皆さんは今川氏真(うじざね)に対して、どんな印象をお持ちであろうか?
初めて聞いた方もいるかもしれないが、彼のことを戦国ファンに尋ねると、ほぼ100%の確率で「ダメな君主」と答える。
理由は単純。
父・義元の代には【海道一の弓取り(東海道で一番強い大名)】と称された今川家をあっという間に潰してしまったからだ。
そして、今では細川
それゆえ親子セットで負のイメージがつきまとうこともあるが、そもそも義元は戦国時代を代表する武田信玄や北条氏康と五分に渡り合って同盟を結ぶに至ったからこそ西の尾張へ進出することができ、そこで運悪く信長に破れてしまっただけの話。
破れたことに間違いはない。されど、義元本人に能力が皆無だった――と考える戦国ファンも少ない。
一方で、氏真に対する評価は、前述のとおり辛辣だ。
義元亡き後、信玄や徳川家康に追い出されて妻の実家である北条家へ落ち延び、更にそこから流浪の民となって最終的には文化人として生きた。
毅然で勇猛たる戦国武将のイメージからは程遠い。和歌や蹴鞠などと言った貴族趣味に興じた一面も、彼の印象を悪化させている一因であろう。
では実際のところ、氏真は無能だったのか?
彼が情けない武将だったから今川は滅びたのか?
本稿では、今川氏真にスポットを当ててみたい。
※以下は今川義元の涯まとめ記事となります
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父と違って意外に長生きな今川氏真
今川氏真は、戦国大名・今川義元の嫡男として1538年、駿河国で生まれた。
母は武田信虎(信玄の実父)の娘という当時バリバリの戦国サラブレッド。
実際、人生の前期は大名として過ごし、後期は文化人という数奇な運命を辿っている。
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しかも享年は77歳(1615年)という、当時としては格別な長生きも果たしており、これには「意外だ」という印象をお持ちの方も少なくない。
後に文化人として名を馳せたのには、それなりのバックボーンもある。
彼の出身地・駿河は京都から多くの公家や文化人が招かれる「東の京」であり、今川家は足利将軍家を継ぐ資格も有した家柄だった。
街は京都を模して作られ、その中には京都にある地名も用いられた。
この「小京都」づくりは、義元の母・寿桂尼が公家の出であることや、義元自身が若い頃に京都で過ごしたこと、さらには将軍家に準ずる家柄という自負も起因するのであろう。
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『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)には以下のように記されている。
※先に【意訳】から記しておきますので原文は興味をお持ちの方がお読みください
【意訳】今川氏真は、母が信虎の娘で天文七年(1538年)に駿河で生まれた。
永禄三年(1560年)に従四位下となり、義元が戦死した後は今川領を引き継ぐ。
ところが永禄十一年(1568年)になって武田信玄に攻め入られ、これを必死に守ろうとして戦うも遠江の掛川城へ追いやられ、ついには北条氏康のもとへ逃げ去ることになった。
しかし元亀元年(1570年)、浜松の徳川家康を訪れるとその流落を憐れまれて、近江国の野洲に500石の領地を貰い、慶長19年(1615年)に亡くなる。77歳。
戒名は豊山栄公仙岩院であり、墓は萬昌院にある。妻は、北条氏康の娘(早川殿)だった。
【原文】「氏真 五郎、彦五郎、上総介、刑部大輔、従四位下、入道号宗誾。母は信虎が女。天文七年、駿河国に生る。永禄三年五月八日、従四位下に叙し、義元戦死の後、遺領を継。十一年十二月、武田信玄、駿府に出張し、急に居城を攻。氏真、防ぎ、戦ふといへども、勢い屈して、終に城をさけ、遠江国掛川にうつり、のち、北条氏康がもとにいたりて寓居す。元亀元年十二月、また浜松にのがれ来りて、東照宮を頼みたてまつりしかば、その流落を憐みたまひ、懇に御撫育あり。そのゝち近江国野洲郡のうちにして、旧地五百石をたまひ、慶長十九年十二月二十八日、卒す。年七十七。豊山栄公仙岩院と号す。市谷の万昌院に葬る。後、この寺を牛込にうつさる。室は北条左京大夫氏康が女。」(『寛政重修諸家譜』)
信玄に攻められるとあっという間に本領を逃げ、そして北条や徳川の慈悲でもって、逆に長生きをしてしまう――という冴えないストーリー。
実際のところはどうなのだろう。
仮に額面通りの暗愚だとすれば、なぜそう言われるようになったのか。
支配強化や経済政策に手腕を発揮か
今川氏真は、桶狭間の戦いで義元が討死したために家督を相続したと言われてきた。
しかし現在は、永禄元年頃(1558年頃・学者によって異なる)に義元の跡を継ぎ、駿河国の支配強化や経済政策に手腕を発揮したとされている。
生前相続は当時特別に珍しいことではなく、お隣の北条家でも1559年に北条氏康が北条氏政に家督を譲って隠居している。
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隠居とは、必ずしも一線から身を引くという意味ではない。
たとえば氏康の場合はそのまま小田原城で「御本城様」として政治・軍事の実権を掌握し、息子の氏政を後見するという「ニ御屋形」「御両殿」と称される形態をとった。
今川氏の場合は、隠居した義元が軍事担当(将来の構想を練る役)、宗主の氏真が駿河国を中心とする政治担当(現在の領国を運営する役)であったのだ。
家督を譲られた氏真は、最近は、為政者としての評価が見直されつつある。
これまでは前述の通り政治や戦よりも文芸(和歌、連歌、蹴鞠など)に興味を持つ愚者だと評価されてきた。
特に江戸時代中期以降に書かれた文献では、政治を寿桂尼や三浦右衛門佐に任せて遊興にふけっていた暗君として描かれていることが多い。
【寛政の改革】を推進した老中・松平定信は、自著の随筆『閑なるあまり』の中で、次のように記している。
「日本治りたりとても、油断するは東山義政の茶湯、大内義隆の学問、今川氏真の歌道ぞ」
【意訳】日本を治める立場になったとしたら、足利義政がお茶にハマったように、大内義隆が学問に没頭したように、今川氏真が和歌を作り続けたようにしてはならない
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約1700首の和歌「文化人」的性格は後期の話
確かに今川氏真は約1700首※の和歌を残した。
※観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館)に1658首掲載
しかし、そういった「文化人」的性格は主に後期の話であり、前期では戦国大名であった(ただし、人生前期の駿府今川館には、京都から下向した優れた歌人や蹴鞠の名手がいて、直接指導を受けられる環境にはあった)。
実は「暗君」という評価は、氏真自身だけで片付けられるのではなく、側近にも問題があるのではなかろうか?
義元の側近は、黒衣の宰相・太原雪斎であった。
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氏真の側近とは前述の三浦右衛門佐である。
太原雪斎については軒並み高評価が与えられ、実績も十分に残しているが、一方の三浦右衛門佐については、例えば武田四天王の一人として知られる高坂弾正忠信昌が『甲陽軍鑑』の中で以下のように取り上げている。
「今川氏滅亡の要因は、山本勘介という優れた人物が9年間も駿河国にいたのに、評判が悪かったので採用せず、三浦義鎮のような「愚者」「佞人」(ねいじん・表向きは従順にし、腹の中ではあくどいことを考えている人)を重用して政務を任せたことにある」
更には菊池寛も次のように酷評した。
「彼(三浦右衛門佐)は今川家のキャンサーだといわれている。氏真が豪奢遊蕩の中心は彼だといわれている。義元の時よりは二、三倍の誅求があるのも、皆彼のためだといわれている。義元恩顧の忠臣が続々と退転したのも彼のためだといわれている。今川家の心ある人々は彼の名を呪っている。彼の悪評は駿河一国の隅々にまで響いている」
※菊池寛『三浦右衛門の最後』より(青空文庫)
駿河で起きた政治的混乱の原因は、むろん氏真が暗君であったことは否めない。
さりとて一人っきりで何もかも国をおかしくできるわけではなく、側に仕えた配下の者(三浦右衛門佐)も原因があったようだ。そしてこのとき、更に氏真に対して追い打ちをかけるようなことが起きた。
徳川家康の独立だ。
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