年が明け、いよいよ受験シーズンの到来。
今年は1月18~19日にかけて大学入学共通テストが実施されますが、2023年のときに、こんな誤植があったのを覚えていらっしゃるでしょうか?
世界史で「科挙」という文字が「科拳」と記されていたのです。
誤植やミスは人間だから仕方ないものですが、それにしても日本で最もメジャーな受験テストで間違えるには、あまりにタイミングが悪いというか、皮肉というか。
ご存知のとおり「科挙」は官僚を採用するための難関試験。
歴史的には、とにかく合格が難しいテストとして知られながら、中国、朝鮮半島、ベトナムで導入されてきました。
では実際、どれだけキツかったのか?
その実情を振り返ってみましょう。
科挙以前の人材採用
能力のある人物を、ガンガン取り立てて出世させたい!
そう思うのは、古今東西、人類共通の願いでございます。
もちろん、単に能力が高くても、人としてはダメ人間で、不倫だの贈収賄だのやらかしたりとか、そういうのは困ります。
人材登用にはコネやしがらみも邪魔します。我が子を重要ポストにつけたい、という願いも人類共通の願いなわけで。
長い中国の歴史では、ともかく有用な人材発掘に智恵を絞ってきました。
わかりやすいのが『三国志』の曹操でしょうか。

絵・小久ヒロ
「才能があれば不倫しても贈収賄するようなクズでも俺は構わない。出世のために奥さんを手に掛けた鬼畜でもいいと思う。ともかく才能さえあればいいから! 才能ある奴、カモンカモン! 役人たちもどんどん推挙して」
そんな“唯才是挙”(才能さえあればリクルート)の「求賢令」を出しておりました。
才能があるのに仕官をしぶった司馬懿に対しては
「俺に仕官するのと今すぐ逮捕されるの、どっちがいい?」
と究極の二択を突きつけて強引にゲットしたほどです。
一方、曹操の子・曹丕は「九品官人法」を制定しました。
これは実力よりも家柄を重視する制度で、
「上品に寒門なく、下品に勢族なし」
(名家の出ならば貧乏にならないし、名家以外の出なら出世は無理)
という状態を産み出してしまいます。
これではイカン。
家柄に関係なく、実力者を登用しよう。
というわけで隋の文帝から始めたのが【科挙制度】でした。
ここから先は、読者の皆さまが受験生気分になるような、
「科挙を目指す男性の一生涯」
目線で試験の手順を追ってみたいと思います。
科挙合格のための戦いは生前から始まっている
かつて中国には「五子登科」という吉祥画(縁起物の絵)がありました。
絵の意味は「五人の息子を授かり、その子が全員科挙に合格しますように」というものです。
ハードルが無茶苦茶高い、だからこその験担ぎですね。
中国の花嫁は、この願いをこめた絵を持参し、相手の家に嫁ぎました。

身ごもったらば、まずは「胎教」開始です。
不吉なものを見たり、刺激強いものを食べないようにしたりして、無事男児を授かるよう祈り続けるのです。
そして、いざ男児が生まれますと「及第状元」と刻んだ銭をバラ撒いたり、絵を飾ったりして祝います(百度で検索した「及第状元」の絵)。
かつては弓を射して魔除けの行事もしておりましたが、科挙の普及後は「武より文」の重視で廃れていきます。
この慣習は、日本の武家に残りました。
早い場合は3才から英才教育スタート!
子供が満5才、今でいうところの3才にもなると、早い家庭では教育がスタートします。
といっても、科挙の試験科目である古典文学偏重です。
特に出来の良い天才少年向け「童科」というジュニア版科挙も宋代にはありましたが、どうにも童科出身者はのちに伸び悩むということで、次第に下火になりました。
遅くとも8才、小学校一年生くらいから本格的な勉強が始まります。
裕福な家では家庭教師をつけて厳しい特訓開始。
中流以下の場合は、学校に入り学びました。
こうした科挙特訓校の教師や、参考書の著作者は、自身もかつて科挙を目指したものの、突破できなかった元受験生たちでした。
現在の中学三年生程度、15才あたりまで続けられます。
学校試~予備試験だけで四段階もある
科挙制度は時代によって異なります。
ここでは最も煩雑であった明清以降をもとに過程をたどりたいと思います。
明代以降、科挙の前に予備試験といえる「学校試」がありました。
「学校試」の別名は「童試」。子供向けの試験ということでした。
昔の中国での成人年齢は15才ですから、一応この試験は14才以下という建前です。
15才以上が受験不可というのではありません。15才以上は大人ですから難易度をあげますよ、というシステム。
当時は戸籍がありませんし、願書で年齢をサバ読むことは可能です。
「学校試」の受験生は、難易度を下げるために年齢を偽ることはよくありました。
17才が14才ですと言い張るのならばまだしも。
「お前のような14才がいるか!」レベルの大胆なサバ読みもありまして、40代だろうが、50代だろうが、真顔で「14才です!」を押し切る人もいたのです。
試験官も、とりあえず髭を剃っていれば「あ~、はいはい、随分と老けた14才なんですね~」と通したそうで。なんだかコントみたいな話ですね。
ちなみにこの学校試だけでも、
・県試
・府試
・院試
・歳試
と4回も受けなければなりません。想像するだけでキッツイ!
というか、ここまで受かればもうええやん、と思ってしまいますよね。
これは当時も同じでして、科挙の受験資格を得た学校試クリア段階で「生員」(美称は秀才)と呼ばれる資格が得られます。
実質的には「士大夫」という、エリートの仲間入りを果たせるのです。
生員で特に優秀と認められれば、地方官吏に任命されることもありました。
科挙試~ここからが本番だ
予備段階で4回受験、それを乗り越えるだけでもたいしたものです。
しかし、これでもまだ予備段階。本番はこれから。
第一段階が「科試」になります。
この合格者は「挙子」と呼ばれ、次の「挙試」に進めます。ここまで読めば想像はつくかと思いますが、挙子になった時点でスーパーエリートです。
ちなみに挙試は毎年やるわけではなく、郷試は三年に一度。キツイ。
ただし、皇帝即位等の慶事があると特別開催されることもありました。
受験生たちは「貢院」という試験会場に向かいます。
貢院は三年に一度しか使わないため、黴臭く、場所によっては崩れていて、お世辞にも快適とは言えない場所でした。
受験生が多いため、入場だけで一日かかります。
試験時間は早朝から始まり、なんと丸2日間かかります。
席は狭く、冷暖房なんて贅沢なものはありません。そんな場所で長時間、人生を賭けて試験を受けるわけです。
徹夜で試験を受けるわけにもいきませんから、このカプセルホテルよりはるかに狭い席で、体を丸めて眠るわけです。
頭脳だけではなく、体力勝負でもあります。

科挙試験の席/photo by Dr. Meierhofer Wikipediaより引用
カンニングはできないように身体検査がありますが、実行に移す人はいたようで。
専用のグッズも現代に残されています。

科挙試験のカンニングに使われた下着/photo by Jack No1 Wikipediaより引用
貢院~心霊現象が起こる場所
黴臭く、薄汚い貢院。
いかにも何かが出そうですが、案の定、怪談話の舞台にもなります。
とある受験生が「許してくれ!」と絶叫しだし、のぞき込んだら首を吊っていたとか。
その答案用紙には女物の靴がポトリと置いてあったそうで……。
また別の受験生が頑張って試験を説いていると、尼僧の幽霊がぬぅ~っと現れまして。
腰を抜かしそうになると、幽霊は「あっ、場所、間違えちゃった。ごめんなさい」と隣に向かい、んで、隣から絶叫が響いてくる、という。
他にも貢院に向かう受験生の背後を女性の幽霊が歩いているとか。
貢院に向かう女の幽霊と通行人の目があったとか。
心霊現象、しかも女性がらみの話が尽きません。
こういう話は「科挙を受けるのに女に対していかがわしいことをした挙げ句、捨てたりしたら、祟られてえらいことになるぞ」という脅しの意味もあるのでしょう。
怪談とは反対に「日頃よいことを行い、老人を助けていたら、試験の時に恩返ししてもらった」系の話もあります。
科挙を受験するなら真面目にやっておけよ、という戒めでしょうね。
やっと念願の科挙に合格したぞ!
この「挙試」まで合格すると、晴れてウルトラエリート「挙人」になります。
この時点で一応「あがり」。
しかし試験そのものはさらにあります。
・挙人会試
・会試
・会試履試
・殿試
ここまであるのです。
ただし、時代によって異なっており、皇帝の前で受ける「殿試」はまさにミラクルエリートの試験です。
トップ3はそれぞれ一位からこう呼ばれました。
1. 状元
2. 榜眼
3. 探花

明代の状元の回答用紙/photo by 三猎 Wikipediaより引用
彼らは現代ならば北京大学主席卒業くらいのスーパースターでしょうか。
もし独身であれば「うちの娘をもらってくれ!」と、有力者たちが押しかけてきます。
関東料理には「状元及第粥」という、レバー入りのお粥があります。
その昔、これを食べていた受験生が状元になったことが由来の一説です(状元及第粥・百度の検索結果へ)。
現代でも中国では大学入試の主席合格者を「状元」と呼ぶことがあり、伝統として根付いているのと感じます。
挙人になったは、よいけれど
スーパーエリートになることを人生の目標として生きてきた、中国の受験生たち。
しかし、合格すれば人生バラ色とはならないところも難しい。
合格した時は既に70を超えていた、なんて場合は、青春と人生を試験勉強に費やして終わってしまっているわけです。
合格時点で燃え尽きて、官僚になって出世するどころではありません。
では、若くして合格すればよいか、というとそうでもなく……。
試験に強いけれども実務能力がない人も含まれているわけで、役人として大成できるかどうかは、また別の話なのです。
武官には「武科挙」という試験がありました。
ただし格がかなり落ちる試験で、武科挙合格者よりも、科挙合格者の方が上級の指揮官になることもあります。
人生の大半を試験勉強で費やした者が軍隊を率いて大丈夫なの、と不安になってしまいますね。
中には意外な才能を発揮して名将になる人もいましたが、まったく駄目な人も当然いるわけです。
明代の周延儒は、十代で状元になるという、とんでもない神童ぶりを発揮しました。
しかも、ルックスもイケメン。
それでも彼の人生のピークはそこまでだったかもしれません。
その後、軍の指揮を任され、まったく使い物にならなかった挙げ句、功績を偽装して最後は死を賜ってしまいます。
死語、彼の列伝は『明史』の列伝で「奸臣」に分類されました。
なんとも悲しき生涯です。
科挙だけが人生じゃないんだぜ
「実務能力はないけれど、運と試験への適性がある」
その反対があるとすれば、
「実務能力はあるけれど、運と試験への適性がない」
になりましょうか。
そんな人物は、試験対策の教師になったり、参考書を書いたりして、生計を立てていました。
中でも才能がずば抜けていると、別の形で歴史に名を残すこともあります。
明代の唐寅は、肉屋の息子ながらも神童と名高い少年でした。

唐寅/wikipediaより引用
29才で南郷解試に主席合格し「解元(郷試主席合格者)」として殿試に挑みます。
しかし、どうやらカンニングか不正行為に巻き込まれ、投獄された挙げ句、受験資格永久停止とされてしまいます。
「やってらんねえ! もう役人になんかならねえぞ!!」
ヤケになった唐寅ですが、人生捨てたもんじゃありません。
彼はその明るい人柄が故郷で大人気ですし、何よりずば抜けた才能がありました。
絵も文章も書も抜群にうまいということで、彼の作品はすぐに買い手がつきます。
かくして彼は、定職につかずとも、素敵な友人や妻にも恵まれ、優雅で楽しい人生をエンジョイできました。
中央で官僚として生きるよりもはるかに自由で楽しい人生が、落第したからこそ待っていたのです。
明代は政治腐敗が激しく、せっかく科挙に合格して官僚になっても、政変に巻き込まれて命を落としたり、宦官相手に頭を下げたりしなければならない官僚受難の時代でした。
唐寅のようにのびのびと好きなことをして才能を伸ばした方が、真の勝者と言えたのかもしれません。
現代でも彼は有名かつ大人気です。
その作品は目玉が飛び出るような高値で取引され、映画やテレビドラマの題材にも取り上げられます。
日本でも人気の周星馳が演じたこともあります。
受験勉強の豊かな副産物
科挙に合格しなかったものの、試験勉強を通して文才を身につけた人々は多数おりました。
彼らは文人や画家として名声を得た者も多いのです。
科挙による人材の選抜は、中国文化をより豊かにするという素晴らしい副産物もうみだしています。
明末の馮夢竜は、文才に恵まれており、小説家やエッセイストとして成功をおさめました。科挙を受験し続けるも、どうにも要領が悪かったのでしょうか。唐寅といちがい、科挙の前段階である「院試」合格の「生員」どまりでした。
それでも「生員」の中でも優秀だとみなされた「貢生」として認められます。
そして、還暦を過ぎてからやっと知県として行政に関わっています。
彼は自分の領地内で女児の間引きを禁止するという、人道的な政策を行いました。
馮夢竜は明が滅亡すると職を辞し「明に殉じた忠臣」として名声を高めました。
なんとも人生とは皮肉であると言えましょうか。
そんな馮夢竜の著作は、日本の文芸にも影響を与えています。
落語の「饅頭こわい」、「野晒し」は、彼のまとめた笑話集『笑府』収録の作品を翻案したものです。
華やかな美少年状元としてエリートコースを歩んだ周延儒は、奸臣として名を残す一方。
生員どまりの馮夢竜は、明に殉じた忠臣として名を残しています。
科挙そのものも興味深い制度ですが、合格した者、しなかった者の人生模様もまた、なかなかドラマがあって興味深いものです。
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【参考文献】
宮崎市定『科挙―中国の試験地獄 (中公新書 (15))』(→amazon)










