何度も高次の元へお使いに行くハメになり、その度に「何とかしないと生駒家自体がヤバいぞ」と言われては帰ってくるというgdgdが続きました。
家光に伝わりゃ大ピンチ すわ改易か
そして寛永十六年(1639年)春、高次はついに土井利勝へ話を持ちかけます。

土井利勝/国立公文書館蔵
ときの将軍は三代・徳川家光。
つまり、まだまだ武断政治=「自分の家もまともに治められないヤツは改易だ改易!!」というスタンスだった時代です。
もしこれが家光にバレれば、生駒家が取り潰されることは明白。
浪人がまた増え、治安が乱れる元になってしまいます。
そうなる前に利勝へ相談して、できるだけ穏便に事を収めようとしたのです。
二人の間で話がまとまり、武家のルールである「喧嘩両成敗」の下、「両派閥の主軸になっている数名ずつを切腹させよう」ということになりました。
つまり、譜代の側からは帯刀+数名、出向した側からは前野と石崎+数名ということです。
えっ? 帯刀まで切腹って???
なぜ藩主の高俊が何も知らんのだ
彼らも武士ですから、お家を乱した原因だといわれれば腹を切ることに異存はなかったようです。
しかし、この知らせを聞いた譜代の家臣たち、つまり帯刀派は納得できません。
「前野と石崎はともかく、帯刀様は俺たちの訴えを聞いて骨を折ってくださったのに、何で腹を切らなければいけないんだ!!」
そりゃそうだ。
ここで笑おうにも笑えないのが、この時点まで藩主である高俊に話を通した人が誰一人いなかったということです。

生駒高俊/wikipediaより引用
当然、高俊は激おこになりましたが、そりゃアンタ、常日頃から遊びほうけてれば誰も頼りにせんでしょうよ。
高俊にとっても帯刀たちは大事な家臣ですから「切腹させてたまるか!」と急いで藤堂家の藩邸に向かい、高次へ直談判しました。
普段からそのくらい真面目に仕事してれば、そもそもこんなことにならなかったでしょうに。
※続きは【次のページへ】をclick!