天明六年(1786年)8月25日は江戸幕府の十代将軍・徳川家治の命日です。
徳川吉宗の孫ということで、やっぱり陰に隠れがちな人ですが、果たしてどんな将軍だったのか?
これは江戸時代全体を通じて言えることで、個人的には
「教科書ですっ飛ばされる人ほど名君」
だと思っております。
時間成約の厳しい学校の授業では、時代の流れや変化を重要視して、
・徳川家康
・徳川家光
・徳川綱吉
・徳川吉宗
・徳川慶喜
ぐらいしか詳しくやりませんよね。
逆に言えばそれ以外の将軍は比較的穏やかに仕事をしていたことになります。
授業で覚えさせられるのは改革者タイプ、他の人は官僚タイプと考えるとわかりやすいでしょうか。
どちらもいなければ世の中はうまく回りませんから「有名じゃない=無能」というのはちょっと違うんではないかな、と。
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父・家重が病弱だったため吉宗に鍛えられた!?
そんなわけで家治も教科書ではロクに出てこず、それでいて仕事はきちんとしています。
小さい頃から頭が良かったようで、祖父・徳川吉宗から猫可愛がりされて育ちました。
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さすがの暴れん坊将軍も孫には弱かったかと思いきや、さすがに爺バカなだけでなく次期将軍としての教育もしっかりしています。
家治の父で吉宗の息子である九代将軍・徳川家重が心身ともに健康ではなかったので、代わりにやってやろうとしたのかもしれません。
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その教育の賜物か。
家治は23歳のとき父の隠居に伴って将軍職を継ぎます。
そして元は一藩士に過ぎなかった田沼意次を重用し、印旛沼・手賀沼(千葉県)の干拓事業や蝦夷地(北海道)の開発及びロシアとの貿易計画などへ許可を出しました。
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ポイントは「許可を出した」ということです。
つまり、これらの案は家治が自ら考えたものではなく、全て意次が上申したものに「おk」と言ったに過ぎません。
これに加えて趣味の将棋などに熱中していたため、家治は「無能www」という扱いをされてしまうことが多いのですが、そうでもないような気がします。
「有能な部下に仕事を任せる決断」はただのアホではできません。
そもそも有能かどうかを自分の目で見極めなければいけないですしね。
大奥では大胆に経費削減
また、表向きのことについては部下にほぼ任せっきりでしたが、将軍の私生活の場である大奥については大胆に経費削減を行いました。
吉宗も「美人は嫁の貰い手がたくさんあるから出て行け」といって人員削減をしたことで有名ですよね。
家治はさらにこれを推し進め、吉宗時代から3割も経費を削ったそうです。
質素倹約だったようですが、どこをどうやったら3割も削れるのか。
その辺の工夫について詳しく書き残してくれていれば、今頃はもうちょっと良い評価が出たかもしれません。惜しい。
こう書くといかにもドケチのように思えますけども、一方で家治には気前の良いエピソードもあります。それは……。
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