ロシア末期の首相ストルイピン/wikipediaより引用

ロシア その日、歴史が動いた

ロシア末期の首相ストルイピンが暗殺されたのは怪僧・ラスプーチンのせい?

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人間は生まれる家も時代も国も選べません。

歴史を振り返ってみると「この人、もうちょっと違うタイミングで生まれていたら良かったのになぁ」と思うこともままあり、今回は、自身の能力を活かしきれなかった政治家に注目です。

1911年(明治四十四年)9月18日は、ロシア帝国末期の首相だったピョートル・ストルイピンが亡くなった日です。

帝政ロシアの末期というと、革命からニコライ2世一家の悲劇が有名ですが、ストルイピンはその時期の数少ない優秀な人材でした。

一体どんな人だったのでしょうか。

 

戦争や革命の影響でボロボロだった当時のロシア

ストルイピンは1862年に名門貴族の家に生まれました。

サンクトペテルブルク大学自然科学部(物理・数学部)を卒業すると、22歳で内務省に入ったという俊才。
さらに歳をとっても頭脳や態度は悪い方向に向かわず、40代前半で県知事を複数経験し、その手腕で中央政府に見出されています。

そして44歳のときに内務大臣となり、国会運営に携わるようになったその年の夏に首相に任じられ――という超スピード出世を果たすのです。

他に人がいなさすぎたんじゃないか?とか言わない言わない。
当時のロシアを三行でまとめるとこんな感じになります↓

日露戦争の敗北で農村も都市圏もボロボロ

・血の日曜日事件以降に極まった帝政への不信

・ヨーロッパでの革命の影響を受けて、要人暗殺が日常茶飯事

特にラストの問題は深刻で、一年あたりに千人単位の犠牲者が出るほどでした。
こんな状況で首相になっても嬉しくないというか、厄介事を全部押し付けられる予感しかしません。

 

ニコライ2世の機嫌を損ねないよう数多の改革を実行す

ストルイピンは強引な手法で国会の解散と選挙を行いました。

戒厳令を布いた上で、軍事法廷を導入し、死刑判決が出た被告は即日絞首台へ。
このため、絞首台が「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれました。悪趣味すぎ。

でも、そうしなければ当時のロシアでまともな方向に政治を動かすことができなかったのです。

これには皇帝ニコライ2世の意固地な部分も悪影響を与えていました。
ヨーロッパでは立憲君主制や議会政治が定着しつつあったこの時代に、ニコライ2世だけが「ワシの権力が名目上だけになるとかヤダ」(超訳)という態度を取り続けていたのです。

当然ながら国民の不満や不信は増していきます。

ストルイピンはどうにか皇帝ニコライ2世の機嫌を損ねすぎないよう、数々の改革を断行。
言論・集会の自由や、ユダヤ人の権利拡大、労働者の生活改善、地方自治の近代化などなど、「他のお偉いさんは仕事してないんかい」とツッコミたくなるほど多岐にわたっておりました。

中でも大きいのが農奴改革です。

農村共同体(ミール)からの自由な脱退や、個人農の創設を狙い、ストルイピンは生産量や経済の改善を推し進めたのです。

 

元々はストルイピンの娘を治療していたラスプーチン

これだけ列挙すれば、さぞかし農民の支持を集めたのだろう――と思われるかもしれませんがさにあらず。
農民だけでなく他の国民からも、国会・皇帝からもこの方法は総スカンをくらい、狙い通りにはいきませんでした。

農奴解放はニコライ2世の祖父・アレクサンドル2世の頃から試みられていたのですが、法律的には開放されても、実態がなかなか伴わず、かえって農奴の暮らしが苦しくなるというアベコベの状態が長く続いていたのです。

そんな状態が始まってから、ストルイピンの頃には半世紀ほど経っています。
そのために、さらなる改革をしようとしても「どうせまた俺達の暮らしが苦しくなるだけの絵空事なんだろう」と思った人が多かったのかもしれません。

もう一つ、ストルイピンが試みながらも失敗したことがあります。

ラスプーチンの排除です。

ラスプーチン/wikipediaより引用

ラスプーチンといえば、ニコライ2世の長男・アレクサンドルの血友病を治したとされる怪僧ですよね。実は、その”奇跡”の発端は、ストルイピンの娘を治療したことでした。
ですから、ストルイピンこそ、ラスプーチンを盲信してもおかしくはなかったのです。

が、そうならなかったのは、ストルイピンが理性的な人だったからなのでしょうね。

皇太子アレクサンドルがラスプーチンの治療を受けるのは、ストルイピンの娘の件から約半年ほど後のことです。
おそらく、ストルイピンは皇帝に「あの僧侶はアヤシイから、信じないほうがいいですよ」というようなことを何度も献言したと思われます。

が、既に皇帝の信頼を欠きつつあったために、せっかくの忠告も聞き入れられなかったと思われます。

 

アナーキストかつ警察のスパイだったユダヤ人に狙撃され

ストルイピンの最期は、突然に訪れました。

ニコライ2世のお供をしてキエフ(現在はウクライナの首都)で観劇中、アナーキストかつ警察のスパイだったユダヤ人ドミトリー・ポグロフによって狙撃されたのです。

当然ニコライ2世の目の前でのことだったわけですが、彼がこの事態に動揺したとか、ストルイピンの死を惜しんだというようなことは伝わっていません。
首相の座にはとどめておいても、既に皇帝の信頼はなくなっていたのでしょうね……。

ストルイピンは「陛下のために死ぬなら本望です」というような感じのことを言っていたそうなので、彼のほうは変わらず忠誠心を持っていたのでしょうけれども。

ストルイピンがユダヤ人の権利拡大にも動いていた、というのも皮肉なものです。権利を拡大してくれた人を暗殺するとはワケワカメな話ですね。
細かいことを知らない人だったのか、それ以上に憎悪が優っていたのか、ストルイピンの政敵にそそのかされたか……。

かくしたまた一人、優秀な人材を失ったロシアは、その後、帝政崩壊へ転がり落ちていくことになります。
農奴解放がすんなりいかないのは仕方ないにしても、ラスプーチンの排除だけでも成功していたら、もうちょっと穏やかに近代化していったのでは……と感じられるだけに、惜しいことです。

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長月 七紀・記

【参考】
ピョートル・ストルイピン/Wikipedia

 



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