数多ある神社は、まつられる神様によっておおまかに分類することができる。
お稲荷様をまつる農耕の神、学問の神様・菅原道真を祭る天神などだ。
八百万の神といわれるほどバラエティに富む日本の神々のなかでも、ダントツ1位の7817社を誇るのが、応神天皇をまつる八幡信仰の神社である。
八幡神社、八幡宮、若宮神社などの名称を持つ神社で、第15代・応神天皇という実在する人物を神様としてまつる。
「本八幡」(千葉県市川市)「八幡山」(東京都世田谷区)など、八幡を含む地名は、この信仰に関わる場所と考えてよい。
寺院に本山寺があるように、信仰にはそれぞれ総本宮がある。
いわば信仰のスタート地点だが、八幡信仰の総本宮はなぜか大分県の宇佐神宮である。
なぜ応神天皇が八幡信仰の神様となったのか。
なぜ総本宮は大分県の宇佐神宮なのか。
八幡信仰には謎が多い。
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朝鮮出兵から帰国した母子を待ち構えていたのは
応神天皇といわれても、大抵の人はおそらくどんな人なのか、知らないのではないか。
それもそのはず、お世辞にも、歴史上で功績ある偉人とはいいがたく、神様にふさわしいキラリと光る伝説もない。
父の死後、母の神功皇后は出兵中の朝鮮半島で臨月を迎えたが、「我慢して」産み月を帰国後まで延ばしたとされている。
しかし、朝鮮出兵から帰国した母子を待ちかまえていたのは、異母兄のヤマト軍との戦いであった。
海外での戦いを終えたばかりの一行は、なんとか後継争いに勝利し即位した。
すでに七十一歳。
苦労の末に天皇となった応神だが、即位後の業績は、渡来人がやってきて日本に大陸の文化を伝えたことや、大規模な土地開発が行われた程度のことで、歴史書に八幡様となったとは書かれていない。
さらには八幡神としてまつられる直接的な理由やきっかけは見あたらない。宇佐地域(大分県)との関係も皆無だ。
八幡様が歴史書にあらわれるのは応神天皇の死後300年近くあとの奈良時代のこと。
以後、八幡神は政治の表舞台で活躍をみせるが、じつは八幡様=応神天皇とは考えられていなかった。
両者が八幡さまが応神天皇の化身とされるのには、もう少し後の平安時代はじめのころと考えられている。この点はあらためて後述する。
総本宮・宇佐神宮の栄枯盛衰
それにしても、奈良時代の八幡様の活躍は凄まじい。
宇佐神宮の八幡神は九州という地方出身の神でありながら、国家のアドバイザー(託宣という)の神となり突如として活躍しはじめたのだ。
国家の重要案件が行き詰まると、「お告げを聞いてきなさい」と、わざわざ奈良の都から使いを派遣して伺いを立てるのが習わしとなっていたのである。
聖武天皇が東大寺の大仏を作ろうとした時の話である。
大仏の金箔(きんぱく)仕上げに必要な黄金が不足してしまった。
当時、日本国内で金は産出されておらず、すべて外国からの輸入に頼っていたのだ。
このとき、宇佐の八幡神が「必ず金がでる」と予言をした。
すると、実際に陸奥(宮城県)から金が産出したとのニュースが飛び込んできた。
その功もあって、大仏の開眼セレモニーには八幡神が招かれている。
もっとも、いいことばかりではなかった。
大仏開眼からわずか数年後、宇佐神宮の神官が政治対立に巻き込まれて、流刑となってしまった。
さらには、八幡神自身が四国へ流されてしまう始末。
神さまが死んでしまうことがあるかどうかわからないが、ここに八幡の神さまは一度「お陀仏」となった。
しかし、八幡神は短期間でよみがえった。それは怪僧・道鏡が天皇の位を奪取しようとした「宇佐八幡神託事件」である。
未婚で後継ぎのいなかった称徳女帝は、道鏡に皇位を譲る気でいたが、譲位の直前になり、宇佐の神が「天皇になるものは天皇家だけである。即刻道鏡を排除すべし」というお告げを和気清麻呂に下し、クーデターを阻止した。
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ここに、宇佐神宮は再び輝きを取り戻した。
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