「仙台真田氏」をご存知ですか。
大坂冬の陣で大活躍した真田信繁(真田幸村)が、己の死の直前、密かに脱出させた子供達により、東北・仙台で興された家――。
それが仙台真田氏です。
いかにも隆慶一郎や山田風太郎の小説と思われそうですが、さにあらず。史実であります。
真田氏と言えば、幸村のお兄さんで徳川方についた信幸(真田信之)の信濃松代藩が有名でしょう。
それと区別するため、幸村の子孫は居住地の藩名をとって仙台真田氏と呼ばれる訳です。
では、幸村はいかにして仙台で真田の血を繋いだのか?
万治2年(1659年)3月25日は片倉重長(重綱)の命日。
今回は、大坂夏の陣の最中に死を覚悟した幸村が、大坂城から幼い我が子達を脱出させて片倉重長(重綱)に託し、阿梅の血筋により仙台真田氏を興すまでの経緯を振り返ってみたいと思います。
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阿梅姫と片倉重綱 そして幸村
時は慶長20年(1615)の5月、場所は大坂城外の道明寺。
そう、大坂夏の陣です。
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豊臣秀吉が建設し、冬の陣においては敵にも味方にも天下の名城と讃えられた大坂城が、防衛の要であった二の丸、三の丸の壕を埋め立てられ裸城同然の無残な姿を晒しています。
日本一の堅城と言われた大坂城も、こうなっては野戦にて雌雄を決するのみ。
豊臣方10万、徳川方20万とも言われる日本史上例を見ない大規模な戦が、再び始まろうとしていました。
戦況が一気に激しくなったのは5月5日。
大坂方でその人ありと聞こえた勇将・後藤又兵衛基次が手勢を率いて猛進、激しい戦いの末に徳川方の重要拠点であった小松山を占拠した事から、夏の陣最大の激戦【道明寺の戦い】が始まります。
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勝ちの決まった戦に徳川への義理で出陣してきた諸大名と違い、この後藤又兵衛をはじめとした大坂方の諸将にとって、この戦はシリアスそのもの。
豊臣恩顧でありながら徳川に付いた裏切者達への復讐のチャンスであり、少ない兵で大軍に斬り込み世に名を残す絶好の、そして最後の機会でもありました。
混乱だらけの豊臣方で冷静だった幸村
徳川方は譜代の家臣を従える大名揃い。
対して豊臣方は、数で劣る上にろくに連携も取れない浪人ばかり。
さらに指揮を執るのは戦争経験のない淀の方と豊臣秀頼とあってはもはや敗色は濃厚であり、この上は自らの命を賭けて一か八かの勝負に出るよりないと、それぞれが悲壮な決意を固めたのでしょう、
もともと豊臣方には、味方と連携を取ろうとする気持ちが薄かったようです。
もう少し彼らに協力する気持ちがあればと惜しく思わざるを得ませんが、しかし、この頃の大坂方上層部のダメっぷりを考えると、思わず絶望して敵に突っ込みたくなる気持ちも分かります、うん。
このような混乱を極める大坂方にあって、一人冷静に戦況を分析し、死を覚悟しながらも決して勝利を諦めない男がいました。
「日本一の兵」こと真田幸村です。
彼は慎重であっても臆病ではなく、勇猛であっても蛮勇を振るわず。
寡兵で大軍の猛攻に耐え、徳川本陣に向けて壮絶な突撃を敢行すること三度。
終いには、眼前の松平忠直隊を二つに裂き、旗本勢も蹴散らして敵本陣にまで到達しました。
大将首である家康こそ討ち取ることはできなかった。
されど、並の人間には到底達することのできない武人の境地。
彼の日本一の兵たる所以は、その知勇もさることながら、どんな切羽詰まった状況にあっても決して目的を諦めない、冷静沈着な人格そのものにあると言えるでしょう。
大坂城に残る子供たちだけが
そんな知勇兼備の将幸村にも一つだけ気懸かりな事がありました。
大坂城内に置いてある子供達の事です。
物心ついた時にはすでに九度山に幽閉され、生活が困窮していく中、ただ耐えるより他に選択肢のない人生を送ってきた幼い子供たち。
このまま大坂城が落城すれば、父の敗北に連座して死罪となるか、良くても僧侶にされた上で再びどこかの寺に幽閉され、一生を終えるしかありません。
幸村も人の子の親、胸が痛んだ事でしょう。
長男で弱冠14歳の真田大助幸昌は、武家の嫡男として生まれた定めに従い、父と共にここで討ち死にして果てる事が決まっています。
しかし、他のきょうだい達はなんとか生き延びて貰いたい。
そして、できることならば、いつの日か真田の名を復興してもらいたい。
自ら亡き後、苛烈を極めるであろう豊臣の残党狩りをかい潜り、なんとか子供達を安全な所へ逃がす方策がないものか。
思案する幸村の眼前に、運命の戦場――後藤又兵衛が一人奮戦する小松山が見えてきたのでした。
「鬼小十郎」の異名を戴いた勇士
一方の徳川方――。
この小松山の激戦の中で、猛将・後藤又兵衛と激突したのはどこの家中の者なのか。
徳川方の大名、特に徳川の譜代ではない外様大名にとって「大坂夏の陣」とは、徳川と豊臣という他所の家同士の戦であります。
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むろん「うちは関係ないのでパス」とはとても言えない。
そんな状況で戦場へ出て来たので、「よーし、頑張って武名を天下に鳴り響かせるぞ!」などと考える人は少なかったようです。
幕府を納得させるだけの働きをするのは当然ですが、働きすぎて変に消耗せぬよう、功を焦る部下達を抑えるのに必死になっている家も見受けられます。
このへんの考え方がやはり、江戸時代の大名というよりは戦国末期の百戦錬磨な武将ですね。
そんな訳で、激戦の末、後藤又兵衛を討ち取った部隊の指揮官は、徳川家や他の大名家からは
「すごい武勇だね」
「キミのような家臣がウチにもいればなあ」
「超カッコいい~」
なんて褒められまくって一躍時の人となるのですが、後でお家の人からはこっぴどく叱られます。
その若者の名前は片倉重長(片倉小十郎重綱)でした。
伊達政宗率いる伊達家・片倉隊の大将。
政宗の傅役で兄や師のような存在でもあった名参謀・片倉小十郎景綱の嫡男であり「二代目小十郎」として夏の陣で大活躍しました。
家康からはその武勇を讃えられ「鬼小十郎」の異名を戴いた程の勇士です。
父譲りの知謀と武勇 母譲りの美貌
現代で「片倉小十郎」と言えばお父さんの景綱の方が有名ですね。
しかし当時は、東西の名だたる武将達がぶつかり合う夏の陣で華々しい活躍をした息子・片倉重長の名が一躍全国区レベルになり、たちまち彼は伊達家の看板武士となりました。
この戦において、彼の部隊は後藤又兵衛だけでなく、やはり大坂方で豪将と名高い薄田隼人兼相など数々の武将を討ち取り、彼自身も四つの首級を挙げています。
一兵卒でも殊勲ものなのに、部隊の指揮官が四人も討ち取るなんてすごい武功です。
まあ、後で怒られる訳ですが。
彼は政宗の右腕片倉小十郎景綱の長男として生まれています。
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夏の陣ではすでに誰もが認める伊達家の若きホープとなった彼は、実は生まれる前に一度死にかけています。
まだお母さんのお腹の中にいた頃、お父さんの景綱が
「主家(政宗)に跡継ぎがないのに、我が家で先に子供ができるとはなんたる不忠! 男だったら殺す」
というナゾの忠誠心をカッ飛ばしたせいで、いきなり殺されそうになっていたのです。
さすがに、この訳の分からない理屈には政宗もドン引いて、必死に止めてくれたお陰で重長は一命を取り留めています。
もし主君が止めてくれなかったら夏の陣での活躍も、現代の鬼小十郎祭り(in宮城県白石市)もなかった訳で、人間生きてこそ……とコメントするしかありません。
そんなこんなで生まれる前から(父親が)周囲を心配させて生まれてきた重長は、生まれてみるとこれが父譲りの知謀と武勇、母譲りの美貌+伊達家の重臣片倉家の嫡男という毛並の良さで周囲にモテまくります。
そう聞いてしまうと、ついリア充爆発しろと思ってしまうのですが、なんと言っても時は戦国乱世、モテたのは女性にだけではないようです。
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彼が18の頃。
その道で有名な小早川秀秋に「一度でいいから臥所(お布団)を共に!」と追い掛け回された末、不幸にも小早川さんの根回しを受けた政宗に「どうせ一晩の事なんだし、俺を信じてガンバレ」などと、他人事にも程がある手紙をもらったりしています。
家臣の命は大事でも、貞操はそんなに大事じゃない。
美男が生きることがこんなに大変な時代があったでしょうか。
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おっと、話が逸れ過ぎました。
そんな訳で伊達家中でも将来を嘱望されていた片倉重長ですから、その奮戦はかえって政宗を焦らせました。
父親である景綱は病のため今回の戦には参陣しておらず、万が一、跡継ぎの重長が討ち取られるような事態となれば片倉家の存続に関わる一大事です。
又兵衛を生け捕りにするため、自軍に鉄砲の使用を制限させていた政宗も、逆に又兵衛の凄まじい猛攻の前に片倉隊の小隊長クラスが次々と討死。
それに激昂した重長が劣勢にも関わらず大将自ら暴れまくっているのを見て、こいつが死んじゃったらどうしよう……と気が気ではありません。
さらに、ここでとどめとばかりに危難の片倉隊を助けるため、伊達家の重臣である茂庭家の嫡男・茂庭良綱が又兵衛に向かって特攻します。
片倉家と茂庭家。
伊達の三傑と呼ばれた智・武・政に秀でた伊達家中の三つの家のうち、智と政の片倉・茂庭家の総領息子達ですよ。
相手は「これがこの世の最後の一戦!」と、物狂いして暴れる豪将・後藤又兵衛です。
重長の救援に向かった良綱もあっと言う間に追いつめられ、まさに討ち取られるかと思われたその時、跡取り達のピンチに焦った政宗がここに至って片倉隊に鉄砲の使用を許可し、ついに後藤又兵衛を討ち取ったのでした。
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なんかもう、ラスボスを倒した感のある片倉隊――この戦いは道明寺の戦いにおけるほんの緒戦に過ぎません。
鉄砲の使用許可を得て勢いづいた片倉隊は、その後も数々の首級を挙げていきます。
資料によると、この日に片倉隊が討ち取った首級は91。
この戦で挙げた首級は210以上と、伊達軍全体で挙げた首級の4分の1程にもなります。いやはや、とんでもないですね。
しかし、後藤、薄田の両雄を討ち取った片倉隊も、5~6時間に及ぶ戦闘に段々と疲れが見え始め、勢いが鈍ってきます。
家士を叱咤し、自らも乱戦の中で刃を振るっていた重長は、このとき最前線を維持していたの隊列が突如乱れ、後退を始めました。
乱戦で疲弊した伊達軍にあいつがキター
「つるべ撃ち」という戦法をご存じでしょうか。
馬どころの仙台藩では騎馬八百騎に鉄砲を装備させ、馬上からの集中砲火で敵の戦列を乱し一気に距離を詰めるという戦い方を得意としていたとされます。
「鉄砲の煙の下より直ちに乗り込んで駆け散らす。馬蹄に蹂躙せられて、敵敗績せずと云うことなし」
そう言われた精強な伊達の騎馬鉄砲隊ですが、押し寄せる敵になすすべもなく追い崩されてしまいます。
なぜなら、そこで対峙したのは「白地に六文銭」の旗印。
そう。幸村率いる真田隊の決死の突撃でした。
八百もの銃騎兵から次々と浴びせられる銃弾の嵐の中、幸村は徒の兵に槍を取らせず、兜も着せずに地面に伏せさせ、ひたすら敵が接近して来るのを待ちました。
砲火が途絶え、銃煙が戦場に満ちます。
と、今度は騎馬が雪崩を打って押し寄せる。
当日に発生した濃霧も相まって敵の姿は見えず、ただ敵が挙げる喚声と地面を震わせる馬蹄の響きだけが敵の接近を知らせるのみ。
轡を並べた騎馬の一隊が目前に迫り、真田隊の第一列がまさにその蹄に掛けられようとした時のことでした。
幸村の下知で伏せていた兵が一斉に立ち上がり、槍の穂先を突き出し決死の突撃を始めたのです。
馬は元来とても繊細な生き物であります。
地面から突然現れた槍に驚いて棹立ちになり、落馬する者が続出しました。
横一列だった馬並は乱れ、スピードが失われたたため騎馬の強みである圧倒的な突貫力も同時に喪失。
決死の覚悟で向かってくる真田隊に騎馬がバラバラに応戦すると、戦場はこれまで以上に混乱しました。
こうなれば後は気合いと勢いにまさる方の勝ちです。
武器も持たずに敵の接近を待ち続け、生きるためには死に物狂いで戦うしかない――そんな瀬戸際で初めて立ち上がった真田隊の勢いは凄まじく、戦い続きで疲労していた片倉隊はあっと言う間に七~八百メートルも押し返されました。
真田隊にとって、敵は大軍、しかも騎兵で銃まで装備しています。
対してこちらは新規に雇われた浪人ばかりで、救援するはずの又兵衛もすでに討ち取られ、もはや自分達だけで戦うより他に道がありません。
このような切迫した状況下で、武器も持たされず、一人また一人と味方が銃弾に倒れて行く中、昨日今日出会ったばかりの真田隊の浪人達がどうしてここまで幸村の命に忠実に従うことができたのか。
後藤隊や薄田隊とはまた違う、真田用兵の強さの一端をここに見る思いがします。
幸村の伏兵を警戒した政宗が攻撃を中止
一方、伊達軍の先鋒・片倉隊では、大将の片倉重長が幸村と槍を交えるべく乱戦の中、馬を駆っていました。
しかし、幸村は直接戦うことを好まず、戦場を離脱すると近くにあった丘陵に後退します。
ここで幸村の伏兵を警戒した政宗が攻撃を中止させ、両軍は膠着状態に入ります。
これに対し、徳川方が真田隊を追うよう要請したり、政宗の娘婿・松平忠輝も伊達軍の殿をかって出るのですが、幸村を打ち破る事が目的ではない政宗は兵の疲労などを理由に断っています。
いや、戦ってるのは他の人も一緒なんですけど……などとツッコんではいけません。
前述の通り、外様大名である政宗にとって「大坂夏の陣」とは徳川への忠義を示すために出てきた戦です。
やる気がないのは徳川方にバレているのも分かっているし、そのせいで最前線でコキ使われるのも充分に理解しているのですから、真面目にやるのも馬鹿馬鹿し……いやいや真面目にはやります、ただし、徳川の望まない方向へ。
要は、自軍兵力の温存を第一に考えるのが伊達家の当主として当然の判断です。
追撃しなかった政宗の義にかけた幸村
一方、丘陵に陣取っていた幸村も、他方面に展開していた大坂方の敗走が伝えられると撤退を始めます。
もちろん政宗が追わなくとも、他の徳川方の軍勢は追ってきます。
一説によると、このとき真田隊を追わなかった政宗への恩義と、又兵衛を討ち取り、自分を相手に一歩も退かぬ戦いぶりを見せた片倉重長の武勇に惚れ込み、幸村は大坂城内にいまだ留め置かれたままの愛娘「阿梅」姫を、敵である重綱に預けようと決めたと言われています。
阿梅はこの時12歳。
当時の感覚でも、若いというよりはまだ幼いと言っていい程の子供でした。
しかし、子供であろうが戦国の世の習いは平等に彼女の身にも降り懸かります。
女子の多い幸村の遺児達の中でも「容色群を抜く」「端麗高雅、容顔美麗」などと表現される程の美少女だった彼女。
九度山で失意の内に亡くなった祖父の真田昌幸や徳川本陣への突撃を最後に壮絶な最期を遂げる父・真田幸村だけでなく、秀頼君の自害に伴い自らも自刃して果てる兄・真田幸昌など。
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死んでいく家族達の期待を一身に背負い、燃え落ちる大坂城を脱出して敵将の妻となり、幸村の血筋を後世に残すことを期待されたのです。
彼女は無事に大坂城を脱出し、敵のイケメン武将・片倉重長の陣地へ駆け込む事ができるのでしょうか。
慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣――。
死を覚悟した「日本一の兵」真田幸村は、落城寸前の大阪城から愛娘で超絶美少女と名高い阿梅姫を脱出させようと決心しました。
眼下に広がるは徳川20万の軍勢。
それは5月6日の夕刻――大坂城が落城する十数時間前のことでした。
阿梅姫 わずかな供を連れて大坂城を脱出
死闘の痕も生々しい戦場を、そろりそろりと進む女駕籠がありました。
真田幸村の愛娘・阿梅姫がわずかな供を連れて大坂城を脱出したのです。
今や敗軍の将の娘となろうとしている彼女の武器は「容貌群を抜く」と言われたその美貌と、清和天皇から綿々と続く貴い血筋、そして真田の娘としての矜持のみ。
真田の血筋を絶やさぬため、そしていつの日か家名を復興するため。
今から彼女は真田の尖兵となって伊達政宗麾下の武将に対面して保護を求め、彼らの協力を取り付けねばなりません。
彼らの庇護を受けることができれば、彼女の縁者もまた、伊達家を頼って仙台に落ち延びることができるからです。
阿梅は父・幸村とその正室・大谷吉継の娘を母とした7人兄弟の長女でした。
父と兄が討ち死にすれば、明日からは彼女が姉弟の中の一番の年長者であり、幼い弟妹は彼女が守らなくてはなりません。
特に、未だ4つの大八は、幸村と母の血を継ぐ唯一の男子です。何に替えても、彼女は弟を守らなくてはなりませんでした。
敗軍の将の娘が、敵に嫁すことで家族を守る。
12歳の女の子が負うには余りにも重い責任と多くの命が、彼女の双肩に掛かっていました。
片倉重綱の前に現れた可憐な少女・阿梅姫
一方、今日の快勝に湧く伊達家・片倉隊の陣地では、明日に備えて具足や武器の手入れをする者、今日の戦果を報告する者、負傷者の看病に当たる者などで、陣中はごった返していました。
しかし、どの顔も表情は晴れやかで活気に満ちています。
それもそのはず、片倉隊は今日の戦で数々の武功を立て、彼らの主である片倉重長は、大将自ら四つの首級を挙げる働きを遂げたのです。
主君伊達政宗公はもとより東軍の総大将である徳川家康公からも直々に褒賞と感状を頂戴するほどの大功でした。
明日の戦でも大いに戦って戦果を挙げてやるぞ――そんな雰囲気が陣中に満ちていました。
そんな時です。
片倉隊の陣の前に一丁の女駕籠が到着します。
駕籠の側には東軍でも大坂方との交渉に当たっていた武士が付き従っており、彼らから差し出された書状を見て、重長は目を見張りました。
書状の差出人は今日の戦闘で激しく干戈を交えた真田幸村その人。
内容は、重長の戦場での活躍を見込んで、娘の阿梅姫を預けたいとするものでした。
「幸村一人の娘あり、その愛いわゆる掌上の珠にひとし、しかるに落城も近きにあり、瓦となりて砕けしむるに忍びず。
幸村思いらく、城上より天下諸大名の陣屋を見渡すに、托するに足るるもの一人公(重綱)あるのみ。
願わくは我が請いを容れて愛子を托するを得んと」
(矢野顯蔵著「仙台士鑑」より抜粋)
数時間前には敵として激しい戦いを繰り広げていた大坂方の名将・真田幸村が、
自分を見込んで愛娘を託したいと願っている――
そうと知った重長は、大きな栄誉と重責に身震いする思いでした。
さっそく駕籠の中にいた姫を呼びにやると、連れて来られたのはまだ12~3の可憐な少女です。
これが戦国期の血で血を洗う時代を生きてきた彼の父、片倉小十郎景綱や主君伊達政宗であったなら、また違う感想を持ったかも知れません。
重長は戦国の世が終わろうとしている時代に生まれ、伊達家の重臣の子として大事に育てられてきた、生まれながらのプリンスです。
若さも手伝って父や主に比べるとだいぶ、いや極めて素直でした。
彼は頼れる家族もなく、身一つで他家に送られてきた小さな姫にいたく同情し、その保護を堅く約束。
「なにぶん戦場ゆえ……」と照れながら、瓜やら煮豆やらを差し出し、「奥州は遠い所ですが……」などと頑張って会話に努めるやらで、うん、ほんと良い人でした。
重長をはじめとした片倉隊の面々が、男だらけのムサい戦場に突如現れた天女のような美しい少女にアワアワ……する一方で、阿梅姫は懐に懐剣を忍ばせ対面したと言います。
年頃の娘が落城のどさくさに紛れて身ぐるみ剥がされ、乱暴された上で人買いに売られるなど珍しくもない時代の話です。
たとえ上手く戦場を脱して片倉の陣に入ることができても、片倉の大将が阿梅姫を徳川に差し出さないとは限りません。
幸村が死を覚悟して臨む明日の決戦を前にその娘が徳川に捕らえられるなど断じてあってはならないこと。
いざと言う時は真田の名を汚さぬよう、未練なく自害せねばならない。
そんな死を覚悟して重長との対面に臨んだ阿梅姫の緊張はピークに達していました。
しかし、今、彼女の前でぎこちなく接待に努めている男は、整った顔にあちこち擦り傷をこしらえ、さらに足も脇腹も痛めているようで、なるほど今日の戦闘では激しく戦ったのだろうと推察することができる程の惨憺たる有り様ながら、父・幸村から聞かされていた荒武者のイメージとは遠く掛け離れておりました。
若干挙動不審になりつつも、なんとか姫を励まそうとする男から醸し出される純朴で温厚な雰囲気。
姫とその従者達の間にも、ようやくほっとした雰囲気が生まれたのでした。
しかし、これが功名や褒賞欲しさに姫を徳川に売るような人だったらどうなっていたか。
この辺り、幸村の人を見る目は確かですね。
お父さん安心して突撃しました
愛娘が片倉家に無事保護された事を聞いて、幸村は完全に後顧の憂いがなくなりました。
明けて7日の【天王寺口の戦い】。
徳川本陣へ向けて決死の総攻撃を敢行、寡兵でもって松平忠直隊や本陣を守る旗本勢に突撃すること三度、とうとう敵本陣にまでたどり着きます。
三方ヶ原の戦い以降、一度も倒された事がなかったという徳川の馬印(大将の存在を示すための印)をも倒す獅子奮迅の活躍の後、ついに力尽きて壮絶な最期を遂げたのです。
運命に翻弄され、それに抗い続けた男の凄絶な人生は、敵である東軍の諸大名の間でも話題になります。
「真田日本一の兵 いにしへよりの物語にもこれなき由」(島津忠恒)
「左衛門佐、合戦場において討ち死に。古今これなき大手柄」(細川忠興)
かくして徳川の世にあっても講談や軍記物として広く流布するのです。
5月7日深夜。
大坂城の落城と共に大坂夏の陣は終わりを告げました。
戦う父や兄の身の回りの世話に奔走し、徳川の大砲に怯え、侍女や家臣達と共に籠もった大阪城が燃え落ちる――戦闘に直接参加しなかったとは言え、心は共にあったはずの阿梅は、どんな気持ちでそれを見つめていたでしょう。
翌8日、豊臣秀頼、淀の方は自害。
阿梅の兄である真田大助幸昌もまた、彼らに従って殉死しました。
真田は、豊臣の譜代の家臣ではない。
まだ14の子供ではないか。
内応を疑われていたというのに、そこまで忠義立てする程の義理があるだろうか……。
等々、周囲の人は彼の自害を止めようとしましたが、彼は父の遺命であるとして、静かに西に向かって一礼すると、見事に切腹して果てたと、今に残る書物は伝えています。
他にも主だったところでは……。
・11日 大坂方の武将であった長宗我部盛親が捕らえられる。
二条城門外に縛り付けられ晒された後、15日に6人の子女と共に斬首。
・12日 秀頼の妾腹の娘が捕縛される。
秀頼の正室で家康の孫娘であった千姫の必死の嘆願により、落飾、助命を許される。
・14日 大坂町奉行であった水原石見守が潜伏先で藤堂高虎の家士と交戦.
三人を斬り伏せ、自身も斬り死に。
・23日 秀頼の遺児である8歳の国松が捕縛。
六条河原で処刑される。
次々に徳川方の捜査網にかかり、処刑されていきました。
名のある人は、捕らえられてから処刑までの記録がありますが、この他にも毎日50から100という数の豊臣に与した人々が捕らえられては処刑され、伏見から京都にかけての街道筋には、およそ2万もの首が晒されたと言います。
残党狩りを逃れて所領の白石に無事到着
かように豊臣の残党狩りが苛烈を極める中。
徳川への義理を果たし、片倉隊の労あって大功を立てた伊達軍は、徳川秀忠の帰陣に伴って9日朝に難波を発し、夕方には京都の伊達家所有の屋敷に入りました。
伊達の軍勢はこの後しばらく京都に滞在した後、主人に従って仙台領に帰還しています。
隊伍の中に阿梅姫を隠し、奥州までの数々の関所を潜り抜け、片倉重長は片倉家の所領である白石に戻ると、そこに阿梅の弟妹達も呼び寄せ、男子は片倉の姓を名乗らせて伊達家に仕官させ、女子は輿入れ先を探してやり、かいがいしく世話を焼き続けます。
重長は、幼い上に身分的にも上である(※幸村は真田氏の嫡男ではありませんが大名格の家柄であり、片倉氏は大名に仕える陪臣です)阿梅姫を側女とすることを憚ったのか。
彼の正室が阿梅を妹のように可愛がるに任せて放置しており、彼の正室が病を得て他界するに至って初めて阿梅を室に迎えています。
阿梅を可愛がりに可愛がった彼の正室が、死の間際
「私の死後はどうか阿梅殿を室に入れて下さい」
と遺言を遺す程だったと言いますから、よほど阿梅を信頼していたのでしょう。
この後、二人は34年の間を夫婦として仲睦まじく暮らします。
その間、片倉家にちょっとした内紛があったり、彼らの主である政宗とその庶子・秀宗の間に一悶着あったりと、世間は決して平穏無事とは行きませんでした。
しかし、二人は力を合わせて様々な難事に立ち向かい、片倉家を支えています。
万治2年(1659年)3月25日、片倉重長が76歳でこの世を去りました。
夫の菩提を弔っていた阿梅もまた、その二十数年後に眠るように息を引き取ります。
12の年に奥州に匿われてより、戦とは縁遠い生活を送ってきた阿梅。
生まれ育った西国や少女の頃に見た壮麗な大阪城、そしてそれが燃え落ちる光景は忘れがたいものだったのでしょう。
「少しでも西国に近いところに埋めて欲しい」という彼女の遺言で、彼女の墓は奥州街道の傍、白石から遠く西国を望むようにして作られています。
幸村の死から100年後に真田家復興の動きが
時は流れ、正徳2年(1712年)。
大坂夏の陣から100年近くの月日が経ったある日のこと。
伊達家中にあった片倉辰信という一人の武士が、片倉家から独立し、かつて彼の先祖のものであったという姓への復帰を認められています。
彼が名乗った姓は「真田」――。
そう、阿梅姫が我が身に替えても守ろうとした、幸村とその正室の血を継ぐ唯一の男子、当時4つであった真田大八の息子です。
仙台真田氏はその後も仙台藩に仕えて数々の業績を残し、その血統は明治維新で仙台藩の砲術指南役として活躍。
平成の世の今も続いています。
寡兵で徳川の大軍に立ち向かい、壮絶な突貫攻撃の末に果てた幸村。
敵兵や無頼の輩がうろつく戦場を決死の覚悟で渡りきり、片倉の陣地に駆け込んだ幼い阿梅姫。
彼らが望みを託した白石の地には、今も真田の名を残す史跡が数多くあり、彼らが生きた激動の時代の気風を現代に伝えています。
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【参考】
小西幸雄『仙台真田代々記』(→amazon)
紫桃正隆『仙台領戦国こぼれ話』(→amazon)
戦国歴史研究会『戦国闘将伝十文字槍の天才軍師真田幸村』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)















